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交差する思いと記憶

 杏奈が読み書きの練習も兼ねて続けている日記は、いつまでたっても書き終わらないのではないかと思うほど長くなった。

 今日は本当にいろいろなことがあった。アンドリューの家に行ったことも、そこで聞いたことも、それからミラードがやってきたことも、そこにチェットとセオドアまで来たことも。日常が落ち着いてきただけに普段と違う出来事が起きると、とても新鮮に思える。

 ミラードに告げられた神の使いに会うということが、どれほど稀有であるかという話には驚いたし、肝の冷える思いがした。自分が「聖女」として祭り上げられてしまうなど信じられない。そんなことになれば手に入れかけた大切な日常がすべて失われてしまうだろう。これまで白い鳥に関してはあまり人に告げないようにと思っていたが、それは自分がおかしいと思われないようにという消極的な意図だけだった。それでも気をつけていただけ良かったのだろうけれども、ミラードが自分の話の端々からそれを読み取ったように、他の誰かにも気づかれしまう可能性はある。そうなってしまえば自分の無知は言い訳にならない。むしろ無知だから仕方が無かったと泣くことになるだけだ。貨幣の価値を覚えた。料理もできるようになってきた。洗濯も掃除もお客様への挨拶の仕方も。けれどそんなことで満足していてはいけなかったらしい。今は多くの人に支えられ、奇跡のような好意でもって守られている。そのことを忘れずにもっと広く世の中のことを学ばなければ。いつまでも記憶が無いからと甘えていられない。今回のミラードの話を聞いて杏奈は生活が落ち着くにつれて自分の世界を狭めて満足しそうになっていた自分に恥じ入り、改めて自分を叱咤した。誰かに守られていることにも気がつかずに、独り立ちできた気になっていてはいつまで経ってもウィルに会わせる顔など無い。

 自分の不注意さや、起こりえた恐ろしい未来の話に杏奈はひどく落ち込んだが、その話が終わってからアンドリューやミラードがいろいろな話をしてくれたので随分と気が紛れて救われた。ミラードに至っては家までついてきてアルフレドやチェットとの軽妙なやりとりを聞かせてくれた。自分の気を紛らわせることが目的ではなかっただろうけれど、こうやって大きなことから小さなことまで多くの人に救われているのだと杏奈は感謝の思いを強くした。早く何かを返せるようになりたい。今は人並みに追いつくので手一杯で立派な騎士や司祭に何かを返せるようなところまではまだまだ遠いが、このままでは一生かかって返せないくらいの恩で自分が埋もれてしまいそうだ。人より出遅れている分、人よりも積極的にならなければ追いつけないだろう。


 それにしても、チェットとミラードがあれほど話が合うとは驚きだった。確かに二人とも話し上手だが気安くてくだけた雰囲気のチェットと、落ち着いて物腰の穏やかなミラードは少し違うのかなと思ったのに、話し始めればチェットも相手を弁えて言葉を選ぶことが分かったし、ミラードもお高くとまることはなかった。流れるように延々と話す二人は本当に楽しそうで、これまで仲良くしていなかったというのが信じられないくらいだ。


(私もあのくらい思っていることを上手に表現できたらいいのに)


 杏奈はどうしても言葉を選ぶのに手間取り、話し出すタイミングが遅れたり、会話の中で「あの」を何度も言ってしまったりする。頼りなく聞こえるので直した方が良いと女中修行の中でも注意を受けているのだが、これがなかなか直らない。まずは練習あるのみと女中達と同じようにしゃべろうと試みているところだが、まだ焦りすぎて舌を噛むことがある。あの二人をお手本にするには、手本の質が高すぎる気がするが、話を聞いていれば勉強になることもある。知り合えたことに感謝して次の機会があればもう少し会話に入れるように頑張ってみたいところだ。


 こうして並べてみると反省して落ち込んだ方が良い様なことばかりなのだが、今の杏奈はとても機嫌が良い。理由はもちろん、去り際にセオドアが改めて約束してくれた湖への遠足だ。


(ちゃんと覚えていてくれたんだわ。とても忙しいのに。)


 ほとんど無意識に耳飾りを撫でながら、一緒に行こうと誘ってくれた彼の表情を思い出してあたたかい気持ちになる。あんなに嬉しく感じるなんて思わなかった。こんなに待ち遠しくなるなんて思わなかった。少しずつ、少しずつ育っていく気持ちの行方を予感して落ち着かない気持ちになる。予感を認めてしまえば、ミラードの話とは異なる意味で意味で世界がまるで違うものになってしまうのではないかと思う。今の穏やかな世界が急に表情を変えて違うものが見えてくるのではないかと思うと怖くもなる。今はまだ、そこへ手を伸ばして良いのか分からないまま、ただ柔らかい予感だけを抱きしめているばかりだ。

 これまでに知り合った子供達や騎士達に友人として好意を寄せてもらえることは今の自分を認めてもらえるようでただ単純に嬉しいものだった。有難く思うし、少なくとも自分が嫌われていないということに安堵もする。けれど、そうした好意を嬉しく思う気持ちと、セオドアが一緒に湖に行こうと言ってくれたときの喜びはまるで性質の違うものだった。それはもう間違いようもなく。ひっそりと芽吹こうとしている気持ちを分かった上で、杏奈はそこから目を逸らす。今はまだ、と理由にならない理由で自分を押しとどめて決定的な結論を先延ばしにする。今はまだ、やっと手に入れた世界が変わってしまうことが怖いのだ。胸の中でさえ言葉にすることを躊躇うほどに。


 深く考えることを避けた杏奈は、湖に行く約束までを記して日記帳を閉じた。引き出しに筆記具をしまおうとすると一度使ったきりになっている夜光草の香水瓶が目に入る。ミラードがこれを持ってきてくれたときは細やかに気を遣ってくれる優しい司祭なのだと思っただけだったけれど、あれから今日までの態度や話しぶりにはそれだけではないような、もう少し踏み込んだ好意が見え隠れしていた。気のせいだろうと思っていたが、今日の言葉はさすがに難しい。疎い、鈍いと女中達から散々な言われようの杏奈も、もしかしたらと考えずにはいられない。だとしても、いまさらこれを返すのもおかしい気がするし、彼が自分の身を案じてくれていることは変わりないのだから、その思いやりをつき返すようなことはできない。ではどうするかというと、使うという気にもなかなかなれない。ミラードの態度云々がなかったとしても、どうも一日眠りこけてしまったのはこの香水のせいのような気がしてならず、怖くて使いにくいのだ。しかし、この香りが深い眠りを誘い、あの白い何かに自分を引き合わせてくれるのならば、毎晩でも使いたい欲求もある。


(鳥さんには会いたい。聞きたいこともいっぱいあるけど、次は目が覚めなかったらと思ったらやっぱり怖いし。)


 小さな瓶を手にとって、()めつ(すが)めつ眺める。


(ミラードさんももう鳥さんのことを知っているんだったら、この香水と鳥さんの関係を聞いてもいいのかしら。)


 香水を持ってきたのはミラードで、知りうる中で神の使いに一番詳しいのもミラードだ。上手く話を聞けそうな機会があれば聞いてみようと心に決めてその日はまた瓶の蓋をとることなく引き出しへ戻して布団へもぐった。

 湖に行ったら白鳥が見られるだろうか。あの青い瞳の白鳥はもういない。それは直感的に分かっている。あの鳥は白い光になってしまってもう形ある姿では存在しないものだ。それでも万が一会えたら。会えなくても何か少しでも思い出す気持ちがあればいい。とても大切だった優しい友人のことを、これからも人には話せないままになる。せめて、白鳥をみるときに、そのことを分かち合ってくれる人と一緒にいられたら嬉しい。杏奈は瞳を閉じて、記憶の中の美しい友人に思いを馳せた。


(貴方のことを、隠すみたいにしてごめんなさい。本当は自慢のお友達だよって皆に言いたいけど、大騒ぎになってしまったら皆に迷惑をかけるし、私も聖女なんて無理だし。許してください。私はもう絶対忘れないから。)

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