湖と白鳥 その1
杏奈が湖に行く日を心待ちにする間、ずっと好天が続いた。毎日洗濯物を干しながら空を眺める杏奈の様子をからかいながらも女中達も同様に遠足の日の好天を願ってくれた。皆で「ああ、今日なら最高の天気なのに。でもきっと明日も晴れるわ。」と言い合う日が続いた。そしてその言葉通り、二人がでかける朝も空は晴れ渡り、風はあたたかく穏やかだった。
セオドアの仕事は不定期なので、でかける日が決められたのは数日前のことだった。セオドアが帰りがけに休みの予定を知らせにきて、執事と女中達が杏奈のお休みもそれに合わせるように融通をきかせてくれた。それだけでも有難いことなのだが、当日になってみればコックが籠にいっぱいのお弁当を用意し、執事は敷布をはじめとした遠出に必要そうなものを一式まとめて持たせてくれた。迎えに来たセオドアもすでに家を出るときにチェットから持たされたという籠を下げており二人乗りの馬での旅には少し過ぎた荷物になってしまった。
「予定変更だな。一度家に寄ってから出よう。」
執事と一緒になって荷物の中身を適当に詰め替えていたセオドアは、そういって振り返った。もともとアルフレドの意見で夜の早い時間に杏奈を送ってくるためにと出発時間を早くしている。少しくらい寄り道をしても問題ない。家人に見送られた杏奈はそのままセオドアの家に向かった。
「あれ、兄さん忘れ物?おはよう、アンナ。」
ローズ家で二人を出迎えたチェットは不思議そうセオドアを見たが、彼が大きな荷物がくくられた愛馬を示すと「ああ。そういうこと。」と納得した顔になった。
「先に叔父さんとこに連絡しておけばよかったね。重なっちゃったか。」
「そういうことだ。お前のと併せて俺達も食べるにしてはちょっと多すぎる。せっかく作ってもらったものを置いていくのもなんだから、お前叔父さんのところでもらった弁当少し食べないか。どうせだからミモザをつれてどこかに行って来たらどうだ。夜まで暇だろ。」
「う、うん。ありがとう。」
ぐいと籠を差し出されて受け取ったチェットは少し返事を濁したものの、眉を下げて笑顔を浮かべて素直にそれを引き取った。チェットと幼馴染の微妙な関係はまだ続いている。彼女を誘い出して話をするいいきっかけになるかとセオドアとしては気を利かせたつもりだが、有難迷惑ではないといいのだがと弟の表情をちょっとうかがってしまう。
「大丈夫。有難くいただくよ。兄さん達は早く行っておいで。せっかく早起きしたんだから。」
自分を気にかける兄の様子に気がついたチェットに背中を押されてセオドアと杏奈は再び馬上の人になった。
「天気が良くてよかったですね。」
杏奈が声をかけると、セオドアは気持ちを切り替えて頷いた。弟のことは自分でなんとかするだろう。それよりも今日は杏奈だ。やっと二人でゆっくり話ができるのだから子供達から届いた手紙のことも聞きたいし、先日のミラードの件も少し話がしたい。
「そうだな。まだときどき思い出したように寒い日もあるからな。」
まだ目覚めきらない王都を抜けて行く間、大きな声を出したら町の人が起きてしまいそうで二人は言葉少なに進んでいく。騎士の詰め所の傍を通るときにだけ少し馬の脚が早められていた気がするが、誰に呼び止められることもないまま王都の城門にたどり着いた。出て行く分には難しいことはない。まして門番を務める騎士達は年中通るセオドアを良く知っている。いつもの騎士の甲冑姿ではなく、しかも女性を伴っている彼の姿に彼らは揃ってなんともいえない笑顔を浮かべて二人を送り出してくれた。手を振って二人を見送る門番に杏奈は手を振り返した。
「そんなに愛想よくしなくてもいいんだぞ、あいつらに。」
セオドアは少し憮然と声をかける。
「え、何でですか?」
「何でってことはないが。どうせあいつら後でからかってやろうとか、ろくでもないことを考えているだけだぞ。」
セオドアにしてみれば、女の子を連れていたとからかわれたって痛くも痒くもない。しかし、面倒であることは間違いないし、余計なことを言われるのは困る。悪意で恋路を邪魔されるほど恨まれている覚えは無いが、どこにでも好意のつもりで余計なことをしでかす者はいるものだ。セオドアは肩越しにちらりと一度だけ、にやけた同僚達を振り返ってしかめ面になるとそのまま彼らのことには触れずに少し馬を進める速度を上げた。
「行くときには、遠く感じたのに二度目だからか近く感じます。」
王都に初めてくるときに通った道に差し掛かって杏奈は感慨深げに声を上げた。
「初めての道はどこも遠く感じるものだな。」
セオドアは同意してから、実際馬を走らせる速度も今回の方が速いのだと告げた。
「気がつかなかったか。」
「ええ。」
「慣れたからだろうな。」
自分が重い甲冑を着ていないことや、馬が旅の後で疲れていないことなども考慮のうちだがさらには杏奈が馬に乗せてもらうことに慣れて幾分速く走っても平気になったというのもある。彼女の様子を見ながら速度を調整したところ思ったより速くても大丈夫そうだと寄り道した分を取り返すべく馬を走らせたのだ。
「この分なら、昼前に湖の周りを一周りするくらいの時間はありそうだ。」
「湖はどのくらいの大きさなんですか。」
「うーん、大きさは見た方が早いだろうな。」
上手な大きさの表現方法が思いつかずセオドアが答えると、杏奈は「じゃあ楽しみにしています」と頷いた。確かに周囲何メートルと表現されてもぴんと来ない。
街道は湖のある小高い丘に向かって細くなり、木々に周りが覆われていく。そのまま新緑に彩られた道を上ると、木立に遮られていた視界が今度は徐々に開けてくる。柔らかな千切れ雲の漂う薄青色の空が広がっていき、ついに目の前に湖が広がったときに杏奈は思わず息を飲んだ。
明るく晴れた空を映して想像していたものよりも明るく澄んだ青い水面。湖に向かって張り出した若い緑が湖面を覗き込む淵の辺りはエメラルドに輝いている。
「綺麗。」
馬の上で身を乗り出すように首を伸ばすと、セオドアに頭をつかまれて止められた。
「馬の上で暴れると危ないと言っただろう。」
ちょっと前のめりになっただけで暴れてなどいないと思ったが、危ないかどうかは杏奈よりもセオドアの方が良く知っている。素直に謝るとセオドアは「気をつけろよ」ともう一度軽く頭に手を置いた。
湖にかなり近づいたところで馬の脚が止まり、セオドアが先に馬を下りる。両手をすいと差し出されて杏奈が彼の肩に手をかけるとそのまま抱き下ろしてくれる。お互いにもう随分と慣れたものだ。それでも忘れずに御礼を言ってから杏奈は湖に向かって駆け出した。すぐに湖畔にたどり着いて膝をついて覗き込むと、透き通る水に自分の顔が映りこむ。
「底が見えるわ。」
手を浸してすくいあげて、パラパラと水をこぼすと光を受けた水滴が輝きながら湖に帰っていく。水は冷たく泳ぐには適さないが、飲むくらいは大丈夫そうかと杏奈は鼻を近づけて匂いを嗅いでみる。少しだけ水草の匂いがするが、飲んではならないほどの強い臭いはない。思い切って少しだけ舐めてみると、まるで無味であったが冷たい水がのどを潤して落ちていく感覚が心地よかった。
改めて顔を上げてみれば、そこここに人影があることに気がつく。人気の観光地というだけあり、かなり早朝に王都を出てきたというのにもう人がいる。皆、思い思いの木陰や芝の上に陣取って話していたり、寝転がっていたり、ゆったりと時間を楽しんでいる。観光地というと賑やかな印象があるが、大きな店もなく、かまびすしい物売りもおらず、とても静かだ。
芝を踏む音がしてセオドアが隣にしゃがみこんだ。彼もそのまま湖に手を浸すと杏奈がしたのと同じように水を掬い上げた。杏奈はそのまま目の高さから水をこぼしただけだったが、彼はその手を大きく振って盛大に水を頭上に飛ばした。
「ひゃっ。」
冷たい水が頭から振ってきて杏奈は首をすくめて小さく悲鳴を上げる。一方セオドアは水を浴びて気持ち良さそうだ。
「お、すまん。」
頬を拭う杏奈の手を目に止めて謝るが、すでに遅い。
「冷たいですね。」
多少濡れても平気だと杏奈は首を横に振りつつ、微笑みかけた。
「まだ春だからな。夏になってもそれほど温まりはしないだろうが。」
セオドアはそう言って立ち上がると大きく伸びをして、同じく立ち上がった杏奈を振り返った。無言で何か問うている表情に感想を求められているのだろうと感じる。
「すごく素敵なところですね。静かで、綺麗で。」
「気に入ったか。」
「ええ。」
満面の笑みで杏奈が頷くと、セオドアも微笑んだ。
「それは良かった。歩く前に少し休もう。」
杏奈は乗っていただけとはいえ、馬で2時間の道のりはそれなりに疲れる。二人は馬をつないである木陰に入って敷物を広げて座り込んだ。冷え込んだときのためにと執事が持たせてくれた膝掛けも持ち出して即席の居間を作り出す。湖を渡る風は心地よく時々木々の葉を大げさにざわめかせた。
二人して黙ったまま湖面を眺める。話したいことはいくらでもあった気がしたけれど、静かに並んで座っているとあまりに居心地がよく満ち足りた気持ちになってしまい、何も言葉が出てこなかった。




