もし叶うならば何を願うか
ミラードはふっと息をついて目を開けた。目の前の小さな卓にいつの間にか茶が用意されている。執事がやってきたことにも気がつかなかったのかと苦笑いが漏れた。杏奈の言葉に思っている以上に動揺しているらしい。
「まだまだ、御立派にはなれていないなあ。」
くしゃりと髪を掻きあげる。アンドリューに会う前に少し肩の力が抜けて良かったと前向きに考えようか。あまり思い詰めていると彼に心配をかけるだけだ。そう思って一度大きく伸びをしたところで、廊下から足音が聞こえてきた。すぐに扉が開かれて予想通りに彼の旧友が現れた。
「急に済まないね。まだ忙しいのだろう?」
立ち上がったミラードが声をかけると、アンドリューは笑顔を浮かべた。
「少しは落ち着いてきたところだ。とりあえず夕食の後で話を聞くので構わないか。」
「ああ、久しぶりに君のところの食事を食べられるのは有難いな。」
「すぐに支度が整うから、もう少し待っていてくれ。着替えたら迎えにくる。」
「ああ。」
アンドリューは、颯爽とマントを翻して去っていく。ミラードはもう一度元の位置に戻って冷めてしまったお茶を飲み干した。
夕食の席は何事もなかったように穏やかに過ぎる。アンドリューの帰りを待っていた彼の家族を交えてミラードは久しぶりに団欒を楽しんだ。そして食事が終るとアンドリューはミラードを促して、食堂から彼の私室に戻った。ここからが本題である。晩酌用の酒を少しだけ注いで、アンドリューは大きなソファにどっしりと腰を落ち着けた。対するミラードは向かい側に腰かけて両膝の上で細く長い指を組む。
「それで、大事な話というのは?」
アンドリューが切りだすと、ミラードはアンドリューの帰宅する前に考えていた通りに説明を始めた。話を聞くアンドリューは形式的に注いだ酒には一切手をつけない。ただ黙って熱心に話を聞いている。
「まだアンナが実際に会ったという確証はないんだけど、彼女の言葉だけでも会ったはずだと言い出されたら大騒ぎになるには十分なんだ。彼女が君達の冗談だけでなく聖女として祭り上げられてしまうのは避けた方がいいと思うのだけど。これは教会の規律には反することだし、彼女の意思もまだ聞いていない。どうしたものかと思ってね。」
ミラードは一度言葉を切ってアンドリューを見た。漆黒の瞳には驚きよりも気遣うような表情が浮かんでいるようにみえる。
「アンドリュー、何を心配しているの。」
「お前はもう大丈夫なのか。」
急に祭り上げられて自由を奪われる。それはミラードが幼い頃に負った心の傷を思い起こさせるものだ。だからこそ、ミラードにしてみれば捨てておけない出来事なのだろうが、深入りすればまた辛いことを思い出すのではないかと彼自身のことも心配だ。アンドリューがそう問いかけるとミラードはにこりと笑った。まるでいつも通りの司祭としての笑顔。
「ありがとう。僕はもう大丈夫だよ。」
本当にこの男は30歳だったかな、といつかと同じ感想を抱きながらアンドリューは目尻に皺を寄せてつられるように笑顔を浮かべた。杏奈のことはアンドリューが聞く限り迷う余地もなく取るべき道は一つに聞こえる。いつものミラードだったら迷わないだろう。もう答えは出ているようなものなのに相談にくる時点で、本当は大丈夫ではないと思ったがアンドリューはそれ以上問わなかった。ほんの少し、しまい込んだ過去の蓋がずれて不安になっただけだろう。ミラードはこのくらいで崩れるほど弱くは無いと信じている。アンドリューは今日の自分の役割は彼の背中を押してあげることなのだと理解した。
「だったら、いい。お前の言う通り何も知らないままアンナが聖女だ奇跡だと祭り上げられるのは良くないだろう。話が広まってしまってからでは遅い。すぐに状況を確認した方が良いな。その上で、彼女とアルフレドにでも行くべき道を選んでもらえばいいんだろう。教会としては神の使いについて知りたい思いがあるだろうが、その知識とアンナの人生を天秤にかけて良いのなら、俺はあの子の平和な生活の方を取るよ。知識がなくとも皆十分幸せにやっていけるだろう。それはお前も知っている通り。」
アンドリューの答えを聞いてミラードはようやく迷いを断ち切った。教会には恩がある。自分自身も神の使いという存在に興味もある。けれど、それは一人の人生を狂わすことを許す言い訳にはならない。あの孤独で猜疑心に満ちた存在をもう一人作りださないためにも、彼女のためにできるだけのことをしようと決意した。
「ありがとう。」
ミラードは今度は友人としての笑顔を浮かべた。
「こんな答えで役に立ったのかな。」
アンドリューが冗談交じりに問い返すと、ミラードは「もちろん」と頷いた。実際、彼の中にあった迷いはすっかり消えていた。答えというよりも話を聞いてもらえたことの効果が大きかったかもしれない。すっかりいつもの調子を取り戻したミラードは話を切り替えた。
「さて、やるべきことが決まったところで、念のために君に聞きたいことがある。」
「なんだ?」
「最近、女性に耳飾りを贈ったりした?」
アンドリューはようやく口に含んだところだった酒を吹きだしそうになって、無理に飲み込んだ。
「っく。藪から棒だな。残念ながらそんな艶っぽいやり取りをする機会はなかったよ。」
きつい酒を無理に飲み込んで喉が焼ける。苦しそうにする友人を観察しながらこれはどうやら本当のようだとミラードは考える。
「そう。相変わらず女っ気がないね。前々から本当に疑問なんだけど君ほどの男なら、望めば大抵の女性は応えてくれるんじゃないの。誰かを想ったりしないの。」
「望めば何かが叶うと言うのなら、俺は皆の幸せを望むよ。」
「それは素晴らしい答えだけど、でも話を逸らしただろう。僕は今、君の恋の話をしているのに。」
ミラードは肘かけに片肘をついて頬を預け、少し意地の悪い顔をする。アンドリューは先ほどまでの真剣な様子から一転して非常に面倒くさそうにそんな友人をみやった。悩みが解決したら急に元気になりやがって、と友人をねめつける。
「それならば、もう話は終いだ。恋にはとんと縁がないからな。」
その顔で言われても説得力が無い。もし他にこの会話を聞いている者がいればそう思っただろう。しかしこの部屋にはアンドリューとミラードしかいない。ミラードはアンドリューの外見には惑わされない。この男の本質が恐ろしく真面目一筋で面倒くさく、恋愛に鈍感で、放っておけば一生本気の恋に出会わなくても不思議はないことを知っている。
「それを言うならお前はどうなんだ。ずいぶんアンナに心動かされているみたいじゃないか。」
アンドリューに聞き返されたミラードは笑う。
「そうだね。可愛い子だよ。素直でまっすぐで君に似ているところもあるけど、もっと愛嬌があるね。」
そこまで応えて嘆息する。
「ああ、そうか。いやだな。分かったよ、君の気持が少しだけ。僕も願えば叶うなら、僕のではなくて彼女の幸せを願う。誰の隣でも彼女が幸せでいてくれたらいい。そう思うというのは、恋ではないのかもしれないね。もちろん、僕の隣にいてくれてもいいとも思うのだけど。」
「それは複雑だな。」
アンドリューはミラードに酒を勧めてから「しかし」とため息交じりに吐きだした。
「これは30過ぎの男が二人で夜更けにする会話としてはどうかな。」
ミラードは上手く話をかわされたと思いながらも、アンドリューの言う通り話題を変えた方が良さそうだと引き下がった。