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後編

ざまぁはありません。




 ルイスは自分で運転するのを好んだので、運転手はいなかった。

 アーチ型の門構えの前で車を降りると、エミリアの手を引いてエスコートする。

 引いた勢いのままエミリアを抱き込むと、静かに唇を合わせた。

「ルイス様…ごめんなさい。巻き込んで、ごめんなさい。ありがとう」

 一度、離れ。見つめあって、また、口づける。

 それほど長い時間ではなかったが、離れて、また一度、抱き合った。

「ずっときみの幸せを祈ってる」

 ガス灯が二人の影を頼りなく照らしていた。



 これが最後の逢瀬だと、二人とも決めていた。

 今回のルイスの旅は、軽く三ヶ月は戻ってこられない。

 帰還する頃にはエミリアはもう王都にいない。

 関係が始まった頃のシャルロットへの罪悪感も、回を重ねるごとに薄まっていって、最近は離別への意識が二人の熱をより強めていた。

 今まで隠しおおせた成功体験から、警戒心も当初ほど無くなっていた。


 それも、もう終わった。

 俯くエミリアの手を取り、反対の腕を背中に回す。寄り添うように門扉を抜けて短いアプローチを進む。

 終幕の、余韻だった。



 と、不意にルイスの足が止まった。

 自分との時間が終わるのを惜しんでくれているのだろうか。

 そう過ぎって顔を上げたエミリアの視界に、ライラック色のサマードレスを着た親友と、いつも影のように控える馴染みの侍女の姿が映った。



「シャルロット…」


 ルイスは自分の声が掠れていることに気づかなかった。

 現実とは思えない現実にぐらりと視界が眩む。

 いつも愛らしい仕草で甘えてくれている婚約者が、顔色を消して、佇んでいる。

 目の前の状況を理解するにつれ、呼吸が細く、速くなる。


 どうしてここに?

 いつから見ていた?


 言葉は浮かぶが、口には出ない。

 空転する思考のなかで、自分の鼓動だけがどくどくと耳に障る。

 エミリアに触れていた両手が離れた。



 一歩踏み出したルイスに、シャルロットは冷えた瞳を向ける。

 いつもの翡翠に光はなく、表情も体温を感じさせない人形のようだった。

「エミリアを選ぶなら、私との関係を終わらせてからにするべきでしたわ」

 少し後ろにいるエミリアが息を呑んだが、ルイスには見遣る余裕もなかった。

 シャルロットの様子から、エミリアとの秘密が暴かれているのは疑いようもなかった。

 焦りが全身に広がる。

 自分の唾を飲む音がやけに響く。

 弁明は意味がない。

 どうしたら。

 どうにか、繋ぎ止めなければ。


 別れの文字が頭に浮かび、背筋が震えた。




 シャルロットにエミリアを紹介されたのは、二人の親友アデライドの王都での結婚式だった。

 準備期間を一年おいて執り行われた豪奢な挙式に、エミリアは結婚する予定の従兄と参列していた。


 最初はエミリアの雰囲気に、少し驚いた。

 背格好も、着ているドレスも、喋り方のトーンも、シャルロットによく似通っている。

 くっきりと可愛らしいアーモンドアイのシャルロットに対し、エミリアは切長の艶やかな目元で、造作自体はさして似ているところはなかったが、ふとした表情はそっくりで、まるで姉妹のようだった。


 本当に仲が良いのだろう。

 些細なことを言ってクスクス笑い合う二人の若い女性が、新婦入場の際に早々に揃って目を潤ませていた姿に、エミリアの婚約者と微笑みあったのをよく覚えている。



 夜会で席を外したシャルロットの代わりに、妹と連れ立ってきていたエミリアがよく来るようになったあたりから、シャルロットといても、ふとエミリアを探してしまう自分がいた。

 向けられる熱のこもった視線には気づいていたし、エミリアの、何かを諦めたような、物憂げな眼差しも気になっていたのだ。




 決定的だったのはある雨の日。


 目抜き通りの書店の前で雨宿りをしていたエミリアを、たまたま見つけ、車に乗せて送り届けたのは、静かに雨の打ちつける夕刻だった。

 傘を片手に、降車のエスコートのために差し出されたルイスの手を、エミリアはそのままそっと握った。

「初めて会った時から、あなたが気になって仕方ないの。

 私、ルイス様をお慕いしています」

 意を決したように伝えられた言葉に、ルイスは少し狼狽えた。

 好意は感じていたが、それをエミリアが口にすることはないだろうと思っていたからだ。

「エミリア、僕はシャルロットを愛している。僕も不用意に近づきすぎた。すまなかった」

 わかっています、とエミリアは続けた。

「いつも思っていたの。なぜ隣にいるのが私じゃないのかって。全部持っているシャルロットがルイス様も手に入れて、私は閉ざされた田舎の領地で、兄のように育った従兄と夫婦になるのだと。そう思うと苦しくて。

 もうずっと、大好きだったはずのシャルロットが妬ましくて仕方なかった。私は醜い女だわ」

 エミリアは無理やり作ったような笑みを浮かべた。

 泣き出しそうな笑顔がルイスの胸を切なくした。

「そんなことはない。君が心の優しい女性だと知っているよ」

 エミリアは首を振る。

「優しくなんかありません。今もひどいお願いをしようとしてる。

 でも、どうしても諦められないの。

 ルイス様、どうか時間をくださいませんか。

 せめて結婚するまでの間、焦がれるような恋をルイス様としてみたい。

 たまにでいいのです。少しだけ二人で会いたい。

 シャルロットには決して悟られないようにするわ。どうかお願い」

 そう言って雨の中ではらはらと泣くエミリアは、いつもの凛とした姿とは打って変わって、儚くて心が騒いだ。

 一考し、ルイスは口にしてしまった。

「僕はシャルロットを大切に思っている。でも、君の気持ちに応えたいと思ってしまった。

 君の結婚まで。そう、決めよう」

「ルイス様…」

 胸に飛び込んできたエミリアに、傘が落ちる。

 婚約者の友人からの熱い恋慕と、同情心と、背徳感が、踏み込んではいけない関係にルイスを引き込んでしまったのだ。



 エミリアとの時間はそんなに多くなかった。

 王都では人目もあるし、お互いの屋敷ではもっとまずい。

 外で会う時は、婚約者の友人だという言い訳が通じる距離感で過ごした。



 そんな中でクライネヴェルトの個室だけは別だった。

 自分の名前で予約し、婚約者との食事だと店側に告げていた。

 瀟洒なしつらえの中でゆっくり食事をして、食後の甘味とコーヒーが個室内のソファ席に用意されたのも、婚約者同士だからという店側の気遣いでもあった。


 車以外のそこでだけは、ルイスとエミリアは隣り合って座った。

「心苦しい思いをさせてしまってごめんなさい。ルイス様は悪くないわ」

 エミリアは本気でそう思っていたが、ルイスは困ったように笑って言った。

「君が領地に戻るまで、たまに二人で会うだけだ。

 君とシャルロットのためを思うなら、最初に断った方が良かった。

 そうしなかったのは、僕が悪い男だからだろう。君のせいじゃない」


 最初はお互い距離を取っていたが、体を寄せ合い、見つめ合い、迫る期限を忘れるように抱きしめ口付けるのには、それほど時間は掛からなかった。

 キスはするが、恋人ではない。

 たまに二人で会うだけだ。

 そう、心の中で釈明する。

 恋の言葉を交わすこともしなかった。



 クライネヴェルトで食事した回数は今日を除いてわずか三回だったが、そのうちの一回をシャルロットの友人に見とめられて声をかけられたのは、きっと必然だった。




 遅い時間にも関わらず、エミリアのタウンハウスの応接室には紅茶のセットが置かれ、繊細な焼き菓子も添えられた。

 二人掛けのソファに座ったシャルロットは、ルイスはどちらに座るのかしら、と、皮肉なことを考えて、荒れる気持ちを紛らわせた。

 ミランダが入り口のそばに護るように立っていてくれて、それだけで少し救われた。


 シャルロットの正面に座したエミリアに一瞬目を向けたが、ルイスは迷わずシャルロットの隣に座った。

 ルイスとエミリアの関係は、今夜、門扉の前で終わったのだ。


「エミリア」

 びくり、と目に見えてエミリアの肩が震えた。

「領地に戻って結婚するのは、もうやめたの?ルイス様と結婚するの?」

 エミリアはうつむいたまま答えられない。

 伏せていた顔を上げて、ルイスはシャルロットに向き直る。

「シャルロット、君には本当に申し訳ないことをした。許されることじゃないと思っている」

「ルイス様は私と別れてエミリアと結婚するのですか?」

 ルイスは力なく首を振る。

 普段の自信あふれる面持ちは見る影もない。

 ブルーグレーの瞳は苦悶に揺れていた。

「今日で終わる関係だった。だれにも知られず、二人だけで終わらせるつもりだった。

 君を傷つけるつもりはなかった」

 堪えきれない、というふうにくすくす笑い出すシャルロットに、エミリアも涙に濡れた目を向けた。

「素晴らしい、物語のような綺麗な幕引きね。

 だれも傷つけず、自分たちの裏切りは無かったことにして、これからも私と一緒にいるつもりだったと?

 信じられない。なんて残酷なの」

 ちらりとエミリアを見て、泣きたいのは自分の方だとシャルロットは思った。


 屋敷の中に戻る前からずっと、気持ちは張り詰めている。

 この二人の前で弱いところなんて見せてやるものか。

 そう強がっていないと、膝が震えそうだった。


「シャルロット、本当にごめんなさい。私はずっとあなたが羨ましかった。

 一緒に過ごす時間が欲しいと、私がお願いしたの。

 ルイス様は私のわがままに付き合ってくださっただけよ」

 ルイスは被せるように言う。

「それは違う。僕がしっかり断れば良かったんだ。お互い結婚前の今だけだからと考えて、エミリアと会っていた。僕が悪い」

 エミリアの弱い声も、気遣うようなルイスも、もう全てが忌々しい。

「どうでもいいわ」

 吐き捨てるように言ってシャルロッテは立ち上がった。


 聞かなきゃ良かった。

 話し合いなんて無意味なんだ。

 すぐにでも立ち去らないと、かばい合う二人に泣き出しそうだった。


 大好きな親友だった。大好きな恋人だった。

 だんだんと距離が近づく二人に、不安に苦しむ日々が続いていた。

 エミリアの、ルイスを追う切ない目線に気付いても、それでも、エミリアに確かめなかったのは。

 たとえルイスを好きだとしても、エミリアが裏切るとは思えなかったからだ。

 そしてルイスが、エミリアを受け入れると思えなかったからだ。

 植物園の、二人を見るまで。



「ミランダ、帰りましょう」

 侍女を呼びつけ、まっすぐに扉へ向かう。

「シャルロット!」

 ルイスが掴もうとした腕を、シャルロットは勢いよく振り払った。

 ぱしん、と小気味良い音がして、振り向いたシャルロットの瞳から一粒の涙が耐えきれないように落ちたのを、ルイスは呆然と見つめた。


 この時初めて、ルイスはシャルロットの傷の深さを目の当たりしたような気がした。

 シャルロットが今までルイスに泣き顔を見せたのは、プロポーズの時、ただの一度だけだったから。


「もう会いません。二人が大好きだった。さよなら」


 振り切るような言葉に、焦燥感が溢れる。

 一番大切にしなければならないものだった。短い時間に全てがこぼれ出ていって消えてしまいそうだ。

 ルイスはまだその喪失に向き合えない。


「シャルロット、待ってくれ」

 背を向けたシャルロットが扉に手をかける直前に、強引に右腕を掴んだ。

「さわらないで!」

 声を荒げるのを初めて聞いた。

 無理やり振り向かせたシャルロットの悲痛な表情に、息が止まる。

 ルイスはたまらずその体を胸に抱き込んだ。

 細い。こんなに細かっただろうか。

「悪かった、シャルロット。僕が悪かった。どうか話を聞いて」

「やめて、聞くことなんてない」

 逃れようと身を捩るのを、さらに強く抱きしめた。焦りに呼吸が上がる。

「シャルロット、聞いてくれ、君を愛してるのは嘘じゃない。誰より大切に思ってるんだ」

 抱き竦めるルイスから仄かにエミリアのジャスミンの香水が薫って、シャルロットはさらに激しく身を捩る。

「離して!何も聞きたくないわ、二人で好きにしたらいい」

「すまない、シャルロット。本当に、なんてことをしてしまったんだ。どうしたらいい。君を失いたくない」

「だったら!」

 堪えていた分だけ止めどなく涙は溢れたが、シャルロットはルイスの胸を押して顔を上げた。

 愛したブルーグレーの瞳に、歪んだ顔の自分が映る。

「どうして私だけを大切にしてくれなかったの」

 翡翠の瞳に射抜かれて、ルイスの腕は一瞬力を無くす。

「いつあなたに別れを告げられるか、ずっと怖くて仕方なかった」

「…シャルロット、」

「お願い、帰りたいの。もうここにいたくない」

 それは懇願だった。

 ルイスは止める言葉を持たない。

 シャルロットを繋ぎ止めていた両手が、虚しく落ちた。

 そのまま崩れてしまいそうな体を叱咤して、ルイスは震える声で絞り出した。

「せめて、送らせてくれないか。君を一人で帰せない」

 シャルロットは静かに拒絶する。

「結構です。車を待たせてるわ。ミランダも運転手もいる」

「君がいなくなってしまいそうで不安なんだ。頼むよ…」

 このまま帰したら、もう一生会ってくれないのではないかと、ルイスは本気で思った。

 シャルロットは痛々しい笑みを作る。

「何度エミリアを隣に乗せたの?あなたの車にはもう乗りたくない」

 決別に、ルイスの顔は苦しげに歪んだ。

 


「明日、ミレー邸に伺うよ。くれぐれも、気をつけて。君を愛してる」

 シャルロットの運転手が、伯爵家随一の腕利きの使用人であることを見届けて、ルイスは渋々彼女らの車を見送った。

 後部座席に乗り込んだシャルロットは、前を向いたまま、ルイスを見ることはなかった。


 振り返り、気まずげな家令に声をかける。

「夜に騒がせてすまなかった。エミリア嬢を頼むね。明日、家人を挨拶に来させるよ」

 暗に謝罪の品を届けることを意味している。自分が直接来ることはないのだという、意思表示でもあった。

 ルイスはエミリアに会わずに帰るのだろう。

 そして、もう会いに来ることもないのだろう。

 最後の言伝すらもないことに、家令は成人したばかりの女主人を思って心を痛めた。




 ただでさえ多忙を極めている業務の合間を縫って、ルイスは翌日ミレー邸を訪れたが、もちろんシャルロットには取り次いでもらえなかった。

 二時間待って、持ってきたマリーゴールドの花束を使用人に渡して帰った。


 その翌日は港への出発の前日。

 元々シャルロットとディナーの約束していたが、迎えにきても会ってくれないことは覚悟していた。

 選んだルビーピンクのスターチスの花束は、エントランスのメイドに頼んで、早々に手放した。


 応接室に通され、香り高いだろう紅茶を流し込む。

 しばらく経ったところで使用人に案内されてきたのは、伯爵夫人のジュリア・ミレーと、ルイスと一緒に船に乗る予定の、ロイド=サウスラインの代理人アデル・コリニーだった。

 アデルは三十手前の優男で、伝統的な夜のドレススタイルの夫人とは対照的に、ダークグレーのラウンジスーツを気負わずに着こなしている。

 ミレー伯爵の姉の次男、シャルロットの従兄弟にあたる男で、平素はルイスにとって気安い存在だ。


 立ち上がって挨拶したルイスに鷹揚に頷き、ジュリアは席を示した。

「どうぞ、お掛けになって」

 ルイスの向かいにジュリアが座り、アデルはなんの頓着もなく扉そばの一人がけのソファに腰をかける。

 アデルの足元に置かれたブリーフケースに、存在感があった。


 ルイスの悲壮は深い。

 この二日は眠れなかった。

 それでも言わなければならないことがあった。

「夫人。この度はこちらの不誠実で、大切なご息女を深く傷つけてしまったこと、心よりお詫び申し上げます。どのような罰もお受けいたします」

「夫がこの場に立会えないことを少し嘆いていたわ」

 ああ、とルイスは項垂れる。

 決定的な判断が下させるのは、間違いない。

「あなたとシャルロットの婚約は、不履行で解消しましょう。こういうのは対応が早い方が立ち直りも早くなるものよ」

 喉が張り付いたように苦しくて、ルイスは言葉が出せなかった。

「持参金は返納してください。よろしければこちらにサインを。不審があるようならご実家に一度お持ちいただいて、立会人といらしてくださっても結構よ」

 アデルがわずかにためらうように、ブリーフケースから書類を差し出す。

 ミレー家の立会人の立場が、アデルだったのだろう。働かない頭で納得した。


 文字の羅列はなかなか頭に入ってこなかったが、至極真っ当な内容しか書かれていないようだった。 文面は短く、業務提携のことにも、一切触れられていない。現行維持ということなのだろう。

 当主も、会社も、非情なくらいに公平なのだ。

「こちらの有責での不履行ですが、慰謝料の記載がないようです」

「求めているのが解消だからよ。あの子がそう望んだのよ」

 ジュリアの抑揚のない言葉は、ルイスをさらに追い詰めた。


 一昨日のように辛辣な言葉を浴びせられた方が、まだ良かった。

 これではまるで、もう関わり合いになりたくないと伝えられているようなものだった。

「シャルロット嬢に会わせてくださいませんか」

 ルイスの思い詰めた様子を感じたのだろうか。ジュリアは諦めたように長く息をつくと、アデルに目配せした。

 アデルが肩をすくめて部屋の外に出ると、ジュリアも間を置かずに立ち上がる。

「私はこれで失礼するわ。あとはアデルに任せているから」

「承知いたしました。ご配慮いただきありがとうございました。今までのことも、全て、感謝に堪えません」

 深く下げられた頭に、静かに閉まる扉の音が応えた。



 そう、長い時間ではなかったように思う。とはいえルイスにはその感覚もない。

 身体は泥に沈み込むように疲弊しているのに、意識ばかりが冴えるのだ。

 戻ってきたアデルは、もちろんシャルロットを連れてはいなかった。

 ミランダが軽く膝を折る挨拶をして、両手に包み込むように待っていた小箱をルイスの前に置いた。

「お嬢様からお預かりしたものです。お返しします、とのことでした」

 婚約指輪のケースだった。

 白いビロードのケースは、求婚した日のことを、ルイスにまざまざと思い起こさせた。

 あの春の日。

 天にも登るような幸福を感じた、特別な日。



 その日のルイスは、朝から柄にもなく緊張していた。

 初夏の庭園で出会って、間も無く一年。

 街中ではマロニエの白い花が盛りを迎えていた。 

 シャルロットは若くともしっかりと教育をされた淑女だが、食事に関しては喜びの感情をそれは素直に表した。

 贔屓のレストランで夕食を終えた頃、窓から見える外の景色は薄暮の終わりのひとときだった。

 満ち足りて幸せそうな笑顔の彼女が、給仕の運んできた紅茶を口にしたところで、ルイスは立ち上がった。

 不思議そうに見上げるシャルロットの前に跪き、その白い両手を取る。反射で立ち上がった彼女は、まだ思考が追いついていないようだった。

 そこからは気持ちが昂っていてあまり覚えていない。

 

 求婚の言葉は上擦り、余裕のなさが滲み出ていたと思う。

「愛しているんだ、シャルロット。どうか僕と結婚してくれないか」

 正直断られるとは思っていなかった。

 シャルロットは物怖じしない自立した女性だが、二人のときは可愛らしく素を出して甘えてくれることも増えた。

 二人きりで出かけた回数は少なくとも、彼女からの想いは、眼差しの熱量と触れ合う両手で強く感じられたのだ。

 それでも。

 翡翠色の瞳に澄んだ水が滲じみ、あ、と思う間も無くボロボロと音がしそうなほどの涙が流れ落ちたのを見て、ルイスは思わず立ち上がってシャルロットを抱きしめていた。

 腕の中で震えるシャルロットに、ルイスの胸も熱くなる。

「ルイス様が好きです。ずっと一緒にいたい」

 くぐもった声。

 耳元に手を当てて上を向かせると、目を閉じて、甘えるように頬を擦り付けてくる。

 ゆっくり開いた瞼にキスし、どちらからともなく口付けた。

 そのまま強く抱きしめて、ゆるく編み込んであるはちみつ色の髪にも何度もキスする。

 甘い香りに胸がいっぱいになった。

「匂い嗅がないで」

 赤くなった目元と同じくらい赤くなった恥じらう頰に、破顔する。

「しあわせの香りがする」

 くんくんと鼻を鳴らし、また髪に口付けて、二人で笑い合った。

 この可愛い女性を一生大事にしようと誓った。

 シャルロットの薬指に指輪をつけ忘れたことに気づいたのは、店を出てからだった。



 放心したまま頭を抱えてソファに座り込むルイスに、アデルは気の毒そうに声をかけた。

「そろそろ送るよ。君の運転だと事故を起こしそうだから、今日は俺の車で我慢してくれ」

 ルイスは後ろに流している髪を掻き上げ、両手で目元を覆う。ふう、と大きく息を吐き出して、憔悴した顔をゆっくりと上げた。

「お気遣いありがとう。今日は運転手を待たせているので大丈夫です」

 ふむ、と不思議そうにするアデルに苦く笑った。

「一昨日、僕の車には乗りたくないと言われたので、家の車を出しました。自業自得ですが、今日は良かった。とても運転して帰れそうにない」

 ルイスは懐から手紙を取り出し、アデルの前に置いた。

 会ってもらえなかった時のために用意していた。

「シャルロットに渡してくれませんか。会ってもいいと思ってくれるようになるまで、ずっと待っているからと。お願いします」

 許して欲しいなんて言えるはずもなかった。

 アデルはしっかりと頷いた。




 ルイスが車に乗り込むのを、二階の窓辺からそっと見送った。

 振り返った彼と目が合った気がする。遠いのでそう見えただけかもしれない。

 もう会うことはないと思うと胸が痛んだが、辛くて息ができないというほどではなかった。

 カーテンを閉じ、部屋の中央のガラステーブルを見遣る。

 スターチスが可憐に咲いていた。



 一昨日帰宅してから、シャルロットの気持ちはルイスとは逆に随分凪いでいた。

「軽薄な男が落ち込んでいて、すっとしました」

 ミランダは、シャルロットと二人の時はかなりあけすけな物言いをする。

「ルイス様は見た目ほど遊んでいるタイプではないわ」

 シャルロットはくすりと笑う。

「だからと言って許せません。慰謝料もふんだくってやれば良かったのに、お嬢様は優しすぎます」

 だいぶご立腹だ。

 エミリアのタウンハウスから帰宅する車で、ミランダはシャルロットよりも大きなしゃっくりを上げて怒り泣いていた。

 驚いたシャルロットの涙が引っ込んだほどだ。

 散々悪態を口にしてわんわん泣く侍女と慰める主人に、運転手のマルコもさぞ居心地が悪かったことだろう。

 帰宅しても憤懣やる方ないといった風のミランダをまあまあと宥めていて、立場の逆転にシャルロットはなんだか可笑しくなってしまった。

 自分以上に泣いて怒る存在が、突き抜けた悲しみから自分の心を救い出してくれた。


「ミランダ、ノルトーに行ってみない?」

 キッ、と、ミランダは目元を釣り上げる。

 ブラウンの瞳がきつくシャルロットに向いた。

「まさか、あの男の見送りに行きたいなどとおっしゃいませんよね?!」

 ノルトーは王都の北にある港湾都市だ。直轄地だが、ミレー家が中心に立って交易都市への大規模化を進めている。

 先だっては新しい鉄道網もリリースされた。

 新大陸への定期船は、この国ではノルトーからしか出ていない。

「ホテルを建てようかと思って」

「え」

「持参金も帰ってくるし、しばらく結婚する予定もないもの。

 ノルトーはまだ工業都市の印象が強くて勿体無いのよね。少し離れたところには砂浜もスパもあるし、リゾートがあったらなって」

 泳ぐには少し寒いかしら、と続けるシャルロットに、ミランダは虚をつかれたように一瞬怒りを無くした。

 信じられないことに、三日前に大失恋した主はもう前を向いて歩き出そうとしている。


 シャルロットは思う。

 二人の影が重なった光景を、多分一生忘れることはできない。

 初めての身を焦がすような恋は、あの瞬間に、氷水をかけられたように小さくしぼんで、しゅん、と消えてしまった。


「それもいいかもしれませんね」

 ミランダの同意を得られて、シャルロットは俄然やる気になった。

「冬の前には一度行っておきたいわ。寒くなると大変だもの」



 後に残った水たまりを飛び越えて、もう心は遠く北の街へ駆け出していた。

 

ルイス君はできる子なので、猛省して信頼を取り戻してほしいですね。

シャルロットは傷を癒すようにいくつかの恋をして、猛省中のルイス君をヤキモキさせる予定。

妄想。

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