好敵手?
杏奈の様子に、これは誰かいつか旅する伴侶として思い描く相手がいるようだと誰もが察した。これまで、周りから想われてはいても彼女自身が誰かを特別にしている風はなかったので思いがけない展開である。セオドアやアルフレドなど、実年齢を脇において考えれば、杏奈にはまだ恋は早いのではないかと思っていたほどだ。
アルフレドは気遣わしそうに、そして少しだけ寂しそうに頬を染める杏奈を見ていた。娘の初めての恋を悟る父親の気持ちは、想像していた以上に切ないものだったようだ。ミラードは意外そうに眉を上げた。それはすぐに元に戻したものの、珍しく興味深いという好奇心を隠しもせずに表情に出している。チェットは思わず兄の表情を窺ったが、セオドアは相変わらず少し困惑したような表情で思われる相手が自分であるとは考えていないようだ。
(さあて。どうしたものかな。)
チェットは自分の世界からなかなか帰ってこない杏奈に視線を戻して考えた。これは、どうにも放っておけない。もしセオドアのことを思っていてくれるなら、それにセオドアが気がついていないことが問題だし、そうでないならもっと問題がある。急に問い詰めても良いことはないので、核心の少し外側から話を再開させることにする。
「急に結婚といっても実感がないよね。先の話は置いておくとしてさ。ただの旅とは違うけど遠くに行くなら兄さんは慣れたものだよね。細かいことはみんな任せておけるし、旅の道連れとしては便利だと思うな。」
声をかけられてやっと我に返った杏奈はチェットの言う通りだと素直に同意した。旅においてセオドアが頼りになるのは間違いのないことだろう。
「そうですね。きっと頼りになるのでしょうね。」
そこへミラードがやんわりと割って入ってくる。
「確かにセオドアさんは旅慣れていらっしゃるでしょうけれども、女性を連れての旅は早馬で駆け抜けるのとはまた違いますからね。他の人を伴っての旅というのはそれはそれで経験が必要かもしれませんよ。」
チェットとミラードの視線が僅かに交錯してアルフレドには決闘の開始を告げるために剣を打ち合わせる音が聞こえた気がした。
「そうですね。司祭様なら体の弱い方との旅路や女性も伴っての旅路もさぞかし慣れていらっしゃるでしょうね。」
「私の旅はいつも付き添ってくれる人が多くあるものですから、どうしてもそうなりますね。」
「それは頼もしい。けれど女性としては、あまりに女性慣れしすぎている男性というのは伴侶として見たときに複雑なものかもしれませんよね。心配になってしまいそうだ。ましてや司祭様はお美しいし国中の人気者ですものね。ご苦労もおありでしょう。」
「ははは。そんなことはないですよ。不安を取り除くのが仕事ですから。」
二人は穏やかに、残りの三人を置き去りに話を続ける。杏奈は会話を追いながら、はて、と思う。チェットがミラードの女性関係を揶揄しているようにも聞こえるがミラードはそもそも司祭だ。
「あのう。」
二人の会話を遮らないように杏奈は小さな声でアルフレドに問いかけた。アルフレドは無言のまま片眉を上げて続きを促す。
「司祭様って結婚できるものなのですか。」
杏奈は誰に教えられたわけでもないが、司祭は恋愛も結婚しないものだと信じていた。しかし、そうだとするとチェットの言葉の意味が分からないのだ。もしかして、と思って問いかけた言葉はミラードとチェットの耳にも届いた。場に僅かに沈黙が下りる。
「アンナ。」
アルフレドは目を輝かせて杏奈に向き直った。
「司祭は神に仕える仕事だが、神と結婚するわけではない。もちろん結婚も子供を持つこともできるよ。それを本人が望めばね。でも、独身を貫かれる方も多いですよね、ミラード司祭殿。」
「ええ。結婚できますよ。」
同意を求めたのはそこじゃない。アルフレドはちろりとミラードを睨んだが、まあ良いと再び杏奈に意識を切り替えた。
「司祭は結婚できないと思っていたんだね。まあ、アンナがどうしても司祭と結ばれたいと思わない限りどうでも良いことだから知らなかったとしても不思議は無いね。君の知り合いの司祭はミラード殿ともうお二人は少し会ったことがあるだけだし、一人は女性で、もう一人も高齢だったからなあ。」
言外に「ミラードに興味が無いのだから知らなくても当然だ」と言いながらアルフレドはにこにことアンナに語りかける。
「ええ、知りませんでした。なんだか一生を神様に捧げるような気がしていて。」
相槌をうつ杏奈の様子は明らかに「叶わぬ恋と思っていたミラードと結婚できるかもしれない」と喜ぶ風には見えない。これはミラードの線は消えたなとチェットとアルフレドはほくそ笑んだ。では、振られた形になるミラードはどうだろうかと様子をみると、少なくとも目に見えてうろたえた雰囲気は無い。そのままの邪気のない笑顔でミラードは杏奈に語りかけた。
「司祭に恋人がいても妻がいても問題ありませんし、まして友人ならば誰に憚ることもありません。ですから、私とどこかに旅したいと思っていただけるのなら喜んでご案内しますよ。」
なんて厚顔なのだ、とアルフレドは呆れを通り越して感嘆した。一見儚くさえ見える外見からは、この流れで更に杏奈を旅行に誘える強い心臓の持ち主とは想像できない。今日は半ば無理やり家に押しかけたことといい、ミラードの押しの強さに驚かされるばかりである。
(やはりこのくらい強かでないと、この若さで高司祭など務まらないということだろうな。)
顔が綺麗なだけより、よほど見所がある。誰であれ自分のもとから杏奈を連れ去ろうとする男は気に入らないが、個人としてみればアルフレドから見ても好ましい男には違いない。しかし司祭と親しく付き合うにはそれなりの覚悟がいる。ミラードほどの癒し手であればなおのことだ。彼の力に縋りたいものは、彼に親しい者にも見境無く手を伸ばすだろう。少なくとも今の杏奈にそれを跳ね除けていける力があるとは思えなかった。もし杏奈の気持ちがミラードに傾くようならば、その点を気づかせてやらなければならないと思っていた。しかし彼女としてはミラードを尊敬する司祭と捉えているに過ぎないようだ。そうなれば無理に引き剥がさなくても自然と適切な距離に落ち着くだろう。アルフレドはあえて静観するすることにした。
一方の杏奈はどう返事をしたものかと考えた。ミラードは「友人だ」と言うが、話の流れ上、本当にそれだけの意図かどうかは判断が難しいところだ。男性と旅に行くならば結婚後といい出したのはミラードであることだし、ただ「はい」と答えるところではないだろう。答えに含めるべき内容そのものは難しくない。杏奈には司祭の地位がなくてもミラードと恋に落ちるところはどうも想像できない。とても優しくて思いやりがあって、気が利いて、見た目も申し分なく美しい。素晴らしい人だ。素晴らしいからこそなのかもしれないが、自分とは違う世界の人のように思えてならない。対等に並んでいるところなどまるで思いつかない。今だって、彼の慈悲深さが彼と自分の距離を縮めてくれているだけで、本当はこうして楽しくおしゃべりできるような存在ではないのだと気後れする思いが拭い去れないでいる。付き合ったり結婚したりということはない。けれど親しくしてくれることに感謝しているし、本人の言ってくれているとおり友人でいられたら素敵だと思う。どう伝えたら良いのか。嘘も遠まわしな表現も得意ではない。結局、本当に思っていることを言うしかないと心を決めた。
「ありがとうございます。いつか皆さんと一緒に旅行できたら素敵ですね。」
ウィルや子供達、アルフレド、ヴァルター家のみんな、セオドア、チェット、アンドリュー。とにかくこれまで出会ったみんなで旅行などできたら、それは素敵なことだろう。杏奈はその様子を思い描きながらミラードの蜜の色の瞳を見つめて微笑んだ。
(ああ、この笑顔が好きだなあ。それにしても、こんな良い笑顔でかわすなんて技も持っているんだね。)
ミラードは少し眉を下げて微笑んで「そうですね」と返した。自分が杏奈にとって恋愛や結婚の対象ではないというのは薄々気がついていた。正直なところ、彼としても杏奈は可愛いがそれ以上の感情は育たなかった。彼女が神の使いに会ったことがあると知れたことでそこにさらに兄弟愛というか同志としての意識が芽生えた。いつか、神の使いという存在について誰にも話せないで来たことを話したい。それは神の使いと言葉を交わして以降、人生がすっかり変わってしまったミラードがはじめて抱いた感情だった。やっと過去に決別して自分を変えていけるきっかけを与えてくれそうだという希望を感じた。だからミラードにとって杏奈は特別な存在ではある。しかし、それは恋ではない。
だから杏奈の言葉にも、上手に切り返せたねと褒めてやりたいという気持ちしか湧かなかった。
「アンドリューも一緒にいけると良いでしょうね。旅慣れていて、腕が立つし、ご両親の領地を訪ねるときに母上と同道したり、女中を連れたりと女性を伴う旅にも慣れていますから。忙しすぎるのが玉に瑕ですが、そんな彼に休みを取らせる意味でもいい提案かもしれませんね。アンナが言えば聞いてくれそうな気がしますよ。」
それは少しの意地悪と、少しの本気の混じった言葉だった。ミラードにも杏奈の気持ちがずいぶんとセオドアに傾いているのは分かる。しかし、今日の昼間のセオドアの態度からは二人の関係が歯がゆいものに見えたので、少し揺さぶってやりたくなったのである。そして少しでも望みがあるならば長年の親友であるアンドリューの幸せも併せて叶えたいと思う。杏奈の気持ちを無視するつもりはないが、挑戦する余地があるかくらいは確認してやりたい。どうせ放っておけばアンドリュー自ら杏奈に言い寄ることなど全くしないに違いない。恋を楽しむには彼の身分は高すぎて、後々の起こるかもしれない問題を考えればおいそれと女性に声をかけることなどできないのだから。
ここで師団長を引っ張り出されるとは思っていなかったチェットは驚きを隠しながらミラードを見やる。ミラードが杏奈を気に入っているとまずいかと気を払っていたが、やはり直感どおり気をつけるべきは師団長の方だったかと内心で舌打ちする。ただでさえ向かうところ敵無しの色男に、ミラードという駆け引きに長けた助っ人がついてきたら大変だ。
(ああ、兄さんがぐずぐずしている間に王国最強の恋敵が出てきちゃったよ。)
チェットは成り行きを静かに見守っている兄を一睨みして、しっかりしろよと念を送り、さらには自分も負けるものかと改めて気を引き締めなおした。