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湖と白鳥 その5

 青い湖に舞い降りる白い鳥の姿を目にした途端、杏奈の目には他に何も見えなくなり、何も聞こえなくなった。心臓が強く早く打つ音だけで頭がいっぱいで何も考えられない。

 気がつけば自分は湖の中に立っており、急に冷たい水の中に沈められた膝が訴える痛みで一瞬意識が戻る。水から上がらなければ、と咄嗟に向き直ろうとして足を滑らせた。

 新緑の樹。

 青空と雲。

 遠くの山並み。

 高く舞い上がった水滴が次々と降りかかってくる。

 その水滴の向こうに歪んで見える白い鳥。

 やけにゆっくりとそれらが流れて行って、最後には水に沈んだ。景色がではなくて、自分が。


(苦しい。息ができない。)


 その一瞬の恐怖がパチンと何かを弾けさせた。



 お風呂で溺れかけたことがある。

 命に関わるような大事件にはならなかった。ただ足を滑らせて一瞬浴槽に沈んでしまっただけ。それでも恐ろしくて、泣いていたら母が駆けつけてきた。

「ああ、どうしたの。一人で怖くなっちゃったの?」

 違う。お風呂場に一人でいるのが怖かったわけじゃない。ただ溺れてしまいそうになったから。そうしたら浴槽がとても大きく思えて怖いと思っただけ。

「まだ一人で入るには早かったかしらね。明日はお母さんと一緒に入りましょう。ね。」

 起きた出来事を上手に説明できず、ぐずぐず言いながら母に体を拭かれて着替えも手伝ってもらい、居間へ戻った。テレビを見ていた父親もぐずる娘に気がついて仕方ないなと笑いながら彼女を膝の上に抱きあげてくれた。

「どうしたんだ、杏奈。今日からお姉さんだってはりきってたのになあ。」

 乱暴なように見えて決して痛くは無いような絶妙な力加減で父は彼女の髪をタオルで包んでごしごしと乾かす。彼女は父の膝の上が大のお気に入りで髪を乾かすのも父の仕事だった。いつものように父の大きな手に任せている内に涙は収まり、杏奈はうつらうつらとし始める。

「本当にお父さんは寝かしつけの達人ね。こんなに頭を揺さぶられても眠っちゃうのに、私が一時間も添い寝して寝付いてもらえないと悲しくなるわ。」

 母はそんな親子の様子を見て、口を尖らせる。父は少し得意げに胸を張ってそのまま娘を抱きあげる。

「さあ、湯ざめする前にお布団に行こうな。」

 父と母に挟まれて布団に寝転がって、母が小さな声で歌う子守唄を聞きながら眠りに落ちる。


 とても幸せだった幼い頃の記憶。

 いつもと同じように寝て、起きて。それはいつまで続いただろう。


 ある朝、目が覚めたら母が泣いていた。

「おかーさん?」

 泣きはらした母が杏奈を抱き寄せた。いつもはふんわりと優しい母の腕がその時は痛いほど強く絡まりついてくるのが怖かった。汗ばんだ母の腕。尋常ではない気配に不安ばかりが募る。

「おかあさん?どうしたの?」

「杏奈。杏奈。ごめんね。」


 母がそのとき、彼女に謝った理由は分からない。本来ならば病院で治療を受けていなければならなかった父の我儘を通して家で治療し、結果的に寿命を縮めたことかもしれないし、近いうちに父との別れがあることを杏奈に告げなかったことかもしれない。あるいは深夜に病院に駆けつけるときに彼女を置いて行ったことかも。大きくなっても彼女はこのときの「ごめんね」の意味を母に聞くことができなかったので、今でもその理由は分からないままだ。

 しばらくして次々と来客がやってきて、そのうち一人が杏奈に説明してくれたのは父が帰らぬ人になったのだということだけだった。どうしてそうなったのか、まだ幼い彼女には告げられないまま父の葬儀が行われ、杏奈は父に別れを告げる。


 棺に横たわる父は、少し青白いけれど彼女の大好きな父だ。しっかりと腹の上で組まれた大きな手と握手をしたくて杏奈は一生懸命父の手を解こうとした。

「杏奈?何してるの?」

 憔悴した様子の母が後ろから問いかけてくる。

「お父さんとあくしゅするの。おわかれのあいさつだよ。」

「そう。そうね。」

 母は杏奈を一度下がらせると父の手を解いてくれた。もう硬くなった父の手を解くのは大人の母でもずいぶん力がいるようだったが、母は誰の手も借りようとしなかった。母が「はい」と差し出してくれた冷たい手を杏奈はぎゅっと握った。

「おとうさん、いって、いってらっしゃい。」

 こういうときの別れの言葉など知らない。まだ杏奈は永久の別れの意味も知らない。ただいつも父を見送っていた言葉をかけてその手を慎重に元の位置に戻す。

 父は愛娘に見送られて旅立った。参列した人達は一日でも一時間でも長く家族の傍にいたがった男にしたら本懐であろうと、あるいは心残りはいかほどであろうと、可愛い盛りの娘の姿に目頭を押さえながら囁き交わした。


 その後、しばらく母と二人で必死に生きようとした。寝かしつけの達人がいなくなって寝付きが悪くなった娘のために母がたくさん歌を歌ってくれた。その頃の記憶はいつも母の歌声と一緒に思い出される。


 その歌声が途絶えるのは杏奈が中学に入る頃、父との思い出に満ちた土地にいることが耐えられないと母の故郷へ引っ越してしばらくした頃だ。

 ようやく沈みがちだった母の表情にも明るい笑顔が戻って、二人なりに生活を楽しめるようになってきたと思っていた矢先のことだった。学校から家に帰ると、ダイニングに大きな花束が生けられていた。

「ただいま。綺麗なお花。どうしたの?」

「おかえりなさい。うふふ。いただいたのよ。」

「誰に?」

 立派な花束だ。ちょっと遊びに来た友人にもらうようなものではない。

「ふふふ。近いうちに杏奈にも紹介するわ。」

 その言い方から、なんとなく事情を察した。だからそれから何カ月か後の週末に母に連れられて行ったホテルのランチで立派な体格の男性を紹介された時にはすっかり心の準備ができていて、うまく笑って挨拶ができた。

 新しい義父は覇気があって、いつも自信に満ちていて、疲れた母には頼りがいのある人に見えたのだろう。一つ一つはおぼろげでも優しい父の記憶が心に残る杏奈には少し怖く思えたが、何より母の幸せが大事だと、二人の邪魔をしないように、よい娘であるようにと彼女は務めた。新しい家族は上手く行っていて母はどんどん元気を取り戻した。急に義父の事業が傾くまで喧嘩とは無縁の家族だった。

 杏奈が高校に入ってしばらくは嫌な気配はあるものの、義父は乗り越えられると思っていたし、家族もそれを信じていた。それが一年経ち、二年経ち、事態が好転しないことに徐々に焦りが出始めた。不渡りを出すまでにはなっていないが、このままではそれも時間の問題だった。

 義父が美しく万事控えめの娘に目をつけたのは、その頃だ。本格的な話は高校を出たら、と言いながらもお見合いを持ってくるようになった。見え透いた政略結婚に母は当然反対した。

「なんでこの子がこんなおじさんと結婚しなければいけないというの。この子はまだ17歳よ。この人いくつよ。36?冗談じゃないわ。」

 両親の喧嘩の間隔は段々短くなる。どんなに聞こえないふりをしても同じ屋根の下で声は筒抜けだ。日に日に義父と母の関係が悪くなっていくことに杏奈は心を痛めた。それでも彼女自身も、じゃあ私がお嫁に行くわ、とは中々言い出せない。

 終りの無い迷路のような日々が続く中、あまりに話がこじれるのを嫌って杏奈はお見合いに行くだけは行っても良いと言った。

「本当か?いいんだな。」

「会うだけよ。会いもしないのが失礼だと言うのなら、会ってみて断るのならいいんでしょう?」

「ああ、会ってくれるだけでいい。案外気にいるかもしれないしな。」

「あなた!無理に進めようとしても許しませんからね。杏奈、本当に無理をしなくていいのよ?」

「大丈夫よ。美味しいものを食べに行くと思って。一回くらい、ね。」

 杏奈を案じつつも、毎日平行線を辿る義父との口論に疲れていた母がほっとしたのも分かった。一度会って駄目だと分かれば義父も少しは大人しくなるかもしれないという期待があったのも事実だ。その日は本当に久しぶりに穏やかな夕食になった。


 そしてお見合いの日。彼女は出会ったのだ。お見合い相手と言われたずいぶんと年嵩の男性が伴ってきていた、その人に。

 ホテルのロビーで顔を見た瞬間に何か閃くものがあって、お見合い相手のことはそこそこに、その人物のことばかり見ていた。その人も自分をみている気がした。お見合い相手も気がついたのだろう。苦笑いをしてこう言ったのだ。

「さあ、後は若いものだけで話すといい。私に十代のお嬢さんは若すぎますよ。」

 慌てる義父を急きたてるようにどこかの社長だという男は去っていき、杏奈とその人物だけが残された。呆気にとられて顔を見合わせて、それから庭を歩いた。鯉の放たれた小さな池の周りをゆっくりと。

 笑うと目尻による皺と柔らかい物腰が記憶の中の父にそっくりだった。たったそれだけのことだ。

 杏奈は彼がお見合い相手の社長の可愛がっている部下であることも、独身であることも、何も知らなかった。父のことを思い出して、少し懐かしんだだけのつもりだった。けれど話はそれだけでは済まなかった。お見合いの現場で、他の男を見つめていれば一目ぼれと思われても仕方が無かったと自分の迂闊さに気がついたのは義父と母が満面の笑顔で彼女を迎えてくれた後のことだ。


「思っていたのとは違う形だが、何よりお前の気持ちが大事だものな。運命の出会いというのはあるもんだな。」

 がはは、と大きな声で笑う義父に、この時ばかりは母も笑顔で頷いた。

「あなたが急に会ってもいいなんていうから心配したけど、本当に、運命みたいなものなのかしら。出会うために呼ばれたのね、きっと。」

 一体、何の話なのと聞き返せるほどもう子供ではなかった。けれど話が取り返しのつかないところに進められていくのをただ見ていることしかできなかった。義父も母も上機嫌で水を差す勇気がでなかった。

 その後、数度顔を合わせたその人は、いつも優しくて、穏やかで、どこか遠慮がちで。とにかく杏奈を怖がらせることだけは無かった。だからこそ、彼女も流されるままになったのだ。時間を重ねれば、いつか好きになるかもしれないと信じて。


 結婚式の日。

 記憶の中の杏奈と一緒に、その記憶を思い返している現在の杏奈も牧師の前に立って、その目を見た。



(青い瞳。この瞳を私は知ってた。)



 視界は急激に閉ざされていく。ただいつか聞いた声だけが頭の中に響いた。


「だから言ったろ。同じ間違いを犯すなって。自分を犠牲にして周りが丸くおさまりゃいいっていう事なかれ主義で嘘付いたらまた吹っ飛ばされるからな。お前が一番やらかしそうなのは、愛してもいない男に愛を誓うこと。そんなことしてみろ。次はどこにどう吹っ飛ばされるかわかんねえぞ。」



(ああ、そうか。あれは脅しなんかじゃないんだ。本当にそうだったんだわ。)


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