優しすぎる
雨がひどく降ったのはものの十分程度のこどだった。黒雲は来た時と同じように急ぎ足で去っていき、何事もなかったかのように青空が顔を出す。
「まさか降られるとは。」
セオドアはぼやきながら杏奈の手を引いて馬に乗せた。それから靴と靴下は足が冷えるだろうからと脱がせてしまう。そのまま手綱を引いて木の下を出ると改めて爽快な青空を見上げる。
「天気が良すぎて、今度は腹が立つな。さっきまでの豪雨はなんだったんだ。」
そう言いながらも彼は迷うことなく湖のそばを離れて行く。どこへ行くのかと問えば「そのままでは帰れないだろう」と返された。
「近くに宿がある。風呂を借りてできれば着替えもなんとか都合してもらおう。」
まだ歩くたびに水がしみ出てくるブーツの感触に辟易しながらセオドアはぬかるんだ山道を上がっていった。
大きな木々のおかげで湖からは見えなかったが、セオドアの言葉通りほんの少し歩いただけで小さな宿屋街に辿りついた。以前に来たことがあるというセオドアが一つの小さな宿の戸を叩くと、主人らしき老人が迎えてくれた。裸足だからとセオドアに抱えられて宿に入ってきた杏奈の服装をみて「おや、まあ」と言うなり「おおい」と奥へ声をかけた。
「急ですまないが、部屋を用意してもらえないだろうか。見ての通りだいぶ濡れてしまって、風呂を借りたい。それからできれば着替えも。」
「ええ、一つ空いてますよ。風呂もすぐ用意しましょう。着替えもたいしたものはありませんが、乾いた服ならありますよ。」
主人は二人を部屋へ案内しながら「こんな季節にあんな雨が降るなんて滅多にない、災難でしたね」と優しい笑顔を浮かべた。
(そうか、あの雨のおかげで湖で転んだってことは言わなくて済むんだ。)
杏奈は主人の誤解に気づきながらも、いい年をして湖の中で転んでずぶぬれになったとは訂正し辛くてそのまま曖昧に微笑んだ。風呂の説明をすると着替えをとってくると主人は慌ただしく去っていった。二人で残された部屋でセオドアは杏奈を見下ろして目を細めた。
「雨が降ってくれてよかったかもしれないな。誰もお前が湖ですっ転んだとは思わないだろう。」
どうやら同じことを考えていたらしい。杏奈が「そうですね」と笑うとセオドアはふわっと笑顔を大きくした。珍しい彼の満面の笑顔に戸惑って「え?」とといかけると彼はすぐに口元を手で覆って僅かに俯いた。
「いや、どうも湖にはまって以来様子がおかしかったから。やっと笑ったと思って。」
杏奈はセオドアの返事を聞いて耳まで真っ赤になって「えっと、いや」と意味のない言葉を呟いた。心配してもらったことは申し訳ないと思うけれども、同時に有難く、とても嬉しい。それは間違いなのだが、自分が少し笑っただけでこんなに喜んでくれるのだと思うと、嬉しいを通り越して気恥ずかしかった。
「失礼しますよ、着替えをお持ちしました。」
二人が互いに照れている間に宿屋の主人とその妻が二人の着替えを持って戻ってきた。
「濡れた服は暖炉を焚いて乾かしましょう。お風呂は奥様から先でよろしいですよね。それから晩はどうしましょう。お泊りになられます?お夕食だけでもご用意しましょうか。」
宿屋の妻は快活に話しかけながら、「え、おくさま?」と目を白黒させている杏奈を風呂場へ連れて行ってしまう。
(そうか、夫婦に見えたのか。)
残されたセオドアはそこまで考えていなかったな、と思いながらも全く悪い気はせず緩んだ口元をさりげなく隠しながら主人に声をかけた。
「このくらいの降りでも帰りの道は危ないだろうか。できれば今日中に王都へ帰りたいんだが。」
「この程度なら明るいうちは問題ないと思いますよ。暗くなるとぬかるみが見えなくなってちょっと足元が危ないですけどね。少し休んで行かれてもまだ間に合うでしょう。とはいえ、冷えた体に夜風は毒ですから、奥様があまり凍えていらっしゃるようなら明日の方が良いと思いますけどもねえ。」
「そうだな、後で相談してみる。ありがとう。」
自ら嘘をつく気にはならないが、夫婦という誤解をわざわざ解かなくてもよいかと訂正せずにセオドアは礼を述べた。実際には夫婦でも恋人でもないので、ここで一泊して帰ることには非常に問題がある。杏奈の体調さえ問題なければ今日中に戻りたいところだ。
二人は交代で風呂を使わせてもらい、こうなったら今日はもう帰るしかないと話しあった。
「本当にごめんなさい。折角早起きして連れて来ていただいたのに、本当にもう。」
「いや、湖自体は見れたわけだし、昼飯も食べたし、お前が転ばなくてもあの雨ではどうせ濡れていただろう。別に気にすることは無い。」
「いえ、でも。」
帰るしかない、と言いながらも二人の間ではこのやりとりが延々と繰り返されている。あまりに長いこと続けているので、暖炉の前につるしてもらった服も次第に乾いてきているほどだ。このままでは埒があかない。
「どうしても気が済まないのなら、もう一回どこかへつきあってくれ。それで仕切り直せばいいだろう?」
「そ、それでは私が余計に良い思いをしてしまうだけでは。」
「そんなことはないさ。」
二人で出掛ければ、出掛けている間は杏奈を一人占めできるのだから。言葉にはしないもののにこりと微笑むセオドアの様子をみれば大抵のひとはその気持ちに気がつくだろう。杏奈も、セオドアが本心からそれで良いと言っていることは理解できた。これ以上駄々を捏ねてもかえって迷惑かもしれない。しばらく考え込んだ後で小さく息を吐くと上目づかいにセオドアを睨んだ。ちょっと眉を寄せてまるで拗ねた子供のような顔になる。
「セオドアさんは、優しすぎます。」
「そうか?」
意外なことを言われたようにセオドアは真顔で聞き返す。
「そうです。」
杏奈が力を込めて言い返すと、セオドアは小さく笑って「そうか。」ともう一度、今度は納得したように呟いた。それから真顔のまま問い返した。
「お前は俺が優しすぎては困るのか?」
杏奈はぐっと言葉に詰まる。困るはずはない。いや、困るかもしれない。
(だって期待してしまいそうになるし。)
しかしそれを口に出すこともできない。杏奈が黙りこんでいると、セオドアは笑って彼女の頭に手を乗せた。
「困らないのならいいだろう。」
杏奈はやはり何も言い返せない。もしも誰にでも優しくしているのなら、自分だけ特別に思われているのではないかと期待してしまうから止めてほしい。でも、それをこの場で言うわけにはいかない。愛しているとか好きだとか、決定的な言葉を口に出せない以上、自分の方こそ思わせぶりなことを言うことはできなかった。
「体が十分温まったら帰ろう。ちゃんと約束の時間までには送り届けないとな。次の外出を許してもらえなくなっては大変だ。」
セオドアはそう言って難しい顔をしながら頬を赤らめて黙り込んだままの杏奈を残して立ち上がった。
「ステラの様子を見てくるから、もう少し休んでいると良い。」
愛馬の元へ去るセオドアを見送ってから杏奈はソファのクッションに顔を突っ込んで盛大にため息をついた。次に顔を埋めたまま足をジタバタと動かして言葉にならないうめき声を上げる。
(優しすぎるの、やっぱり困りますってば。温まるも何ももうセオドアさんのおかげで熱いくらいですから。)
馬に乗るときには、また体を寄せなければならない。それまでに心臓が落ち着いて頬や耳の赤みがひいてくれますようにと必死に願いながら杏奈はしばらくそのまま一人で悶絶していた。
結局、杏奈が湖からヴァルター家に戻ったのはアルフレドに申し渡されていた刻限より少し早い時間だった。でかけたときと違う服装の杏奈に家人たちは怪訝な顔をしたが、山の方で驟雨に降られて止むなく着替えて帰って来たと言うと納得して体を温めて早く寝た方が良いとかいがいしく世話を焼いてくれた。おかげでセオドアはあっという間に追い払われてしまったが、去り際に彼が「じゃあ、また。」と言った言葉の意味は杏奈とセオドアしか知らない次の約束のことに違いなく、その秘密めいたやりとりは杏奈の胸をときめかせた。
夕食後、杏奈を早々に寝室に追いやったヴァルター家の居間では、アルフレドとアデリーン、執事に女中が集まって食後のお茶を飲みながら好き勝手な感想を述べ合っていた。
「いっそ今晩は帰って来ないくらいやるかと思ったが、あいつは真面目だな。」
「今夜帰って来なければ、心配して深夜でも山まで探しにいったでしょうに。アンナが帰ってきたら急に気が大きくなりましたね、旦那様。」
「テッド坊ちゃんもアンナも、こんな季節に驟雨に遭うなんてついてないですねえ。」
「マリ。あなた分かってないわねえ。雨の中、手を取り合って雨宿りできるところまで走って、お互い濡れたまま抱き合って温め合うなんてロマンチックじゃない。」
「やだ、ミランダったら。ロマンチックを越えてちょっと、それは。ほら、旦那様の笑顔が凍ってしまったじゃないの。」
「でも、ロマンス小説なら絶対そういう流れになるところよ。」
「テッドはロマンス小説って柄じゃないわよ。あなた、しっかり。大丈夫ですよ。そんなことがあったらアンナの様子できっと分かるもの。」
「そ、そうだな。うんうん。ミランダはちょっと小説の読みすぎじゃないのか。」
「まあまあ、とにかく二人とも初めてのデートで雨に降られてずぶぬれになったってのに喧嘩もなく、楽しそうに帰って来てよかったじゃないですか。」
モイラがまとめると、一同は一斉に深く頷いた。誰の目にも杏奈とセオドアの二人が相思相愛なのは明白なのだが、どうも二人だけがそれに気がついていないように見える。それでも二人は一緒にいるときにとても良い表情をする。それも見つめ合っているときというよりは、どちらかが違う方を向いているのをもう一人が見ているようなときに、優しくて甘く柔らかい微笑みを浮かべている。
「焦らなくても、きっと二人なりにうまくやりますよ。」
「そうだな。」
彼らは誰も、杏奈が思い出した遠い世界の記憶によってセオドアに気持ちを告げることを躊躇っていることなど知らない。ただ、年の割にこうしたことに疎い杏奈の自覚が遅いだけだろうと思っている。だから時間さえあれば、そのうちになんとかなるだろうと見守るつもりでいた。幸い心配していたミラードには杏奈にせまる気はないようだし、アンドリューも自分からどうこうする気はなさそうだ。アルフレドの脳裏にはもう一人、気になる人物が浮かんでいたが敢えて口にはせずに心にしまった。