馬の骨
ある日、杏奈が帰り支度をしているとまたアンドリューが訪ねてきた。珍しく手ぶらでザカリーではなく真っ直ぐ杏奈に向かってくる。
「アンナ。少し時間をもらえるかな。」
アンドリューに問われて杏奈は気遣わしげに扉を見た。扉を見ても姿は見えないが今日はアルフレドと一緒に帰ることになっており、彼女が行くまでアルフレドは自分の部屋で待っていると言っていた。
「少しなら。隊長さんと帰る約束をしていて、たぶん待って下さっているので。」
「大丈夫。そう長くはならない。それにアルフレドには十分仕事を渡してあるから、暇を持て余すことはないと思うよ。」
そう言うとアンドリューは笑顔で杏奈にもう一度座ってほしいと椅子を示した。ザカリーはこれからアンドリューが何をするのか分かっているようで特に慌てた様子は無い。杏奈が落ち着いたのを見るとアンドリューが切りだした。
「今日は改めて君にお願いがあるんだ。これまでにアンナに力を貸してもらったおかげもあって、第三師団のための新しい作戦、というと大袈裟だけど、新しい活動の指針のようなものができてきた。これからは、それに基づいて具体的な土地ごとに細かい計画を用意する予定だ。そうなると、一つ一つの地図を見て、人口を見て。想像がつくだろう?どうしても人手がいる。新しい者も入れる予定なんだが、アンナ、できれば君にも手伝ってほしい。騎士にはなれなくても、こういう仕事だけなら文官という職位で給料を払って正式に働いてもらうことができるから欲を言えば女中は少しお休みして、こちらを本業にしてもらえると有難い。」
杏奈はまじまじとアンドリューを見返した。ずいぶん深く関わらせてもらっていると思ってはいたが本当に雇ってもらえるなんて考えていなかった。
「そんな。いいんですか?だって、これはとても大事な仕事ですよね。私みたいなどこの馬の骨か分からないような者に国の一大事に使うような計画を知らせてしまっては問題があるように思いますけど。」
杏奈の言葉にアンドリューも部屋に残っていた三人も驚いたように表情を崩した。
「ふふ。自分で馬の骨とはね。アンナ。君の身元はアルフレド・ヴァルターが保証している。忘れているのか知らないが、あれでもアルフレドはヴァルター伯爵の嫡流だぞ。ヴァルター家といえば王国でも指折りの名家だよ。君の身元は全く問題ない。」
笑ってしまっているアンドリューの言葉に続けてザカリーが渋い表情で杏奈に諭した。
「地位はあるに越したことはないかもしれませんけれど。それよりも実際に貴方の人柄を見て推薦したのは私ですよ。貴方は誰の子であったとしても、十分に信頼にたる女性です。馬の骨なんて卑下してはいけません。」
その言葉にはアンドリューも同意を示した。ザカリーが推薦してくれたという言葉に杏奈は驚いた。そんな話が進んでいるとは全く知らなかった。すぐ傍で一緒に働いていたザカリーが評価してくれたことは嬉しい。しかし、ここで「はい、そうですか。」というには不安が大きすぎた。
「えっと、でも私まだ文字を書くのも遅いし、難しい言葉もちょっと分からないものが。地理も不得手ですし。」
もったいない程の褒め言葉に恐縮しながらも、杏奈は他に自分が相応しくないと思うところを思い浮かべて並べる。
「アンナ。」
ザカリーは、もごもごと言う杏奈を遮った。
「無理強いするつもりはありません。でも、貴方に居てもらえたらとても力になると判断して私が師団長に貴方を正式に雇ってもらえるようにお願いしたのです。能力の問題からいえば、きっときちんとやり遂げてもらえると信じています。」
ザカリーはこれまで杏奈と何度も話をして彼女が何をどれくらい知っているか。例えば王国の気候風土について非常に理解が浅いこと。その反面、病魔を防ぐ方法について詳しいこと。そうしたことを良く理解しているし、読み書きの早さも十分確認する機会はあった。その彼が、今の杏奈で良いと言ってくれているのだから、それを超える理由はない。
「もちろん、こちらの知らない事情も色々あるだろうし本当に無理にとは言わないよ。」
アンドリューは杏奈に逃げ道を示しながらも、自分の意思も曲げずに伝えてきた。
「でも、もし引き受けてくれたら本当に助かる。君の知識はとても貴重だ。」
杏奈は完全に怖気づいていた。自分を高く評価されたことに喜んでいいのは分かるのだが、大切な仕事だと分かるからこそ自分にできるのかと不安になる。本当にここで騎士達に混じって毎日きちんと仕事ができるだろうか。それに女中として家で任せてもらっている仕事を辞めてしまわなければならなくなる。簡単にやりますなどと言ってしまって、騎士団の仕事が上手くできなくて首になったりしたら、家でもここでも中途半端な奴だと思われてしまうだろう。そうしたら、すっかり自分の居場所がなくなってしまう。考えなければいけないことがあれこれあるような気がするが、杏奈の頭は全くまとまらなかった。
「お話はとても有難いと思います。でも、少し考えさせてもらってもいいでしょうか。急なことで驚いてしまって。」
杏奈が心底申し訳なさそうにアンドリューとザカリーを交互に見ると、二人は共に頷いた。
「もちろんだとも。アルフレドとも相談したらいい。返事は早い方がこちらは嬉しいけど、必要な人と相談してから教えてくれたらいい。」
王国騎士団の文官となることの意味もきっと杏奈は分かっていないのだろうとアンドリューはアルフレドの名前を出した。彼ならおおよその給料のことや、辞めた後でも王国騎士団の仕事をしていた経歴が次の仕事を探すときにとても有利に働くことを杏奈に分かりやすく教えてくれるだろう。
「引きとめて悪かったね。そういうわけだから考えてみてくれ。他に聞きたいことがあったらいつでもザカリーに聞くと良い。もし引き受けてくれたら彼が君の上司になるから。」
「はい。ありがとうございます。」
現金なもので、部屋を出たら急に嬉しい気持ちが膨らんできた。突然示された予想もしなかった未来を思い描いてふわふわした気持ちでアルフレドの元へ向かう。もしかすると、これは素晴らしい機会を得たのかもしれない。ザカリーと一緒なら仕事への不安も軽くなる。何より将来、困っている人達の役に立つものに関われるということ自体がとてもやりがいのあるものだ。
(でも、隊長さんやモイラさん達はどう思うかしら。ちょっと顔を出して騎士に気にいられたって浮かれていると思われたら悲しいし。あんまり嬉しそうにしない方がいいのかな。せっかく一から女中のお仕事も教えてもらったのに投げ出すことになってしまうし。やっぱり断った方がいいのかしら。)