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湖と白鳥 その2

 風の音に耳を澄まし、日の光に輝く湖面を眺める。それだけの心地よい時間の途中で、この状況で肩も抱かないなんて自分は何て慎み深いのだろうと、セオドアは馬鹿なことに感心する。そのくらい良いのではないかと自分を唆す声が聞こえる気もするが、二人の間にはまだ彼を踏みとどまらせるものがある。杏奈から感じる僅かな戸惑いが逸るなと彼を食い止める。


「少し歩こう。」

 いつまでもこのまま座っていられる気もしたが、杏奈にしてみれば初めての場所だ。少しは見て回りたいだろう。セオドアが促すと、杏奈も「はい」と立ち上がった。ゆっくりと湖の周りを歩き出す。歩きながら、ようやく二人は話し始めた。

「今日は白鳥はいないみたいだな。」

「そうですね。白鳥って渡り鳥なんでしたっけ。季節によっていたりいなかったりするのかしら。」

「ああ、まだ少し早いのかもな。冬場はあまり王都のそばでは見ないから。」

 白鳥より小さな鳥ならば何羽か水の上で羽を休ませているが白い大きな鳥の姿は見えない。しかし白鳥という言葉は二人にミラードの話を思い起こさせるには十分だ。僅かな沈黙の後でセオドアが意識的に軽い調子で口を開いた。

「ミラード司祭には驚いたな。」

「はい。それほど多くのことをお話したつもりはなかったのに分かってしまうなんて。それにお話している最中もそれほど変わった様子はなかったんですけど。ミラードさんが、ああいう優しい方で助かりました。本当に私は皆さんに助けていただいてばっかりですよね。」

「うーん、まあ、そうだな。優しいかというと、目のことを敢えて伏せているんだから少し意地の悪い仕掛けだと思うけどな。それも仕方ないところもあるんだろうし、何にしても結果を見て運が良かったと思った方がいい。」

 人影がまばらとはいえ、無人ではない。二人は直接的な表現を避けながら会話を続けた。

「運が良いのは、きっとそのとおりなんでしょうね。感謝しています。」

 誰に、といえば誰にかは分からない。ここまで杏奈を助けてくれた運命のようなものに感謝している。杏奈がそう続けると、セオドアは長くため息をついた。


(運命というのであれば、そもそも記憶もなくして天涯孤独の状況に自分を追い込んだことを恨んでもいいんじゃないか。)


 この人の良さが、アルフレドをもってして彼女を聖女と呼ばしめた彼女の美点であることは間違いない。もちろん、それだけではなく他人を責めて自分を守ることを潔しとせず、与えられた状況の中で上を向こう、自分に厳しくあろうとする姿がセオドアの心を惹き寄せたのだ。不幸に酔いしれず、諦めず、人への思いやりも忘れない。それは強さだとセオドアは思う。


(こんな小さな体に強さを秘めている。とはいえ、この子は無敵というわけではないからな。)


 強くても、迷いもするし、傷つきもする。だからこそ守りたいと思うのだ。笑顔が当たり前ではないと知っているから、より大事に思う。セオドアはただ彼女の頭を軽く混ぜ返すように撫でた。人の良さに呆れたように。そして反省した様子の彼女を労わるように。


 大きな手が頭の上から去っていくのを少しだけ残念に思いながら杏奈は髪を直した。馬に乗るからと一つに束ねていた紐を解いて歩きながら器用に結い直して足を止めて水面を覗き込む。鏡代わりに出来栄えを確認する。ついでに頬が赤くなっていないか目を凝らすがさすがに微妙な肌の色までは分からなかった。きっと大丈夫だと言い聞かせると、すぐに立ち上がって自分を待っていてくれるセオドアの元へ小走りに駆け戻った。

「すまん。」

 髪を乱したことをセオドアが謝ると杏奈は「平気です。すぐ直せますし。」と小さく笑った。

「それに、頭を撫でてもらうのって、ちょっと嬉しいんです。」

 手の重さや温かさを感じると大事にされているような、守られているような気がして嬉しいのだ。今の杏奈が思い出せる記憶の中で父や母に頭を小突かれたことはあっても、撫でてもらったことは無い。他の大人からもそんな風に接してもらったことは無い。あの白い鳥が羽で触れてくれたことがあったが、それはやはり人の手とは違う。彼女の頭に軽く手をおいたり、撫でたりしたのはセオドアが初めてだ。その心地よい手の重みを思い出して杏奈は俯き加減に照れたように微笑む。彼の手のもたらす幸せは、柔らかく穏やかな彼の人柄そのもののように杏奈の心を温めてくれる。それを思い出しながら杏奈が数歩歩き、返事がないなと顔を上げるとセオドアは大きな手で口元を覆って立ち止っていた。

「セオドアさん?」

「いや、なんでもない。」

 軽く首を振りながらセオドアは大事ないというように片手を上げた。そのまま杏奈のところまで追い付いてくると、もう一度ぽんと手を頭の上に置いた。そのまま軽く押しだすようにして彼女に先を促しながらすぐに手は離れて行く。躊躇いがちな、ほんの一瞬の触れあいに二人はそれぞれに笑みを浮かべてまたゆっくりと歩き出した。

 何が日常かを知らないときには、それを手に入れたいと願った。やっと手に入ったと思ったら、それは強く守ろうとしなければすぐに失われてしまうものなのだと知った。そしてより強く日常を守りたいと思った。その日常を慈しむようにゆっくりと歩く。

 それなのに杏奈はいつの間にか後ろめたい思いに駆られ始めた。私ばかりが良い思いをしていていいのだろうかと不安に蝕まれる。しばらくして声の聞こえるところに人がいなくなると杏奈は湖の方へ視線を彷徨わせながら静かに話し始めた。話すことで自分の気持ちを整理できるかもしれないと思ったのだ。


「聖女と言われていたものが何なのか、私はきっときちんと分かっていないと思います。でも、そういう立場になったら今の生活を失ってしまうことはきっと間違いないのですよね。」

 話しだしは唐突だったが、セオドアは杏奈の言葉から先ほどまで話していた話題との繋がりをみつけて「そうだろうな」と相槌をうつに留めた。

「セオドアさんももちろんですけど、皆さんに助けてもらって、ここまでなんとかやってきて、今の普通の一日が私はとっても大事なんです。それに今日みたいに遠くに連れて来てもらうことも、嬉しくて。だから聖女なんて言われなくて良かったと思いました。あの日、ミラードさんのお話を聞いたときは、そうとしか考えられなかったんです。」

 そこで杏奈は横を歩くセオドアを振り仰いだ。

「でも、本当に私に神様からの特別な言葉を聞けたり、神様の使いに会えたり。そういう特別なことができるのだとしたら、それをしないのは自分勝手なんでしょうか。もし何もできないとしても、聖女とか何か特別な人がいるって思うだけで勇気を持てる人もいるかもしれないし、そういう人の力になることから私は逃げているんでしょうか。自分のことばかり大事にして、私は我儘なんでしょうか。」

 セオドアは立ち止り、困ったように眉を下げて彼女を見下ろした。

「我儘なものか。誰かのために役に立とうという心意気は良い。けれどそれはお前の生活を投げ打ってまでしなければならいことじゃない。」

「でも、私、今幸せすぎるんじゃないかって。恵まれ過ぎているから贅沢になっているんじゃないかって。」

 不安げな杏奈の言葉を遮ってセオドアは首を振った。

「そんなことはない。」

 はっきりと言いきってもらってなお、杏奈の心の中に芽生えた不安が消えない。一体自分は何を恐れているのだろう。杏奈は自問してみるが、それは良く分からなかった。

「お前は幸せに慣れてなさすぎる。幸福になることを恐れるなよ。このくらいのことで怖がっていたらこの先大変だぞ。」

 自分は幸せを恐れているのだろうか。セオドアの言葉に杏奈は首を小さく傾げた。

「私だけが、良い思いをしていいわけがないって思うのは、怖がっているということなんでしょうか。」

 杏奈自身も無意識のうちに幸せというものが訪れるのなら、もしその順番が既に決まっているなら、自分は最後だろうと彼女は思っていた。もし順序に口をだせるなら、自分より弱いもの、小さいものを先にと喜んで人に先を譲るだろう。疑う余地もなく自然にそう考えているので、その思い込みが自分に幸福が訪れるときに感じる違和感の原因だとは思いつきもしない。まして、自分がどうしてそんな風にものを考えるかなど分かりようもない。それは子供のように不思議そうに問う彼女の表情からも明らかだ。

 セオドアはその顔を見て思い起こすものがあった。辛い環境に長くあった子供は急に環境が変わるとふっとこんな顔をする。自分によくされることに慣れていないからこその戸惑い。彼女の苛酷な過去からどれほどの時間が経ったかは誰にも分からない。けれど彼女にはその後の記憶が無いと思えば杏奈の中で時間は連続していると思ってもよい。親に虐げられ、挙句に売られ、岩場から転落して命を落としてから、やっと一年くらいだろうか。


(心の傷があってもおかしくないか。)


 セオドアはもう一度彼女の頭に手を置いて微笑んだ。

「怖いのとは違うかもしれないな。でも遠慮し過ぎだ。お前はもっと我儘でもいいんだ。前にも言っただろう。」

「でも」

 杏奈は困ったような表情で彼を見上げた。

「私、さっきあんまり嬉しくて、幸せで。」

 そう言い募る杏奈の前に手をかざしてセオドアはそこまで、と話を止めさせた。

「それは良かった。早起きして来た甲斐があるな?折角来たのだから余計な心配は置いておいて、まずは楽しめ。」

 手を下ろして一歩下がったセオドアは軽く手を伸ばして景色を眺めろというように辺りを示した。杏奈の視線もつられて動く。思い悩んで、この景色を存分に味わないなんて損だ。言葉にされなかったセオドアの気持ちを感じて杏奈は小さく頷く。それでもまだ気持ちは晴れ切らない。本当にいいのか。迷う自分がいることに杏奈は自分で失望する。喜ばせようと思って連れて来てくれたのに。楽しめるようにと皆が送り出してくれたのに。どうして自分はこの時間にこんなことで悩んでいるのだろう。何が自分を不安にさせるのだろう。

「ここで人の言葉を借りるのは反則だが、まあいいか。師団長が言っていた。与えられた幸福を大事にすることが、生きている時間を大事にすることになるんだと。まるで今のアンナの為にあるような言葉だな。」

 セオドアはそう言って申し訳なさそうにする杏奈に微笑んだ。

「焦らなくていい。そういう悩みを一人で抱え込まなくなっただけでも随分な進歩だ。」

 そう言ってまた歩き出す彼の後ろ姿を見つめて、杏奈はきゅっと口を閉じた。言いたいこともあったけれど、優しくされて胸がいっぱいで口を開けば涙がこぼれてしまいそうだった。彼女の曖昧な不安を愚かだというのでもなく、せっかく連れてきたのにと落胆するでもなく。どこまでも優しく自分を甘やかしてくれる。甘えてはいけないと言い聞かせても、砂場に足を踏ん張るように虚しく彼女の心はずるずるとセオドアの優しさに引き寄せられる。



(ああ、度を過ぎて幸せだから怖いんだわ。)



 杏奈はやっと不安の原因に辿りつき、それをどうすることもできなくて小さくため息をついた。

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