白鳥の目は黒い
ミラードの予告通りに王都にも暖かい風が吹き始めた。風に誘われるように春告草のつぼみが綻び、やがて町全体が春の気配に覆われていく。屋敷の庭は色とりどりの花に彩られ、木々は黄緑色の新芽を吹いて力強さを増して行く日差しを緑色に染めた。
「春というのは心浮き立つ季節だね。」
馬車の中でアルフレドが声をかける。向かいに座る杏奈は「はい」と相槌を打つものの、その表情は硬くとても心浮き立っているようには見えない。
「そう緊張しなくても大丈夫だよ。」
(そ、それは無理というものです。)
言い返せない反論を胸にしまって、杏奈はもう一度「はい」と頷いた。杏奈が過度に緊張して向かっているのはフォード家である。つまりアンドリューの家だ。今日は非番でお休みのアルフレドと一緒に招待を受けていた。どうして急に呼ばれたのか、何の会なのか全く分からない。不安ばかりが募る。出掛ける前に女中達が、アンドリューから嫁に来てほしいと申し入れがあるのではないかとか、まずは女中として来てほしいというところから始めるかもしれないなどと散々に騒ぎ立てたおかげで、余計な心配をしては自意識過剰だと自分を諌めて道中の春の景色を楽しむ心の余裕もない。
「あのう、もしかして。これがアンドリューさんのおうち、ですか。」
おうちと呼ぶには相応しくない最早お城のような大邸宅に馬車が進んで行く。杏奈は口を閉じるのも忘れて窓の外を見つめた。同居している家族は3人だと今先ほども聞いたが、この大きさならばその数十倍くらいの人が住んでいても不思議ではないかもしれない。蔦の這う高い尖塔は何のために存在するのだろう。何もかもが予想以上だ。杏奈は酷く場違いなところにやってきてしまったと気後れするままに馬車を降りる。
白髪の上品な執事が案内してくれた部屋は日中の茶会専用の部屋のようで大きく庭に張り出した部屋の一面がガラスで覆われている。手入れの行き届いた庭に咲き誇る花が美しく見えるその部屋に入ったときに杏奈は眩暈がしそうになった。これが本当の上流貴族の家というものか。
勧められるままに庭の見えるソファに腰掛けて待っていると、アンドリューと、続いてミラードがやってきた。司祭服ではない彼の姿は珍しい。これから乗馬にでも出かけるような軽装である。驚く杏奈にミラードが微笑んだ。
「今日は司祭としてではなく、アンドリューと貴方の友人として来ているのですよ。」
「友人、ですか。」
自分とミラードは友人関係だっただろうかと杏奈は考える。なんとも微妙なところだ。
「アンナ、司祭殿も一応友人ということにして差し上げてはどうだね。」
一応、の部分を強調してアルフレドが声をかける。実に楽しげな表情だ。それを聞いてミラードは言葉を継ぐ。
「もし、アンナさえよければ友人の末席に加えてもらえると有難いですね。」
「そんな、末席なんて。こちらこそ光栄と言いますか。ありがとうございます?よろしくお願いします?」
杏奈の内心の混乱そのままの答えに、三人は揃って笑顔を浮かべる。
「はい、よろしくお願いします。」
ミラードは手を差し出して杏奈と軽く握手をした。そのまますぐに手を離して空いていた椅子に腰かけた。
「師団長もこういうところはミラード司祭殿を見習った方がよいですね。女性に接するときには節度を持って不用意に触れないことですよ。」
まだ夜会の件を根に持っているのかアルフレドが釘をさすと、アンドリューは聞こえない素振りで「まだかな。」などと外の様子を窺う。
「他にも誰かいらっしゃるんですか?」
ミラードがいる時点で予想外だった杏奈がアルフレドに問いかけると、彼は目を輝かせて笑った。
「もう一人ね。もうじき来るだろう。」
杏奈がこの組み合わせの中にもう一人というのは軍医のことだろうかと考えている間に、執事がもう一名を案内してきた。
「遅くなりました。」
騎士の制服そのままでやってきたのはセオドアだった。杏奈はまた驚いて目を瞬かせる。一体なんの会なのだろう。アンドリュー、アルフレド、ミラードは休日のようだが、セオドアに関しては仕事中に抜けてきたか、仕事終りに飛んできた様である。
「いやいや、忙しいところすまないね。さあ、始めようか。」
素早く全員の前にお茶を用意すると控えていた女中と執事は部屋を後にする。五人だけになった部屋でアンドリューが声をかけた。
「今日は急に呼び立てて申し訳ない。どうしても急ぎ話しておきたいことができたので集まってもらったが、今日、ここで話すことは他言無用ということでお願いしたい。」
そう言ってアンドリューは視線でミラードに次を譲った。
「この面々をみれば何の話か、想像がついてしまうでしょうか。」
彼の言葉に全く分からない顔をしているのは杏奈一人だ。アルフレドもセオドアも真面目な表情でいかにも心得ていますという風である。困った様子で二人をみる杏奈の様子にミラードは微笑む。
「大丈夫ですよ、アンナ。ちゃんと説明します。今日話したいのは貴方のことです。」
「私?」
「ええ。それから貴方が出会ったであろう白い鳥の話です。」
その言葉に杏奈は絶句して、先ほどとは違う意味を込めてアルフレドとセオドアを見た。彼女が夢の話をしたのは二人だけで、アデリーンくらいは知っているかも知れないと思ったがそれ以外の人に話しているとは思わなかったのだ。口止めはしていないし、相手がアンドリューやミラードなら信頼のおける相談相手だとは思うが、それでも無断で相談されるとは思っていなかった。二人の表情はやや硬く、その意味が杏奈には読みとれない。
「この話は私が推測しただけです。アルフレドも、セオドアも私に相談してはくれませんでしたね。それは賢明な判断だったと思います。」
ミラードはそう言って少しいたずらっぽく微笑んだ。
(じゃあ、隊長さんもセオドアさんも私も話してないのにミラードさんはなんで鳥さんのことを知ってるのかしら。やっぱり司祭様は神の使いについて何か特別なことを知っているとか。)
「これからも、あまり多くの人に知らせるべきではないと思います。どうしてこんな話をするかについてまずは説明しましょう。」
それからミラードは彼の考える懸念について説明した。彼女が神の使いに会ったことがあるというところは前提として深入りせずに、それが広く世間にしれたらどうなるかという予想を説明すると、アルフレドとセオドアの表情は見る間に渋くなり、杏奈に至っては泣きそうになった。聖女と崇め奉られるなど冗談ではない。今の女中の見習いで精いっぱいの自分に聖女なんて務まる訳が無い。
「ですから、アンナが神の使いに会ったことがあるならば、それを伏せておいた方が君のためだと思うのです。」
ミラードの言葉に杏奈は強く同意して頷いた。噂の的になるのも、今の生活から引きはがされるのも、ちっとも望むところではない。
「分かりました。それは私も賛成です。ところで、司祭殿はどうしてこの子は神の使いにあったことがあると思われるのですか。推測だと仰いましたが、その推測を説明していただいてもよろしいですかな。」
不信感を滲ませるアルフレドの問いかけにミラードはうろたえることなく答えた。
「青い瞳の大白鳥。ご覧になったことや聞いたことはありますか?」
その言葉にアルフレド、セオドア、杏奈は三者三様に表情を変えた。アルフレドはそれだけで合点いったように頷き、セオドアは何かに気づいたようにはっとした顔になる。杏奈は隠し事が見つかってしまった子供のように居心地悪げな表情になる。
(この表情が、何よりの証拠だね。やっぱり会ったのはアンナで、二人はその話を聞いていた。僕の推理もなかなかのものだな。)
今日の今日まで自信はなかったが、何でも顔にでる杏奈のこと。話している内に分かるだろうと踏んでいた。そして自分の予想通りの反応を得てミラードは軽く頷いた。
「それぞれ、おありになるようですね。これは教会でも特に秘された事柄ですから決して口外しないでいただきたいのですが、青い瞳の白鳥は普通はいません。いるとすれば神の使いだけです。」
(ああ、私。やっぱり口を滑らせていたんだわ。)
両手で顔を覆ってしまった杏奈の反応をみてアルフレドとセオドアも誰がミラードに、神の使いについて推理するきっかけを与えたのかを理解した。両側から励ますように肩を叩かれて、杏奈はますます悄然となる。
(一瞬でも隊長さんとセオドアさんを疑ったりした自分を、過去に戻って叱ってやりたい。)
「だから、話の合間にふと口にされた青い瞳という言葉がどうにも引っかかっていたんですよ。それに白い羽にも何か特別な思い入れがあるようだったし。」
ミラードはすっと杏奈の耳を指して、彼女の耳飾りを示す。今度はセオドアが微妙に眉を寄せた。もう耳飾りの贈り主についてはミラードやアンドリューにも察しがついている。アルフレドや家人の妨害を受けずに彼女に装飾品を贈れる男性など一握りだ。さらに珍しい男が最近女性への贈り物を買っているのをみた、なんて噂まであれば十分である。これを買ったのがセオドアだと確信を持てたので、彼も今日の場に招いた。星祭りの贈り物に、星の飾りではなく敢えて白い羽を選んだところに何かあると、これもただの推理だったが当たったようだ。
「まあ、思い入れの方は神の使いに関するものか、贈り主に関するものかは分かりませんが。」
ミラードは猫のように目を細めてセオドアをみた。セオドアは司祭の企みありげな表情に驚くやら居心地が悪いやら慌てて目を逸らす。
「少なくとも白い羽という、比較的珍しい意匠のものをわざわざ選んだことには意味があると思った方がいいと考えたわけです。どうやらアンナは青い瞳の白鳥がいないということを分かっていなかったようですし、どこか他のところでも同じように口にしてしまう前に皆さんにご相談した方が良いと考えました。少なくともアルフレド隊長とセオドアさんは話を知っているか、知っておいた方が良いだろうと思って3人一緒にアンドリューに招待してもらったわけです。僕が呼びだしてしまうと、それだけで不信がられ兼ねませんからね。」
ミラードの説明が終ると、アルフレドは「ふむ」と口髭を撫でてしばし考えるように視線を落としていたが、それも長いことではなかった。
「お話は分かりました。ご厚意にも感謝します。それでは今日は白鳥の瞳は黒いということを皆で学んだということで、よろしいですか。」
この場で見たか、見なかったかということを明言する気はない。言外にそう宣言したアルフレドにミラードはにっこりと頷いた。
「結構だと思います。あとは、私がアンナの友人の末席に加えてもらったこともお忘れなく。」
ミラードとアンドリューにとって今日はことの真偽を正すことが主題ではない。杏奈の生活を守るために、何を口にしてはいけないかということを理解してもらえればそれで良い。あとは自分達が味方であることを分かっていてもらえばそれ以上言うことは無かった。