湖と白鳥 その4
セオドアが起きた後、二人は大きな岩に腰かけて湖に足を浸しながら流れる雲や、ときおり水面で飛び跳ねる魚を眺めていた。
「不安は少しは良くなったか。」
不意にセオドアに尋ねられて、杏奈は頷いた。
「それは良かった。」
「急に変なことを言いだしてすみませんでした。」
杏奈が頭を垂れるとセオドアはその後頭部をぐいぐいと撫でた。
「気にしなくていい。急に不安になることだってあるだろう。それをそう言ってもらえるだけで十分だ。」
「言うだけで、ですか?」
「相談してもらえるだけで俺としては十分だ。」
とんだ痩せ我慢だ。セオドア自身は口にしながら自分を嘲笑っていたのだが杏奈には分からない。言葉通りに受け取って素直に感謝した。小さな声で彼が「今は」と最後に付け加えたことにも気がつかなかった。そんな杏奈を見て、セオドアはもう一度、今度は胸の中だけで「今は」と繰り返した。頭を撫でられては嬉しいとはにかみ、幸せすぎて不安になると言う。そんなことをされては可愛くて仕方が無い。湖を一周するだけの時間で何度抱きしめそうになったことか。よく我慢したものだ。
「このくらいの幸せには早く慣れてもらわないとな。」
足をばたつかせて湖面にひろがる波紋を楽しんでいる杏奈に話しかける。
「なんですか?」
「このくらいのことには早く慣れてもらわないと。世の中、もっといいことだって起こるんだぞ。」
からかうようにセオドアが言うと、杏奈は目を何度も瞬かせた。
(今日の遠出よりももっといいこと。うーん、今度は旅行?でも旅行は結婚するまでは駄目らしいって言っていたし、じゃあ結婚?)
見る間に頬を染めて行く杏奈を眺めながら何を想像したんだろうかとセオドアは含み笑いをこぼす。こういうときの杏奈はどこか抜けていて、説明させてみると奇想天外なことを言いだしたりするのだ。
(今度は何を考えているんだか。)
セオドアはひっそりと笑いを隠して足の下を泳いでいく魚の群れに視線を動かした。悪く思われてはいないという自覚はあった。けれど、杏奈の中での自分の位置づけに確証がなかった。いつぞや急にお兄ちゃんと呼びかけられたこともある。それが今日の彼女の様子を見ていて、どうやらもう少し期待を持っても良さそうだと思えるようになってきた。もし、今日帰るまでに想いを告げてしまったらどうなるだろう。一緒にでかけるだけで幸せといってくれる、その幸せを上回る思いをさせてあげられるだろうか。それとも、もう気まずくて二度と一緒にどこかへ行くなんてできなくなってしまうだろうか。杏奈にも誰にも遠慮することなく、彼女のそば近くにいられるようになりたいというのはセオドアの我儘だ。それを諦めるつもりはないが、杏奈の気持ちが追い付いてくるまで待つくらいの余裕はまだある。幸い今のところ半年や一年かかるような遠征の計画も無いことだし、もう少し待つべきだろうか。例えば、彼女から一歩踏み出してくれるまで。
小さな魚の群れはずっとゆったりと泳いでいたが不意に一匹が向きを変えると一斉に逃げるようにセオドアの足元から去っていってしまった。大きな魚でもやってきたかと彼が見渡すと思いがけないものが目に入った。
「アンナ。」
頬を冷やそうと水に浸した手で顔を包んでいた杏奈はセオドアの呼びかけに、驚いたような気配を感じてぱっと顔を上げた。釘づけになっている彼の視線を追うと、その先に白い鳥が見えた。
「あ。」
大きな白い鳥。
杏奈は自分の足が湖に浸かっていることも忘れて立ち上がろうとした。セオドアが手を伸ばす間もなく膝の上までざぶんと水に浸かる。水の冷たさに我に帰って慌てたのか岸に戻ろうと踵を返しかけて足を滑らせた。
「危ない!」
セオドアの差し出した腕は間に合わず、杏奈はそのまま湖の中で転んで頭まで見えなくなった。
「アンナ!」
セオドアはすぐに自分も湖に入って彼女の体を救い上げた。両手で抱え上げて水から引きあげるまでほんの数秒だったはずだ。
「おい、大丈夫か。」
彼女を岸辺に下ろして頬に手を添える。頬は温かい。呼吸もある。首筋に手を移せば脈も正常に感じられた。
「アンナ?」
セオドアが彼女の名を呼んで体を揺さぶると、ゆっくりと瞼が上がった。しかし、その瞳はうつろに宙をみつめたままだ。魂でも抜けてしまったような様子が恐ろしい。
「アンナ、しっかりしろ。アンナ。」
セオドアはしばらく呼びかけたが一向に反応を返さない彼女の様子に堪えかねて、杏奈の背中に手を回して強く抱きしめた。先ほどまでの、抱きしめたいと思っては踏みとどまっていたときに思い描いたものとはまるで違う必死で甘やかさなどどこにもない抱擁。杏奈の小さな頬に手を添えて顔を覗きこめば、その瞳に自分は確かに映っているのに彼女の視線も表情もぴくりとも動かない。セオドアはそのまま頬と頬を合わせるように顔を寄せて彼女の頭を何度も梳いた。
「アンナ。戻って来い。体だけおいて迷子になるなんて反則もいいところだ。」