どうしても気になる
家に戻り、着替えを済ますと杏奈は日中お休みを貰っていた仕事を再開した。
「悪いね、帰って来てすぐに。無理しないで適当なところで休憩するんだよ。」
取り込んだはいいが、その後手が回らなかったらしい山積みの洗濯物を仕分けていると、モイラが顔を覗かせた。
「大丈夫です。ほとんど馬車に乗っているばっかりだったし。」
「そうかい。じゃあ、とりあえずここ頼むね。」
彼女はそういって早足に去っていく。ようやく、こうやって何かを丸ごと任せてもらえるようになった。仕事が終った後の確認はしてもらわなければいけないが、それにしても随分な進歩だ。特に今日は一人きりでただシーツを畳み、衣類を畳んでは仕分ける作業に没頭できるのは有難い。まだ、ウィルとの会話が心の中で落ち着いていなかった。
(あれで、良かったのよね。)
いつかウィルに会ったら、と考えていたことは色々あった。その頃には自分も一人で生きていける自信がついていて、この家を飛び出してウィルについて行くか、はたまた違うところに行きたいのか。何をしたいのか。きちんと彼に説明できるようになっているつもりでいた。彼もきっと立派な先生になっていて、何を選んだとしても、それぞれが次の一歩を踏み出せるようにしたいと思ってもいた。そうしなければ、寂しさや心細さで間違った答えを出してしまいそうだと思ったから。
実際には、考えていたよりずっと早くに再会できてしまった。村の教会しか知らなかったときよりはずっといいとはいえ、まだ自分はアルフレドの庇護が無ければ生きていけないし、ウィルも夢に向かって動き出したばかりだった。けれど、彼に向かいあってみてそれまで自分が頭で考えていたことは間違っていたのだと分かった。恋や思いというものは、自分の生活力とは全く関係なく間違い様がないほど明らかなものだったのだ。ウィルの眼を見て話せば、彼が変わらず自分を思ってくれていることは伝わる。同じくらい、自分が恋慕う相手が彼ではないことも杏奈にとっては明白なことだった。自分が恋をしてみれば、迷うことなど何もないのだということが良く分かる。これ以上、ウィルに待っていてもらっても、きっと変わらない。彼の気持ちは彼のものだから、自分を思うくらいならもっと他の女性に目を向けてほしい、なんて傲慢なことは言えない。でも、自分がいい加減な態度を取るせいで、彼が出会いの機会を逃したり、掴むべき夢を逃すようなことがあったら悔いても悔やみきれない。だから自分の考えていることはきちんと伝えるべきだと思った。
何度も自分の考えを反芻し、ウィルの様子を思い返し、自分の判断は正しかったかと自問自答を繰り返す。アンナの眉間には自然と皺が寄り、洗濯ものを畳むだけにしては随分と難しい顔つきになった。
それでも手は休まずに動き続けて大きな白いシーツが次々と折りたたまれ重ねられていく。洗濯専用の広い作業台に次々にシーツの柱が出来上がった。
トントン。
開け放している扉を叩く音に顔を上げると、戸口に寄りかかるようにセオドアが立っていた。濃紺の制服はそのままに喪章はもう外されている。
長い時間無言でいたので、唇がくっついたようになっていて咄嗟に声がでない。ついでに頭もついてこない。どうしてここに彼がいるのだろうと、しばしぼんやりと彼を眺めた。
「これをお前に持って行ってくれと頼まれた。」
そう言って部屋に入ってきた彼は杏奈の背後にあった出窓の縁にトレーを下ろした。モイラが頼んだのか冷たい飲み物だった。いくら家族同然の付き合いでも女中同士の差し入れを客人であり主人の甥っ子であるセオドアに頼むようなことは普段なら有り得ない。仕事中の杏奈をセオドアが尋ねる口実を作ってくれたのだろう。
「ありがとうございます。」
確かに喉が渇いていたので、杏奈はすぐに飲み物に手をつけた。喉を潤すとやっと滑らかに喋ることができるようになった。
「随分と難しい顔をしていたな。」
出窓の縁に浅く腰をかけたセオドアと直立している杏奈の視線はちょうど同じくらいになる。真っ直ぐに目を合わされて、杏奈は何となく目を逸らした。
「これはそんなに難しいのか?」
彼の視線はまだ半分も残っている洗濯物の山と綺麗に整えられたシーツの柱の間を行き来する。
「いや、ちょっと考え事をしていて。」
俯き加減に答えると「ふうん」という短い相槌が返ってきた。そのまま、しばらく彼が何も言わないので杏奈は顔を上げた。
「セオドアさん、今日はどうされたんですか?」
家の裏側である家事室にセオドアを留めておくのは礼儀の観点から行けば、絶対に良くない。杏奈に用事だとしても一旦仕事を切り上げて居間か応接間にでも案内しなければ失礼だ。
セオドアは言葉を選ぶように、少し間をおいた。それから杏奈に向き直りぽつりと呟いた。
「アンナに会いに来ただけだ。」
「私に、何か?」
「会いたかっただけ。」
繰り返されて杏奈はセオドアをまじまじと見返した。少し決まりの悪そうな彼の表情。からかわれている訳でも騙されている訳でもなさそうだ。
「そうですか。」
杏奈は自分の口から何を言っているのか意識しないまま返事をして、次にどうすればいいのか分からなくなってしまった。けれど自分に会いに来たと言うセオドアも何も言わない。彼をそこに放っておいて仕事に戻るわけにもいかないので、杏奈はただ彼の次の一言を待った。セオドアの肩越しに見える窓の外はすっかり暮れかかり紫がかった空と黒い影を落とす庭木がで覆われている。風も穏やかな静かな春の宵だ。窓一枚隔てた部屋の中ではどちらかが動いたら崩れてしまいそうな緊張が満ちていて、外の景色の心許ない程の軽やかさが妙に遠くに見える。
「ウィルは元気そうだったな。」
セオドアの言葉で再び部屋の中の時間が動き出す。
「はい。隊長さんと連絡をとっていたみたいで途中から馬車で一緒になったんです。私、聞いていなかったからびっくりしました。こんなにすぐ会えると思ってなかったですし。」
「嬉しかった?」
その問いに少しだけひっかかりを覚えたが、杏奈はやっと沈黙から解放してくれたこの会話を途切れさせたくなくて話を続けた。
「ええ。どうしているか心配でしたから、元気そうで良かったです。今は学校で先生になる勉強をしているって言っていました。寄宿舎に住ませてもらって、住む場所や食事にも苦労してないって。それから、他の皆のことも少し聞けて、あの町の教会で楽しくやっていけているみたいで安心しました。聞いたら、もう皆随分しっかりしてきたみたいで、安心できるところにいると子供達も落ち着いて成長できるんでしょうね。それにウィルもたった半年で急に大人びてしまって見えたし。そういう話を聞いてなんだか時間が進んでいるんだなあと思ったんです。あの教会の中では時間は止まったようだったのに、外に出て違うところに行って段々変わっていくんだなあって。」
自分ばかり喋っている。杏奈にはそれが分かっていたのだが、話を止めるのが怖いような気がして良くないかと思いながら喋り続けてしまう。セオドアは黙って聞いている。彼の表情にいつもの穏やかな笑みがないから怖いのだと途中で杏奈は気がついた。
(怒っているのかしら。それとも、疲れてる?)
それが気になり始めると、それ以上調子よく話し続けることはできなかった。
「それで、色々不便なこともあったけど、やっぱり皆で過ごせた時間は懐かしくて。えーと、懐かしくて、それで。」
とうとう杏奈が話を止めてしまうと、セオドアは片手で顔を覆ってため息をついた。やはり怒らせたのだろうかと杏奈はびくりと背中を震わせた。
「すまん。情けないな。」
セオドアはそう言って何か振り払うように首を軽く振った。
「え?」
「仕事中に邪魔をして気を遣わせて、何をしているんだか。」
ぼそぼそと呟くと彼は両手を膝の間でゆるく組んで顔を上げた。そのまま杏奈とぴたりと目が合う。その目に、これまでに見たことが無い気配を感じて杏奈は本能的に怖いと思った。静かで真剣な眼差し。
「ウィルは何か言っていたか?」
「何か?」
ウィルと話した内容は今しがた長々と話したばかりだ。オウム返しに聞き返すと、セオドアは小さく頷いた。
「いつかお前を迎えに来るとか。」
さりげない口ぶりで続けられた言葉に杏奈は目を大きく見開いた。そんなことは言われていない。でも、セオドアが知ろうと思っていることの中身が分かったと思った。杏奈とウィルの関係。もっと言えば、二人がつきあっているのかどうか。これまでセオドアは冗談でもそういうことを一切口にしたことはなかっただけに、急にどうしたのだろうと不安になる。
しばらく返事を躊躇う杏奈を見つめていたセオドアは、彼女の答えより先に次の質問をした。
「お前はそれについて行きたいか?」
杏奈はその問いに胸を突かれる思いがした。
「どうして、そんなこと聞くんですか。」
声が震える。彼はどんなつもりで、こんなことを聞くのだろう。ウィルについて行きたいと言えば喜んで応援してくれるつもりなのだろうか。気を遣ってくれているのだろうか。引きとめてはくれないだろうか。彼との距離が徐々に近づいていると思っていたのは自分だけだったのかと杏奈は足が震えてしゃがみこんでしまいそうになるのを作業台の縁に手をかけて堪えた。
杏奈の問いかけに、セオドアは出窓から腰を上げて立ち上がった。
「知りたいから。」
そのまま一歩、杏奈に近づく。反射的に杏奈が体を下げようとしても背中はすでに大きな台にぶつかっている。彼の一歩で二人の距離は杏奈の腕一本分くらいしか残らなくなった。
「お前が、誰を思っているか気になるからな。」
そのままセオドア両手を台につき、杏奈はその間に閉じ込められた。
「俺はお前が好きだから、どうしても気になる。」
最後の一言はぽとりと頭の上から落とされるように降ってきた。頭の先から足の先まで、セオドアの言った言葉が滑り落ちていく。杏奈は自分の中がセオドアの「好きだ」という声でいっぱいになってしまったように感じた。何も考えられなくて、首を逸らしてただ彼を見上げた。
「自分の気持ちを隠したまま、人の心の中を暴こうとするのは卑怯だったな。」
そう言ってセオドアは少しだけ身を引いて杏奈と目を合わせた。
「好きだ。」
とどめのようにかけられた言葉を受け止めきれずに杏奈はよろめいた。セオドアはぱっと杏奈の肩を支えるとすぐに手を離したがそのまま宙に浮いた自分の手をちらりと見て苦笑いを浮かべた。
「自分がこれほど自制の効かない人間だとは思わなかったんだが、信用ならないものだ。」
セオドアはもう一度手を杏奈へ伸ばすと頭をそっと撫でて、愛おしそうに目を細めた。温かい掌がそのまま杏奈の耳にかかって耳たぶをなぞっていき、最後に耳飾りを確かめるように触れて離れていく。
「アンナ?」
固まったままの杏奈の耳元に囁くように呼びかける声は甘くて、かろうじて杏奈を支えてくれていた膝からがくっと力が抜けた。改めてセオドアの腕に支えられた彼女の顔は真っ赤だ。瞳がセオドアの言葉を本当かと問い返すように揺れている。
「お前、その表情は。」
セオドアが心底困ったように言うので、杏奈は混乱の極みにある自分の表情がそれほどひどいのかと思った。けれど顔も手も高熱でも出たかのように痺れて動かすことができない。
「好きだと言っているように見えるのは、都合の良い幻覚か?」
セオドアはそれでも動けない杏奈に顔を近づけた。触れ合うくらいに近く。