恋敵と恋心
自分は感情が顔に出にくい性質だというのは、かなり昔から自覚がある。感情表現の下手さを不便に思ったこともあるが、こういうときには実に便利だ。セオドアはその内心をまったく感じさせない引き締まった表情で仕事場である訓練所へ戻った。
前日に急にアンドリューから呼び出しを受け、しかもなぜか家に来てほしいと言われたときには何の話だと訝しく思った。相手は上司で仕事をいったん抜けてもよいと言われれば断るという選択肢はない。初めて足を踏み入れたフォード家は噂に違わぬ豪邸で、王家が避暑や避寒のために持っている離宮と遜色ないほどの広大な敷地を有していた。そんな家らしくない家の一室に通されてみるとアンドリューの他にアルフレドと杏奈、それからミラード司祭の姿があった。騎士たちの間では杏奈を奪い合っていると噂される三人が彼女と養父を交えて揃い踏みという状況である。正直、複雑な心境にもなる。もし杏奈とアンドリューかミラードとの間に何か大きな進展があって、これ以上彼女に深入りするなと釘を刺されるのだったらどうしようかと後ろ向きなことを一瞬本気で考えた。
しかし話が始まってみれば、アンドリューとミラードとが杏奈の生活と未来を案じてくれた結果、この集まりが開かれたのだと分かる。彼等も言っていたとおり、杏奈が本当に聖女として祭り上げられてしまうのは彼女も望まないだろうし、誰にとっても幸せなことではないだろう。神の使い本人が、これ以上傷つかないようにと杏奈を案じてくれていたというのだから、神の使いの意思にすら沿わないことになる。人にはあまりに話したくないようなことを言っていた杏奈だが、様子から察するに「うっかり」「知らぬ間に」悟られてしまったというところだろう。何も言われなければ、他にも誰かに気がつかれてしまったかもしれない。そう思えば、話が大きくなる前に注意をしてくれたアンドリューとミラードの行動は実に有難いものだ。どちらも恋敵としては手ごわい相手だが、今回ばかりは素直に感謝する。
そして最初の緊張が過ぎ去ると、杏奈にとって大事な話をする場に自分も招かれたこと自体が喜ぶべきことなのだと気がついた。それなりに周りからも彼女にとって必要な存在だと認めてもらえているのだろうか。そもそも誰が今日セオドアも呼んだ方が良いと言い出したのだろう。杏奈は何の話が始まるのか知らなかったようなので彼女ではないだろうが、そうでないならアルフレドだろうか。避難所にいるときには杏奈を手放すなと煩いくらい言ってきたくせに、最近はすっかり可愛い娘に夢中でどうもセオドアを警戒している節がある。彼が考えを改めてくれたのなら、乗り越えるべき障害が減って有難い。当初に煩がってしまった手前、いまさらセオドアの側から協力してほしいとは言い出しにくいのだ。
しかし、今日はアルフレドの態度など問題にならないくらい喜ばしいことがあった。杏奈の耳飾りだ。彼が珍しく意識して頬を引き締めていなければいけないくらい浮ついた気持ちでいるのもそのせいだ。自分の贈った耳飾りを杏奈が身につけていてくれた。星祭り以降、段々と仕事が忙しくなり結果的に杏奈に会う機会は減ってしまっている。それでも久しぶりに会えたときに彼女が耳飾りをしていてくれると、いつかは叶わなかった神の使いの願いと自分の想いとが彼女の傍にある気がする。離れていても彼女を一人にしていないように思えて安心する。それに少しだけでも彼女が自分を思ってくれているようで心が浮き立つ。今日は更に彼女が口に出して、お気に入りだ、お守りだと言ってくれた。彼女があの日、星祭でたくさんの贈り物をもらっただろうに自分の贈ったものを特別に思っていてくれる。その喜び。その幸福。それは何にも例え難い甘美な感情だった。喜びが過ぎて、やにさがった顔になっていただろう。なるべく人に見られないように誰もいない方を向いてみたものの、向かい合うように座っていたアンドリューやミラードには気がつかれたかもしれない。
これからまた数日から長ければ十日、王都を離れなければならないこともあるだろう。各地にアンドリューからの指示を伝達して回るセオドアの仕事はとにかく移動が多い。国の端と端の二箇所の駐屯地を回って戻るなどということをすれば悠に十日はかかってしまうのだ。家には弟がいてくれるし、父もまだ元気だ。泣かせる恋人がいた時期も長くは無い。これまで各地を回る仕事を苦にしたことは無かったが、杏奈と王都に戻ってからは違う。王都を旅立つときからすでに如何に早く仕事を済ませるかということを考えている。そして美しい景色を見ればいつかここに杏奈を連れてこられるだろうかと無意識に考え、土地の旨いものを供されれば、なんといって彼女に伝えようかと慣れない土産話の準備などをしているのだ。自分は変わってしまったのかもしれない。どこがとは言えないが、もう彼女を好きだと気がつく前の自分が毎日のふとした隙間に何を考えていたのか思い出せもしないのだ。
(暇さえあればアンナのことを考えているなんてチェットとコンラッドに知られたら、あいつら面白がって何をしでかすか分からないな。気をつけよう。)
セオドアは訓練が終わるまで表情を緩めず、日中の外出についても騎士仲間にも何も聞かれることなくその日を乗り切った。夕刻に家路を辿りながら、今日ならば急に杏奈のことを訪ねても不思議がられはしまいと思う。会えるときに顔を見ておかないと、任務の都合で挨拶をする間もなくしばらく会えなくなることもある。体はすっかり疲れていたが、それでも足は自然とアルフレドの家の方へ向いていた。
「あれ、兄さんも今あがり?お疲れ様。」
なんて間の悪い。思った気持ちを顔に出したつもりはないが、さすがに兄弟の目は誤魔化せなかったらしい。
「そんな顔しなくてもいいじゃない。」
やや苦笑い気味のチェットを振り返って、セオドアは馬の脚を緩めた。
「よう。」
短く声をかけると、チェットはにやりと笑顔の質を変えてみせた。
「どこに行くの?」
セオドアの進んでいた道は家路といえば家路である。しかし、ただ家に帰るのならばもっと近道がある。当然チェットは普段のセオドアがどちらの道を使っているかくらい知っている。この道は家に帰る前にアルフレドの家によるときに便利な道だ。分かっているくせに含みのある表情で聞いてくる弟は自分の恋心などすっかりお見通しなのだろう。
「フレッドおじさんのところだよ。昼間にちょっと会ったのにあまりきちんと話せなかったから。」
セオドアは主語をあえて省いているが、チェットには伏せられた人の名前が容易に推測できる。
「へえ、珍しいね。アンナはあんまり外出しないみたいなのに。」
「それでお前は?仕事は終わりか。」
答える代わりにセオドアが問い返すと、チェットは「そうだよ」と答えて当たり前のように兄についてきた。家族と道端で偶然あったら一緒に帰ることはおかしなことではない。面倒な奴がついてきた、と思いつつセオドアは無言でアルフレドの家へ向かった。