心までは変わらない
「久しぶり。アンナ。」
すとんと向かい側の席に腰を下ろしたのは濡れた大地の色の大きな瞳が印象的な少年だった。杏奈が最後に会った時よりも大きくなった気がする。伸びっぱなしだった長い髪も切りそろえられており、黒い髪の下から覗く顎や首筋の骨格はもう少年というより青年に近い。杏奈は目も口も大きく開いたまま、視線で彼が馬車に入って来て腰掛けるのを追うことしかできなかった。
「おーい、しっかりー。」
目の前で手を振られてはっとして瞬きし、口も閉じる。瞬きをし終わっても目の前の懐かしい少年の姿は消えない。
「ウィル?」
問いかけると、ウィルは「はは」と乾いた声で笑った。
「そんなに驚くとは思わなかったな。」
「驚くわよ!ウィル、王都にいたの?」
「いいや、今日だけ特別さ。普段は学校の寄宿舎が、そうだな、ここからだと馬車で丸一日くらいかな。そのくらいのところにあるんだ。」
「そうなんだ。ああ、久しぶり。元気だった?」
変わらないウィルの口調に杏奈も、村の教会で二人で話した距離を思い出す。身を乗り出すようにして聞くとウィルはにこっと笑う。
「元気だよ。隊長さんのおかげでチビたちのことも司祭様に安心して預けていられるし、学校の寄宿舎なら食べ物には困らないから。」
「そう。良かった。ウィル、先生になるのね?皆も新しいおうちに馴染めたんだね。本当に良かった。」
懐かしさに涙が出そうになって、杏奈は慌てて目をぱちぱちと瞬かせて誤魔化した。
「うん、皆新しい友達を作ったりして元気にやってるよ。アンナは?どうしてたの?」
「うん、元気だったよ。ずっと隊長さんのおうちにおいてもらって女中さんのお仕事と読み書きを教えてもらっているの。もう掃除も洗濯も少しは任せてもらえるようになってきたわ。」
「そう、頑張ってるんだな。」
ウィルは目を細めて笑う。今日の彼は黒い上着と白いシャツに黒いタイをしめていて、その服装のせいか杏奈の記憶にあった彼よりずっと大人びて見える。こんな風に穏やかに大人みたいに笑う子だっただろうか。
「なんだか、ウィル少し大人になったみたい。まだ半年くらいしか経っていないのにね。」
杏奈が戸惑いをそのままにそういうと、ウィルは苦笑いを浮かべた。
「それを言うならアンナだろ。アンナだって聞いてなかったら、どこのお嬢様かと思っちゃうところだったよ。急に綺麗になっちゃってさ。」
「お風呂を使えるようになって、良い服を着せてもらっているだけよ。何も変わらないわ。」
綺麗なんて真っ直ぐに言われると、むずがゆいような気分になる。確かに黒い喪服は杏奈を急に大人びて見せた。鏡をみたときに自分でも驚いた。けれど自分は変わっていないつもりだ。けれどウィルの眼には違うものが見えるようだった。
「そんなことないと思うよ。」
そう言うとじっと杏奈の眼をみつめて黙りこむ。大きな瞳にはいつか見たのと同じ真摯な光があって、杏奈は戸惑ってしまう。そのまま二人とも無言のまま馬車に揺られていたが、杏奈が無意識に黒い手袋を握りしめていることに気がつくとウィルは目を逸らして窓の外を指した。
「ねえ、アンナ。あれは何?」
「え?どれ?」
視線が外れて、金縛りが解けたようにアンナは体が軽くなり窓を覗きこんだ。
「ああ、何かしら。ごめんなさい。分からないわ。私、あんまり外を出歩いていなくて。」
「えー?せっかく王都に住んでるのに観光もしてないの?もったいないなあ。折角あったかくなったんだし、外に出てごらんよ。誰か一人くらい友達いるだろう?」
「お友達はいるけど。王都は広いから出掛けるのには馬や馬車が必要なのよ。遊びで誰かに馬に乗せてくださいなんてなかなか言えないもの。」
「ちょっと遊びに行くのに馬車?うわあ、それは大変だな。乗合馬車とかは使えないの?」
話し始めたウィルはすっかり昔の調子で明るく、杏奈は先ほど苦しいほど見つめられたときの緊張から解放されてほっとした。こうしてぽんぽんと言いあうウィルは杏奈の知っている通りの彼だった。二人には報告すべき出来事が色々あって夢中で話しあっている間に馬車は大きな通りに出たようだった。辺りに馬車や馬の音が増えて来たので外を覗くと、皆同じ方向を目指している。きっと式典に向かう人だろう。これほど集まって来ていると言うことは目的地が近くなっているに違いない。
「王都へはこの慰霊式典のために来たのよね?」
杏奈が問いかけるとウィルは頷いた。
「一応、村民代表ってことでね。」
「村民代表って、すごいことじゃない。ウィル、村長さんになったの?」
ウィルは違うよと言いながら首を横に振る。
「村長はオルソンさんがやってくれてる。結局あの後、うちの親父はどこからも見つからなくてさ。だから正式に代替わりしたんだ。でも村からここまでは遠いし、こう言ったら悪いけど今はまだ式典よりも村の再建の方が大事なんだ。村長が十日も二十日も村を空けるのは無理だから、俺が代理で来たわけ。」
ウィルの両親が見つからないというのは、悲しいことだが予期していたことだった。最後まで村民の避難の助けをしていたという以上、他の避難所にいる可能性はほとんどなかったから。けれど、あれから半年経って改めて確認されるとやはり胸に堪える。杏奈は「そう」と言ったきり、次に何を言えばいいか分からなかった。心のこもっていない気休めなど、言いたくなかった。
「そう沈まないで。もう大丈夫だから。」
杏奈はかえってウィルに気を遣わせている自分を情けなく思う。ますますしゅんとなる彼女を見てウィルはどこか心がほっとするのを感じた。しばらく会わない間にすっかり大人びて美しくなった杏奈に感じた寂しさや焦りを、もう一度見つけることができた彼女の変わらない優しさが打ち消してくれたことに感謝する。
「そういうところは、変わらないね。」
「え?」
「アンナの他人のことまで自分のことみたいに考えちゃうところ。」
そう言ってウィルは笑う。
「だって、ウィルは他人じゃないわ。大事な、家族みたいな。」
そこまで言ってしまってから、杏奈ははっと口をつぐんだ。妹のようには思えないと言われたことを忘れたわけではない。
「ごめんなさい。とにかく、ウィルは私の大事な人だわ。」
「うん、ありがとう。」
ウィルはそれ以上、その言葉を掘り下げる気はなかった。もう慰霊式典の会場はすぐそこのはずだ。今は自分の恋心よりも自分達のために命を懸けてくれた騎士達のことを思うべきだった。