春雷
名前を呼ばれた気がして杏奈が耳を澄ますと、しばらく失っていた体の感覚が戻ってきた。左頬が温かい。背中に回された力強い腕の感触。少し顔をずらそうとすると、ぱっと顔が離れてセオドアの心配そうな顔が現れた。
「気がついたか。」
そう言って目尻を下げて、そっと額や頬に張り付いていた髪を払ってくれる。その瞳に、その手に、ただ漠然と帰って来たのだと感じた。ほっとしたせいなのか、冷たい水に浸かったせいなのか杏奈は体がやけにだるく感じて、口を開くこともできずにただ彼の服をぎゅっと握りしめた。
「どこか痛いところはあるか?気持ち悪くないか?」
あまりに虚ろだった杏奈の様子に湖の中で転んだ拍子に頭でも打ったのではないかとセオドアが問いかける。まだ口を開くのも億劫に感じて杏奈はただ小さく首を横に振った。問いかけに応えるのを見てセオドアはようやく安心することができた。杏奈が水に沈んでから早鐘のように打ちっぱなしだった心臓も少しずつ落ち着いてくる。
それはセオドアの胸に抱かれている杏奈にも伝わってきた。彼の鼓動が落ち着くのにつられるように混乱していた杏奈の頭も整理されていく。
自分は、どのくらい水に浸かっていたのか、長い夢でもみたような気がする。でも、ただの夢ではない。思い出すというよりも少女の真後ろに立って人生を体験しなおすように眺めた、夢の全てに「ああ、そうだった」と感じた。自分は「知って」いたのだ。きっと遠いところにいた頃の記憶。百の海、千の空を越えた先、という白い鳥の言葉は大袈裟ではなかった。隣の国や、次の大陸という次元の距離ではない。着ているものも、街も何もかも違う。どんな方法でも人の力で辿りつけるような場所ではないと直感的に理解した。いうなれば世界が違う。記憶が途絶えた後、何が起きたのか本当の意味では理解できていないが、何かの力でこちらの世界に呼びもどされたのだと想像する。姿かたちは今の自分と僅かに違うが、年の頃などは同じだ。あの人生の続きを、今ここで生きている。そしてきっともう同じところへは戻れない。
不思議なことに思い出すことができた父や母に焦がれる気持ちは湧いてこなかった。懐かしい気はする。けれど、まるで亡くなって何年も経った人を思い返すように自分の中に諦めがあるのだ。結婚式の場から花嫁が消えた後で、みんなどうしたのだろう。義父の会社はどうなっただろう。そういう疑問は浮かぶけれど、戻らなければという焦燥は湧いてこない。自分が薄情なのか。それとも世界を超える時に感情に鋏でも入れられてしまったのだろうか。
自分の感情も不思議だが、もう一つ気がかりなことがある。遠い世界での自分はいつか崖から落ちて命を失った少女の人生のことをまるで覚えておらず、思い出すこともなかった。それはつまり、「飛ばされる」経験のあと、今の自分のように次々と記憶を取り戻すとは限らないということになる。遠くへ飛ばされてしまえば、記憶は失われ、思い出す保証はなく、思い出しても感情は遠くなる。
杏奈はそこまで考えて、ぶるりと体を震わせた。気がついたセオドアが寒いと思ったのか、体を寄せてよりきつく抱きしめてくる。
杏奈はセオドアの匂いと温もりを感じて、それと同時にほんの少し前まで自分の頭をいっぱいにしていたことを思い出した。自分はこの人を間違いなく特別に大切に思っている。これは恋だと自覚したばかりだ。そしてそのことが、思い出したばかりの記憶と結びつく。
(私は、セオドアさんを愛していると言えるの?)
こうして傍にいて、抱きしめられても嫌だとか怖いと思ったことは一度もない。むしろ安心できて、この人のそばに居れば大丈夫だと思える。この思いはなんという名前なのだろう。これを愛と呼んでいいものなのか、杏奈には自信が無い。もし、この想いが間違いだったら?そうしたら自分は永遠に彼を失い、またこれまでに得たものも皆失うかもしれない。彼と出会った記憶すら。薄茶色の髪や優しい光をたたえた瞳を見て安らぐ気持ちすら失くしてしまうかもしれない。今、急に蘇ってきた記憶の中の家族や、夫になる予定だった人を酷く遠く感じるように、彼への想いも色褪せてしまうだろうか。
それは、ただ恐怖だった。自分がどれほどに為す術もなく全てを失うのかを思い出した今となっては真に迫った脅威であり恐怖。もしかしたら平気かもしれないと楽観視したい気持ちはあれど、杏奈にとってセオドアの存在は既に一か八かにかけて失える程、軽いものではない。
(口にしてはいけないのかもしれない。本当に自信が持てるまで。)
「このままだと風邪をひく。自分で立てるか?」
セオドアは腕を解いて黙ったままの杏奈を立ち上がらせる。晴天の下だというのに杏奈は頭からつま先までびしょ濡れだ。声をかけられた杏奈はただ彼の方を振り仰いで、何か言いたそうに口を開きかけたがそのまま目を逸らしてしまった。
いくら驚いて転んだことが恥ずかしいとしても、こういうときに、助けられた礼や迷惑をかけた謝罪を忘れる娘ではない。やはり打ちどころでも悪かったかとセオドアは心配になる。
「おい、無理するなよ。我慢しないで痛いところがあれば言ってくれ。」
痛いとすれば、それは心だと杏奈は思う。今思い出したこと、理解したことを心の中で受け止めきれていない。このまま何かを説明しようとしたら余計なことを言ってしまいそうだ。杏奈は深呼吸してよく考えてから返事をした。
「大丈夫です。ただ驚いてしまって。セオドアさんまで巻き添えにしてしまってごめんなさい。」
小さな声で謝りながら視線が定まらない。やっぱり様子がおかしいなとセオドアは片眉を上げた。
「それは構わないが」
本当に大丈夫なのかと言葉を続けようとしたところで、時ならぬ雷の音がして二人ははっと顔を上げる。遠くの空に黒い雲があり、それはこちらに近づいてきているように見えた。
「これは、まずいな。」
セオドアはそう言うと、素早く杏奈の手を引いて愛馬の元へ戻った。驟雨の気配だ。黒雲が垂れこめてから雨が降り始めるまでは間が無い。少しでも雨を防げるところへいかなければ。杏奈など今でも既にずぶ濡れなのに、さらに雨にあたれは風邪をひくだろう。
彼らが大きな木の陰に逃げ込むのを追うように、大粒の雨が降り出して、あっという間に先を見通すのも難しい程の本降りになった。雨の降りが強くなるのに合わせるように雷も近づき白い光と大きな音が続いている。
「春雷か。」
セオドアはため息をつく。こうなると落ち着くまでは一歩も動けない。本当は近くの宿まで連れて行って杏奈を着替えさせてやりたいが、視界が効かない山道を行くのは危険すぎる。何もしないよりは良いだろうと執事の持たせてくれた荷物から適当に体を拭けそうな布を渡した。
「少しでも拭いておいた方がいい。雨が止んだら着替えないとな。」
杏奈は頷いて染み込んだ水を絞り取るように服の上から布を押し当てる。杏奈が一通り衣類や髪を拭き終ったのを見るとセオドアは彼女を少し自分の方へ引き寄せた。そのまま薄い自分のマントで覆ってしまう。
「くっついてたら、セオドアさんまで濡れてしまいます。」
「もうだいぶ濡れているから気にするな。というか、この方が俺も温かい。」
そう言いながらセオドアは慌てて離れようとする杏奈の腰に腕を巻きつける。その言葉は本当でセオドアは転んでこそいないが、杏奈を引きあげるために湖に入った時点でブーツの中まで完全に浸水しているし、さらに濡れた杏奈を抱きしめていたのだから腕も肩もじっとり湿っている。これで連れが騎士仲間ならとりあえず一通り服を脱いでいるところだ。しかし、杏奈を前にそうもいかない。
杏奈も引きとめる腕を外そうとして触れたシャツの袖がひどく湿っていることに気がついて、大人しくなった。
お互いに黙りこむと、雨と雷鳴の音に包まれる。一際大きな雷が鳴ると杏奈は反射的にびくりと肩を震わせた。
「恐ろしいか?」
頭の上から声が降ってくる。杏奈は首を横に降ったが、セオドアは彼女をさらに引き寄せて顔までマントの中に隠してしまった。
「背の高い大きな木が多いから落ちるにしても、そっちだろう。ここは大丈夫だと思うぞ。」
セオドアは杏奈の頭を抱えるようにして少しでも音と光が彼女に届かないようにする。
マントの中は温かく湿った空気で満たされていて、いつもの彼の匂いに混じって踏んでいる下草の匂いと、汗の匂いがした。セオドアの胸にそっと手をあてて額を寄せながら杏奈は目を閉じる。何も言わなければ何も起きないのなら黙っている。黙っているからこの人の元から自分を去らせないでほしいと強く願った。
寝てしまったのかと思う程大人しい杏奈を抱えながら、セオドアは雨が弱まらないだろうかとじっと雨粒をみつめた。
(ここ数日快晴続きだったと言うのになんで今日に限ってこんな天気になるんだ。俺は何か悪いことでもしたか。)
セオドアは憮然とする。滝のように降り注ぐ雨と鳴りやまない雷鳴は、天が慟哭しているかのようだ。これほど泣き叫ばれるような悪さをした覚えはない。杏奈も絶対にしていないだろう。そう思って今はマントの中に隠れている杏奈の姿を思い出す。
(雨がやんでも、この格好のまま連れて帰るわけにはいかないな)
濡れた服で馬に長時間乗るのはセオドアでも体に堪える。まして杏奈にはとても勧められない。セオドアは雨が弱まるのを待ちながら、いかにして王都へ帰るかの算段を続けた。