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愛していると言えば、嘘になる  作者: 青砥緑
試されるとき
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 ザカリーの仕事場にはときどきアンドリューが訪れる。大抵は先に出しておいたザカリーの書類を返却しがてら様子を見に来るだけなので、世間話をする暇はない。杏奈も会釈する程度だ。それなら他の部下に持って来させれば良さそうなものなのに師団長自らが足を運んでくるのは、果たして大怪我から復職して間もない大事な部下であるザカリーが心配だからか、彼に任せている仕事が重要だからか、あるいは杏奈に会うのが目的か。それは同室の二人のザカリーの部下の間だけで小さな賭けの対象になっている。


 ある日ザカリーを尋ねてきたアンドリューは扉を開くなり、もう夏の気配がするというのに濃紺の制服を脱がないザカリーを目に留めてため息を漏らす。濃紺の上着が正規の制服ではあるが、夏場は薄手の白いシャツに切り替えることが認められている。だというのに、彼は今もきちんと正規の制服を着ている。

「おい。いい加減に夏用の制服に変えたらどうだ。見ている方が暑い。」

 この部屋の窓を開かないのは彼の執務のために必要だからだとアンドリューも了解しているが、結果的に部屋が暑いのは否めない。だからせめて薄着をして調節した方がいいのに、この頑固者めと心の中でザカリーに文句を言う。

「まだ平気ですよ。」

 額に汗を浮かべながらも、平然と言い返す部下にアンドリューは眉を上げる。ちょうどザカリーの向かいにいた杏奈に視線をやって「こんなのの前に一日座っていたら暑苦しいだろう。」と問いかけた。アンナは「そうですね。」と考えるようにザカリーの手元に目をやった。彼女もザカリーの服装が気になってはいたが、失礼にあたるのではと言い出せないでいた。しかしやはり汗は手にも滲んでいるようで下敷きにされている紙が水を吸ってよれている。暑いのは間違いないのだ。しかし誰が言ってもザカリーは上着を脱ごうとしない。彼が濃紺の制服を脱ぎたくないのなら、部屋の方を涼しくするしかない。アンドリューに話を振られたのを良い機会に、ここのところ考えていたことを話してみた。

「重石があったら、窓を開けてお仕事できるんじゃないかと思うんですけど。」

「重石?」

 彼らが思い浮かべる重石は農地で軽い作物が飛ばされないようにする大きな石や、大がかりな洗濯物を押さえておく武骨な石だ。アンドリューとザカリーが何のことかという顔をしている間に杏奈はちょうど手近にあった丸い石を薄い紙の端に置いて見せる。

「例えば、そうですね。これくらいの重さなら。」

 薄青いその石は遊びにきた騎士の一人がどこぞの土産だと置いて行ったものだ。杏奈はその紙の上で片手で文字を書く動作をしてみせた。

「なるほど、左手の代わりですか。」

 ザカリーはその様子で杏奈の言いたいことを理解した。左手の代わりに何かで紙を押さえてやれば風で紙が飛ばされる心配がなくなって窓も開けられる。頑なに濃紺の上着を着ているのは、薄いシャツでは腕を通すことができない左袖が特に目立つからであって、本当は彼も暑い。自分のせいで暑い部屋に押し込められている二人の部下と杏奈にも申し訳ないとは思っていた。

 彼は杏奈が示した石を片手でくるりと回すと自分の書類の上に下ろした。

「軽すぎますか?」

 試し書きを始めたザカリーの手元をみつめて杏奈が声をかける。少し紙が動いてしまっているようだ。

「そうですね。でも発想は良いと思います。このくらいの大きさでもう少し重い物があれば。書きものもしやすそうだ。」

「金属が良いと思うんですけど。重たいし。こんな形のものないですよね。」

 杏奈が部屋の中をさらに探すように視線を巡らせていると、ザカリーが不意に「ああ、これがいいかもしれません。」と何かを机の引き出しから取り出した。

 そのままポンと紙の上に乗せて、試し書きをし満足げに頷く。

「これなら重みも十分です。」

「お前、それは。」

 アンドリューが良いのかと問うようにザカリーを見たのは彼が取り出したものが鍔だったからだ。彼が使っている剣の鍔で、戦いの折に相手の剣を受けて割れてしまったものだ。割れながらも相手の剣先を逸らしてくれた鍔のおかげで命拾いしたと、その後大事にとっていたものだったはずだ。

「ちょうどいい重さですし、大きさも邪魔にならない。問題ありません。何より私の左手の代わりに相応しい。」

 そう言って満足げに頷くザカリーを見て、アンドリューは彼が少し変わったと思った。その変化は良い変化に思える。ザカリーは他の書類の上にも適当な石や重石になる物を置くと立ち上がり、窓を開けに行った。久しぶりに窓を開くと爽やかな風が吹き込んでくる。白いカーテンが大きく膨らんだ。

「ああ、風が入るといいですね。」

 ザカリーは窓辺に立って目を細めた。ほんのちょっとした工夫で二度と開けられないと思っていた窓が開ける。閉じ込められているようだった部屋が外の世界と繋がる。もう何度も杏奈との会話の中で、こういう思いをした。簡単なことで、彼が乗り越えられない、手をつけられないと思っていた問題を越えて行く。本当に不思議な娘だ。額に汗してまで意固地に冬服を着ている頑なな自分が馬鹿らしくなってしまう。

 アンドリューはもう上着を脱げとは言えなくなって頭を掻いた。


(窓が開けられるようになって、少しは改善したんだから今日はいいとするか。)


 アンドリューや他の騎士もザカリーが上着を脱ぎたがらない理由は察しがついている。軽い袖は風に良くなびく。それが嫌なのだろう。そこに在るべき腕がないことを思わせるから。それでも彼ならば、いつかは乗り越えられる。そう信じてアンドリューは窓からの風を楽しんでいるザカリーをもう少し見守ることにした。


 自分の執務室へ戻りしな、杏奈に合図をして廊下に呼び出した。

「随分長いこと通ってもらっていて助かっているよ。良かったら、もう少しザカリ―に付き合ってやってくれ。あれが、知り合って間もない人に心を開くのは珍しいんだ。」

 心を開かれているのだろうかと杏奈はザカリ―との会話を振り返る。とても丁寧な言葉遣いで態度も礼儀正しいが打ち解けたという感じでもない。杏奈が考えている間にアンドリューは続ける。

「この間、あいつが声を上げて笑ったと聞いたよ。そんなことそうはない。さっきの様子も君の言うことは随分素直に聞く様だし。それだけじゃなく、あいつの用意している新しい避難の案はきっと役に立つ。君の意見がとても参考になると言っていたからね。思いのほか早く必要になるかもしれないし。」

「え?」

 杏奈が聞き返すと、アンドリューは少し眉を下げて悲しげな笑顔を浮かべた。

「災害も反乱もこちらの都合を待ってはくれないからね。」

 それは全くアンドリューの言う通りだ。良いものにするために最善を尽くしたいが、考え過ぎていつまでも完成しない作戦は使えない。

「隊長さんからもこちらのお手伝いを優先して良いと言われていますから、必要があればいつでも参ります。」

「ふふ。」

 アンドリューは相好を崩した。最近アルフレドの機嫌がいい。特に行き帰りに自分の娘を連れている日は最高だ、ともっぱらの噂だ。杏奈は彼の部隊の騎士にとっては聖女どころか救いの女神だろう。

「それは有難い。よろしく頼むよ。ザカリーがあまりに意固地だったらいってくれ。あれは本当に頑固者だから。」

「大丈夫です。とても真剣に話を聞いてくださいます。」

 杏奈の答えに、アンドリューはこれは本格的に気にいられたようだと笑顔を大きくする。本当に癖のある男に懐かれる娘だ。ザカリーは妻子持ちなので恋というものでもないだろうが、あれは自分の認めた相手以外の話をまともに聞くような男ではない。先の遠征で腕を失い前線を退いた部下が、新しい職場で心を許せる相手を得たということは本当に喜ばしい。「アウライールの聖女」という彼女のあだ名を思い出した。神の使いなどという不確かな情報よりも、彼女本人にあだ名に相応しい何かがある。

「それは心強いな。」

 立ち直りつつある部下と彼女の存在いずれも心強いと、アンドリューの心からの言葉だった。




 去っていくアンドリューを見送って部屋へ戻ると、ザカリーが上着を脱いでいた。彼の様子に杏奈が目を留めたのに気がついたのだろう。ザカリーは目を細めた。

「外の空気を吸ってみたら、すっかり夏の陽気だったのでね。私が外出する朝や夜はまだ涼しいから気がつきませんでした。」

 これまでに日中全く外に出なかったわけでもないだろうが、やはり暑いのは我慢していたのだろう。倒れる前に気を変えてくれたのなら何よりだ。杏奈は彼のわかりやすい言い訳に笑顔で頷いた。そして白い袖が風に揺られているのを見てちょっと手を添える。

「あの、このままでは袖にインクがついてしまいそうですし、瓶ごと倒したらもっと大変ですから縛っておきましょうか?」


 同室の部下二人はそのとき心臓が潰れる思いがしたと、後にアンドリューに報告した。腕がないことが明らかになることを嫌うザカリーの左袖を丸めてしまうなどなんて恐ろしい提案をするのだと目の前が真っ暗になったという。

 しかし、息を潜め、首をすくめて待っていた二人が聞いたのは、久しぶりのザカリーの朗らかな笑い声だった。


「本当にあなたには敵わないな。お願いします。」


 どうして笑われたのかわからないなりに、杏奈はてきぱきと左袖をしばってしまう。


(腕がないことに拘っているのは愚かなことだな。ないものをあるように見せかけても意味なんてないのだものな。)


「ありがとう。」

 ザカリーがいつもより大きく笑顔を浮かべて礼を言うと、杏奈は「このくらいのことなら、いつでも喜んで。」と返した。この返事は再びザカリーを笑わせて久しぶりに窓が開かれた中庭にザカリーの大きな笑い声が響いた。


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