いつになれば
「アンナ、夕ご飯よ。アンナ?どこに行っちゃったのかしら。こんなやりかけでいなくなる子じゃないのに。アンナァ。」
ミランダは夕食の支度が整ったと杏奈が洗濯物を片付けているはずの家事室に呼びにきたものの、肝心の杏奈の姿が見えずに腰に手を当てて仁王立ちになった。灯りは油が切れたのか消えてしまっているがカーテンは空いたまま、洗濯物も半分はまだ手つかずだ。普段の杏奈ならば、こんな風に中途半端にいなくなることはない。彼女は廊下にあったランタンを持って部屋に入りせめてカーテンを閉めておこうと窓辺へ近づいた。
「ひゃっ。ちょっとびっくりさせないでよ、アンナ。貴方、何してるの。こんなところで。」
暗い中、大きな作業台の影に座りこんでいる杏奈を見つけてミランダは飛び上がった。
「灯りもつけないで。って、ちょっと。大丈夫?アンナ?どこか悪いの?」
自分を見上げたものの、どこかぼうっとしている様子にミランダは急に心配になって屈みこんだ。灯りがあたると杏奈の頬が赤く目が潤んでいるのが分かる。
「貴方、熱があるんじゃない?」
ひょいと額をぶつけて熱を測ろうとしたら、杏奈がびくりと震えた。
「あ、ご、ごめんなさい。」
小さな声で謝る杏奈をみて、ミランダは目を細めた。
「なんか、あったでしょう?」
そう問いかけると、杏奈はおどおどと目を泳がせた。笑いたくなるほど正直に態度に表れる子だ。
「もう。そんなんじゃ、夕食の席についても皆が心配するだけよ。どうする?ここで寝ちゃってたってことにしておこうか?食事はとっておいてあげるから。」
ミランダの直感では、杏奈に起きた出来事はそれほど心配するような種類のものではない。今日、杏奈が仕事を始めてからこの部屋に立ちよったのはモイラとセオドアと自分だけのはず。順当に考えれば杏奈の腰が抜けている原因を作ったのはセオドアだということになる。
「・・お願いします。」
「了解。でもね、床に座ってたら腰が冷えるわ。女の子は体を冷やしちゃだめなの。さ、こっちに座って。」
ミランダはそう言って杏奈を椅子に座らせて、消えてしまっていた灯りをつけ直し、カーテンを閉じてから振り返って「一個、貸しよ。」と片目をつぶって去っていく。彼女が扉を閉めると杏奈は明るい部屋に一人きりになった。
杏奈は先ほどまでセオドアがいた出窓の方に視線をやってみた。明るいというだけでなんだか恥ずかしい様な気がする。
「あぁ。」
小さく声を漏らして顔を覆う。
(どうしよう。どうしたらいいの?)
目を閉じれば、動けないでいる杏奈に顔を近づけてきたセオドアの睫毛や鼻の頭や頬が思い浮かんでくる。思わず目を閉じた杏奈の鼻の先と両方の瞼に軽く音を立てて触れていった彼の唇とその温かかった感触も。
唇が離れた後も、ぎゅっと目を閉じたままでいると瞼を指でなぞられた。捕食される兎や鳥にでもなったような気がして、たったそれだけのことで鳥肌が立った。その指先が自分に目を開けろと促すものだったとは気づかず、そのまま小さくなっていたら今度は目の上下両方をひっぱられて、それでとうとう目を開けたのだ。いや、こじあけられたと言うべきか。
(あのとき絶対、最初白目剥いてた。セオドアさん、なんで口で言ってくれなかったの。)
それはそれで思い出したくない出来事だ。どうして、愛の告白の流れの途中で無理やり目を開かされるという一幕が入り込んでしまったのか。けれども、それで慌てて目を開けて「そこまでしなくても」と抗議した杏奈と、思わず笑い出してしまったセオドアの間からは、その直前まであった熱に浮かされたような空気が吹き飛んだ。そのおかげで助かったと思った方が良いのかもしれない。そうでなければ、あの後何が起きていたか全く分からない。
笑いながら一歩下がったセオドアは、そのまま杏奈が飲み残していたお茶を一気に飲み干して窓辺にもたれた。そうやってセオドアが離れてくれたことで杏奈もなんとか立ち直ることができたのだ。
「さっきの話な。」
「はい。」
声が震えなかったのは我ながらよく頑張ったと杏奈は思う。
「こんなに早く言うつもりじゃなかったんだ。お前はまだ他に考えたいこととか、時間を費やしたいことがたくさんあるだろう。だから余計な悩みを増やすのはもうちょっと後でいいんじゃないかと思ってな。」
待っていようと思ってくれていたのだと言う。途中で彼は「黙って見ているというのも、口に出してみるとちょっと気持ち悪いか?」などと自分の世界に入って悩んでいたようだが、すぐに気を取り直して杏奈に向き直った。
「ただ、今日お前とウィルが話しているのを見たらどうしても。」
口されなかった「どうしても、不安になってしまったのだ」という言葉はそれでも杏奈に伝わった。先ほどまでのどことない不機嫌さの原因は不安とたぶん嫉妬だったのだ。いつも穏やかなセオドアだけに、それをとても意外に思うが嫌な気持ちにはならなかった。杏奈がじっと彼を見上げているとセオドアはしっかりと杏奈の目を見つめて続けた。
「時期は早まったかもしれないが、言ったことに嘘は無い。」
「はい。」
セオドアの揺るぎない気持ちを感じて杏奈はこれは自分も真剣に考えて返事をすべきところなのだと、まだ少しぼんやりしている頭をなんとか叩き起こそうとする。すると、そんな彼女の努力を見透かしたような言葉がかけられた。
「でも、アンナは焦らないでいい。」
「え?」
「ゆっくり考えてほしい。」
考えなくても、彼に好きだと言ってもらったことも、触れられたことも、嬉しいとしか感じない。
(だけど。)
あの湖で思い出したことが胸にひっかかっている。この思いは愛しているということになるのだろうか。もし万が一どちらかが心変わりした場合にはどうなってしまうだろう。またどこかへ飛ばされてしまうのだろうか。愛を告げる言葉は、思い出したどちらの少女の記憶の中でも彼女を大きな別れへ導いた。その恐怖はまだぬぐい去れない。
「考えてみてくれるか?」
黙って俯いてしまった杏奈を気遣うようにゆっくりとセオドアが声をかけてくる。けれど杏奈には答えるべき言葉が見つからなかった。嘘をつきたくない。でも、かつて偽りの愛を口にして結婚しようとしたのだと言ったらこの人は自分をどう思うだろうと思うと、全ては話す勇気も出ない。それなのに、このまま黙っていて彼の気持ちが離れてしまうことを恐ろしくも思う。心の中は千々に乱れて杏奈は何も言えずただ両手でスカートを握りしめた。
彼女のみつめてしばし待っていたセオドアは、やがて窓辺から身を起して杏奈の前に立った。
「急がないでいい。待つさ。元々そのつもりだったんだから。」
ぽんぽんと彼女の頭を撫でる様子はいつもと変わらなくて、杏奈は目を伏せたまま本当に自分はこの人に甘えてばかりだと思う。
「じゃあ、またな。仕事の邪魔をして悪かった。」
あっさりと帰ろうとするセオドアに手を伸ばしてしまったのは杏奈の方だ。背中に手を触れてしまってから慌てて下ろした。呼びとめても、彼の望む言葉など言えないのに何をしているんだろうと悲しくなる。立ち止って振り返った彼は半泣きの杏奈を見下ろしてほんの少し驚いたように目を見開いた。そして何も言わずに彼女をぎゅっと抱きしめる。そのままじっとしているとお互いの鼓動が早く打つのが聞こえた。
何も言わないセオドアは煮え切らない自分をどう思っているだろう。口に出すことができなくても、せめて気持ちが届いてほしいと杏奈は彼の背中に手を回した。制服の背中をきゅっと握ると、セオドアが息をのんで、より一層その腕に力がこもった。やがてゆっくりと腕が緩んで、セオドアは彼を見上げる杏奈の頬を何度か撫でると名残惜しそうに手を離す。それから「今日はこれで十分だ。」と微笑むと一歩二歩と後ずさり、最後には軽く手を振って去っていった。
扉の向こうに彼の姿が完全に消えてから杏奈は床に崩れ落ちた。いつになったら、自分は彼に躊躇いなく愛していると言えるのだろう。杏奈は答えのでない問いを延々と考え続けた。そしてミランダに発見されるまで、そのままでいたのである。
その翌日も翌々日も、セオドアは杏奈のもとを訪れなかった。杏奈は会ったらどう接すれば分からないので時間が空くことにほっとした。そして、このままうやむやになってしまうのではないかと心配になりはじめた頃にアルフレドから彼がまた王都を離れてしまったと知らされた。避けられているわけではないのは分かったが、これではしばらく会えないと少し肩すかしを食ったような気分になる。答えを先延ばしにできる分、気が楽なような、かえって気になるような。それでも長くても十日も待てばまた会うことになるだろうからと、杏奈はそれまでに何を伝えれば良いのかゆっくり考えられる時間があると前向きに考えることにした。
このときはまだ、彼がいつものように帰ってくること誰も疑ってはいなかった。