相応しい時
杏奈は帰りの馬車の中でアンドリューからされた話をアルフレドにさっそく相談した。
「君はどうしたい?」
話を聞いてくれたアルフレドは一番にそう問い返してきた。杏奈は「私は」と口を開いたものの、その先を言い淀んだ。せっかく教えてもらったというのに女中の仕事を途中で投げ出すことは心苦しい。けれどザカリ―の仕事に微力でも関われることに喜びを見出しているのもまた事実だ。自分が必要だと言ってもらって自分の力で勝ちえた初めての居場所ができるようで奮い立つ気持ちもあった。
迷うような態度をとる杏奈に向かってアルフレドは笑いかけた。
「自分のしたいことをすればいいんだよ、アンナ。家で仕事をしてもらっているのは、君が将来一人立ちするときに女性一人で稼いでいける仕事を身につけるために良いと思ったからだ。それに家のことなら仕事にしなくたって生きて行くのに役に立つだろう?これでなければいけないということはないんだ。ザカリ―のところにいれば、また違う仕事も見えてくるだろう。その中に挑戦したいものも見つかるかもしれない。何かあれば、やってみたらいい。なんたって君はまだ若くて、私の自慢の娘なんだからなんだってできるさ。」
アルフレドはいつだって杏奈のことを本当の父のように、あるいはそれ以上に考えてくれている。杏奈は彼の思いやりに感謝しつつ、その恩を思えばこそ、女中としての仕事を放り出すことに罪悪感を覚えた。そう伝えてみると、アルフレドは眉をきゅっと寄せた。
「そんな他人行儀な、アンナ。礼儀正しいのも度を越すと傷つくじゃないか。」
それからすぐにアルフレドは緑色の瞳にきらきらといたずらな光を踊らせた。
「私は君の父親なんだから、娘のために帰るところを用意しておくのは当然だ。恐れずになんでも挑戦したらいい。」
反りかえりながらおどけた様子で言うので、杏奈はおかしくなってしまった。そして何の気なしに「ありがとうございます、おとうさん」と頷いた。それを聞いた瞬間にアルフレドはぱっと笑みを消して、杏奈の手を握った。
「もう一回、言っておくれ。」
「え?ありがとうございます?」
「その続き。」
「おとうさん。」
杏奈が言葉の意味も深く考えず、そう繰り返すとアルフレドは、ぱあっと明るい表情を浮かべて御者台にいる執事に向かって「聞いたか。お前。今聞いていたよな!」と叫んだ。
「何ですか、旦那様。盗み聞きなんてしておりませんでしたよ。」
執事からそんな返事が返ってくるとアルフレドはもどかしそうに叫び返した。
「今、アンナが私のことをおとうさんと!」
そこまで言ってアルフレドはアンナの両手をもう一度握りしめてぶんぶんと振った。
「ありがとう、アンナ。ありがとう。」
もう涙目になってしまっているアルフレドを見て、杏奈はどうやらアルフレドが「おとうさん」という言葉に感動していることは分かった。それでも、その喜び方についていけずに「いや。はあ。」となんとも気の無い返事で頷くしかできなかった。
馬車が家に着くなり、アルフレドは馬車を飛び降りて「アディ、アディ!」と叫んで家に飛び込み階段を駆け上って行ってしまった。
執事は置き去りにされてしまった杏奈の元に歩み寄って、驚いている彼女に家中の皆で一年近く守っていた秘密を教えてやる。
「旦那様は、ずっとお嬢様から「おとうさん」と呼んでもらえるのを待っていらしたんですよ。」
「え?」
「あんなに有頂天になってしまって。転ばないといいですが。」
そう言いながら執事も嬉しそうだ。
「ああ、それからえこひいきはいけませんよ。夫婦円満にお嬢様も協力してくださいますね?」
執事の言葉の意味は、足音が二倍になって戻って来た時には杏奈にも理解できていた。
「アンナ。もう一回聞かせて。この人の嘘じゃないの?」
目を輝かせて息を弾ませたアデリーンに杏奈はにっこり頷いた。
「はい、おかあさん。おとうさん。」
二人の顔を順番に見ながらそう言うと、アデリーンとアルフレドは顔を見合わせてギュッと手を握り合った。大騒ぎしていた主人の様子に、なんだなんだと集まっていた使用人達が一斉に拍手して叫び声を上げるのを聞いて、杏奈は自分だけが気がついていなかったのだと思い知った。モイラもミランダも目に涙を浮かべているし、マリとメグは抱き合って泣いている。庭から飛び込んできたらしい泥だらけの靴の庭師は、これまた泥だらけの手袋で目元をぬぐって顔を黒くしてしまっている。
「ようし、今晩は御馳走だ!」
コックが宣言するともう一度歓声があがった。
「ああ、あなたは飛び跳ねるなら庭に戻ってからにしてくださいよ。ほら、泥が・・。」
執事が苦笑いしながら庭師を追い出していく。皆が喜ぶ様子を圧倒されて見ながら杏奈は、自分はずっとこの感情に気付かずにいたのだと驚き、そして更に気がついた。
(私、いつも自分のことばっかり考えていたんだわ。)
一人でやっていけるようにと頑張っているつもりだった。周りの助けに感謝もしていたけれど、まずは自分をしっかりさせることが一番だと思っていた。だから、自分のことばかり考えていた。これほど自分を大事にしてくれている人が何を求めているか、相手の気持ちを考えようとしていなかった。おとうさん、おかあさんと呼ぶだけで目を真っ赤にして喜んでくれるなんて。こんなことならもっと早くにできたことなのに。
これは呼び名のことに限らないのだと思う。ここに家族と言ってくれる人がいるのに早く出て行くことばかり考えていたのは、本当に誠実なことだったのだろうか。差し出してくれる手を申し訳ないからと断ることは礼儀正しいのではなく、相手の好意を無下にしているだけだったのではないだろうか。杏奈はアルフレドとアデリーンの様子に、自分が思っているよりもっとずっと愛されていることを思い知り喜びと申し訳なさで自分も泣きそうになった。
「あの。私、ずっと一人で生きて行かなければって言うことばかり考えていました。ずっと皆さんに負担をかけるだけでは嫌だとそればかりで。先のことを考えているようで、目先しか見えていなかったんです。しかも自分のことしか。」
声をかけるとアルフレドもアデリーンも杏奈の言葉を口を挟まずに聞いていてくれる。
「でも、なんでも自分でできるようにならなければと気負い過ぎていたのかもしれません。助けてくれる皆の気持ちを考えてなかった。こんなに大事にしてもらっているってことを本当には分かってなくて。私はきっと心が足りてなかったんです。記憶が戻っても、新しいことを勉強させてもらっても心の中身が空っぽのままだった。」
だからこそ、みんなが気付いていたようなアルフレドとアデリーンの愛情に鈍感だったのだ。
「おとうさん、おかあさん。ごめんなさい。」
俯いた後でそっと自分達の顔をうかがう杏奈を見て、アデリーンは悪いことをしてしまった子どもみたいに情けない顔だと思った。許して、嫌いにならないでと言う声が聞こえるようだと幼い頃の甥っ子達の顔を思い出して彼女は微笑む。
「謝ることなんて一つもないわ。」
「そうだよ、アンナ。それにね、君は最初から空っぽなんかじゃないよ。子供達を放っておけなかった優しい気持ちは誰にもらったものだい?毎晩、寝る間を惜しんで子供たちに歌ってあげた歌は誰に教わった?ここなら、正直、君は遊んで暮らしていける。それなのに一人で生きて行かなければと毎日働く責任感はどこで学んだんだい?」
アルフレドは優しい眼差しで愛娘を見つめる。
「それは君を愛して育ててくれた人達がくれたものだ。そしてちゃんと君の心の中にある。もしかしたら忘れてしまったかもしれないけど失くしてしまったわけじゃない。君だけの大切なものだ。そうだろう?」
思い出しても焦がれることもなく、会いたいとも思わなかった遠い世界の父や母の姿が浮かぶ。記憶は一度は失われ、気持ちは遠ざかった。でも愛されていたことは間違いない。子供達のためと子守唄を歌うたびに、不安を癒し、心を落ち着かせていたのは自分の方だったかもしれない。あの歌声に込められていた母の思いが歌詞に、旋律にのって心に刻み込まれている。大きな男性の手に頭を覆われてほっとする。それはセオドアの手だからだと思っていたけれど、それだけではなく、きっと父の手のぬくもりと幼い自分が感じていた彼の愛情の記憶があるから、安心する。
そう思ってもいいのだろうか。世界を越えるたびに何もかもを失ってしまったわけではなく、少しは残るものもあったのだと。自分の胸の中は空っぽになったのではなかったと。そしていつか誰かに大切にしてもらって受け取ったものを、ここにいる新しい家族が愛してくれていると思っていいのだろうか。
そう思ったら、杏奈は自分のことがこれまでよりずっと大切に思えてきた。何も知らない、何もない。空っぽだった自分のことを本当はずっと頼りなく、情けなく思っていたのだとやっと気がついた。そうじゃないと言ってもらって初めて、自分が自分をどう思っていたのか知ることができたのだ。
アデリーンは杏奈の肩を抱き寄せてその小さい頭を撫でる。
「アンナ。あなたに何があったか私達は全てを知っているわけじゃないわ。だけど、私達は今のあなたが好きだし、だからあなたの父や母になれたらどんなにか嬉しいだろうと思ったのよ。ねえ、何も謝ることはないでしょう?私達はあなたが来てくれただけで嬉しいのですもの。」
「ありがとうございます」
杏奈が小さく声を震わせると、アデリーンはちょっと頬を膨らませた。
「もう。お礼なんていいのに。」
「アンナ、おとうさんと呼ばれたいなんて私達の我儘なんだから、そんなに小さくなることはないんだよ。それに、この時間は私達に必要なものだった。そうだろう?誰かの好意を素直に受け取るには信頼関係が必要だし、一朝一夕に家族になんてなれないさ。段々、作り上げていけばいいんだよ。」
だから、この話はもう終わりにしようとアルフレドは言った。杏奈は言葉にしきれない感謝をこめて皆に一度深く頭を下げた。
「本当に律儀すぎるわ。アンナ。そういうのは嫁入りのときにすればいいのに。」
ため息交じりで、しかし笑ってアデリーンは杏奈に顔を上げさせた。
「あの、おとうさん、さっきの話なんですけど。」
玄関先でいつまでも立ち話もないと居間に場所を移してから杏奈はアルフレドに呼びかけた。今先ほど玄関先で爆発していたアルフレドとアデリーンの喜びを見たおかげでアンドリューとザカリーからの依頼の件に答えを出すことができた。やはり騎士達と一緒になって考えている新しい避難所の作り方は形になるまで見届けたい。ザカリーが求めてくれる限り自分にできることを精いっぱいやりたかった。
そう告げると、アルフレドはモイラに声をかけた。話を聞いたモイラは元々四人の女中で切り盛りしていた家なのだから、たまに手伝ってくれるだけで十分だとあっけらかんと笑った。
「すごいじゃないか、騎士団付きの文官なんて望んだって簡単にはなれないんだよ。私達も鼻が高いよ。大事な仕事なんだろう?しっかり働いておいで。その仕事が終ってまだ女中修行を続けたいなら、戻ってくればいいさ。もうそんなにたくさん教えることはないけどね。」
モイラに呼ばれた他の三人も拍子抜けするほどにあっさりと「行ったらいいわ」と言ってくれる。
「どうせ通うなら良い男でも捕まえてきてくれてもいいのよ。若い人より30代後半の独身がいいわ。この間の貸し、それで帳消しにしましょ。」
「ミランダ。それアンナのためじゃなくてあんたの趣味じゃないの。」
「それはそうよ。アンナはもう、ねえ?」
ミランダは流し目で杏奈を見る。杏奈は予期せぬ展開に誰か助けてくれないかと無為に左右を見回した。誰もが杏奈とセオドアに何かありそうだとは思っている。けれど誰にも助けてもらえなかった杏奈が妙にしょんぼりと視線を逸らすので、それ以上からかえなくなってしまった。
「とにかく。仕事をもらえたんだから、余計な心配はせずに働いてきたらいいの。ね。」
アデリーンがやや強引にまとめる。
「物事には相応しい時というものがあるわ。心のままに、何事も焦らず、ね。」
それは彼ら家族のことか、仕事のことか、それともセオドアのことか曖昧にしながらアデリーンはにっこりとほほ笑んだ。