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前編

初投稿です。

お読みいただきありがとうございます。



 震えを抑えるように、胸の前で両手を強く握り込む。

 まさか、と思う自分と、ほらやっぱり、と思う自分がいて、シャルロットは戦慄く口元をきゅっと引き結んだ。


 どうしてこんなことになったのだろう。

 二人が一緒にいるのを見かけるたびに飲み込んできた様々な言葉が、頭の中でシャルロットを苛む。

 もっと早く、手を打っていれば。彼らの関係はここまで進まなかったのかもしれない。



 そんな視線にも気づかずに、シャルロットと婚約を結んでもうすぐ一年になるルイスは、微笑むエミリアに朗らかに語りかけている。

 花油でも入っているのか、可愛らしいガラス瓶を掲げて見せるエミリアの表情は、いつも見せる大人びたものと違ってどこかあどけない。



 王都の郊外にあるこの植物園は、遅く訪れた春を待ち侘びていた人々で華やいでいた。

 見頃のムスカリが控えめな鮮やかさで風に揺れ、メイン通路の出店も雰囲気を賑やかしている。

 冬の閉園期間を終えて開園するこの時期に、小規模ながらフラワーショウが催され、マーケットの周りでは長い冬に惓んでいた子どもたちも、頬を上気させて駆け回っている。


 シャルロットの周りだけが寒い冬の雪の中に取り残されているようだった。

「お嬢様…」

 侍女のミランダがたまりかねて声をかけたが、シャルロットは揺蕩う視線を二人から離すことができなかった。




 最初は、偶然かと思っていた。

 夜会で席を外して戻ると、二人で並んで話していることが何度かあった。

 自分の婚約者であるルイスと、自分の親しい友人のエミリアだ。数回は、少し気に留めるだけで深くも考えなかった。


 ちくりとした不安はその頃から少しずつ膨らんでいった。


 夜会での状況はだんだんと頻回になった。

 打ち解けた雰囲気に、声をかけるのを躊躇ったことさえあった。

 三人で出かけることが増えて、その分ルイスと二人きりで会う機会が減っても、必死で平気なふりをして。


 それがパタリと無くなったのは、いつの頃からだろう。



 エミリアはシャルロットの女子学校入学からの親友だった。

 席が隣り合ったアデライドと三人、卒業までの三年間、年頃の女子特有の紆余曲折を経ながら絆を深めて仲良く過ごしてきた。


 国内有数の船会社を持つミレー伯爵家の長子に生を受け、弟が生まれるまでの十二年間、総領娘として育てられたシャルロットは、持ち前の気質もありやや我の強い女子に育った。

 そんなシャルロットを時に諌め、時に導き、時にうっかり声を荒げるような喧嘩をしながらも、エミリアは辛抱強くシャルロットに向き合ってくれた。

 エミリアには下に妹が二人いて、シャルロットのことも手のかかる妹の一人くらいの感覚であったのかもしれない。

 そんな二人を穏やかに取り持つのかアデライドで、三人の中で一番控えめで、嫋やかで、ふんわりと菜の花のような容姿をしていたアデライドは、卒業と同時に王家に連なる公爵家へ嫁いで二年になる。

 相手方の熱烈なアプローチを受けての、恋愛結婚だった。





「シャルロット、久しぶりだね」


 ルイスがミレー邸を訪ったのは、シャルロットが植物園で二人を見てから十日が経った頃だった。

 その間の十日間、シャルロットはわかりやすく病んだ。

 恋に落ち込み。

 寝不足になり。

 食事も喉を通らず。

 全ての人が自分を騙そうとしているのではと疑心暗鬼になり。

 信頼のおける侍女のミランダに慰められ。

 そしていくつかの道筋を決めて、少し気分が浮上するという経過を辿って、今ルイスの前でティーソーサーを片手にお気に入りの紅茶のカップを傾けていた。


 シャルロットの私室のソファは布張りのカウチタイプで、二人並んで腰掛けてもまだ余裕がある。

 ルイスは少し首を傾げて言った。

「なんだか、少し雰囲気が変わったね」

「そう?どうなりました?」

「そうだな…」

 向き合って指先でさらりとシャルロットの頬を撫でる。

「大人っぽくなったかな?」

 さっとシャルロットの目元に朱が差す。

「ルイス様はお忙しくお過ごしでしたか?リニー伯爵夫人のサロンでも、噂になっておりました。新大陸での自動車の販売が随分好調だと」

 誤魔化すように話題を変えたシャルロットに、ルイスは軽く目を眇めてほんの少し距離を取った。

「ミレー家の定期航路のおかげで、かなりいい形で軌道に乗ってきたよ。新大陸での話題のせいか、国内の需要も伸びてるから、当分は忙しいかな。信じられないよね」

「しばらく王都に?」

「昨日南部から帰ってきたばかりだから、ちょっと休むよ。まだ幾つか回らないといけない街はあるけど」

「働いてばかりで心配です」

 ルイスは嬉しそうに目尻を下げた。

「僕の婚約者は優しいなぁ」

 テーブルの上にはルイスのプレゼントしたエルダーフラワーのブーケが、爽やかな香りを漂わせている。

 どこからどう見ても、睦まじい恋人同士の空気感だった。



 シャルロットとルイスの婚約は政略的なものではなかった。

 卒業した年の船舶業界のガーデンパーティーで、家族から離れて逃げ込んだ先で行き合ったのが最初の出会いだ。


 喧騒から距離を置き、庭園の外れにあるベンチで、手袋とヒールの靴を(はしたなくも)ぽいぽいと脱いで膝を抱える。

 挨拶回りの愛想笑いが疲れてしまった。

 ふう、と一息ついたところで、柘植のトピアリーを挟んだ反体側から同じようなため息が聞こえた。

 そのため息の主がルイスだった。


 シャルロットが振り返った先にいたのは、耳の長さくらいの薄茶色の癖っ毛を丁寧に後ろに撫で付けた、見るからに仕事のできる美丈夫で。

 グレーの三つ揃えに濃紺のネクタイが、嫌味なくらい様になっていた。


 立ったまま腰に両手をやって空を見上げていた男は、顔だけで振り返る。

 二人の双眸がひた、と合った。


 その瞬間に、シャルロットは恋に囚われてしまった。


 男のブルーグレーの瞳が僅かに見開かれ、お互い時が止まったように固まり、ふ、と男が表情を緩める。

「昨今のシンデレラは靴を二つとも置き忘れてしまいそうだね」

 声までもが低く涼やかで知的だ。

 シャルロットは不覚にも顔を赤らめ、足元に転がるクリーム色のレースで飾られた靴を見やった。

 恥ずかしさに視線は芝生の上を彷徨う。

「どうぞお見逃しください」

「そうはいかないかな」

 ゆったりとベンチの前に回り込んだ男は、迷いなく片膝をつき、丁寧に靴を揃えた。

 近くで見ると、纏う雰囲気よりも繊細な顔立ちをしていた。

 歳の頃は四、五歳上だろうか。

「ルイス・クレモンドです。初夏に吹くひとすじの風のような出会いに感謝して、お名前をお伺いしても?ご令嬢」

 ふふ、と思わずシャルロットから笑みが溢れる。

 顔に似合わず軽薄そうだ。しかしその方が最初の印象には合っている。

 シャルロットは揃えてもらった靴をもったいぶった動作で履き、

「シャルロット・ミレーと申します。父の会社で秘書の真似事のようなことをしておりますわ、クレモンド卿」

と、立ち上がって挨拶のために右手を差し出した。

 その手をさらりと取り、腰を折って指に付くか付かないかのキスをして、ルイスは一瞬考える。

「もしかして、ロイド=サウスラインのミレー家?」

「弟の名前で父が作った小さな船会社ですわ」

 会社の規模は小さいが、新大陸との定期航路の就航で飛ぶ鳥落とす勢いの海運会社だ。

 ああ、とルイスが天を仰いだ。

「信じられない、シンデレラじゃなく女神だった!どうかお父上にご紹介いただけないだろうか」

 急に子供のように取り乱したルイスに、シャルロットは破顔した。

 こんなにあからさまに便宜をねだられたのは初めてで、いっそ清々しかった。



 ルイスは紳士だった。

 ミレー家当主の伯爵との繋がりは、彼自身の仕事と人柄で順調に築き上げ、当時駆け出しだった自動車会社の販路の拡大に成功した。

 ルイスの生家は王国の軍門を取り仕切る侯爵家で、自動車の軍への転用を見越して、若くして職人を集めて会社を立ち上げ、クレモンド侯爵家で初めて国王軍に所属しない嫡男となった。

 弟が軍にいるからいいんだ。僕は剣も銃もからっきしでね、とルイスはからりと笑ってみせたが、のちにルイスの弟のヴァルターから、クレモンド家に体術でルイスに敵うものはいないのだと教えられた。


 シャルロットとの関係は、ロイド=サウスラインとの業務提携が二人の出会いからわずか半年で結ばれてから、重しが外れたかように一気に進んだ。

 秘書として会社の出入りもしていたし、ルイスにも仕事を通して頻回に会ってはいたが、私生活で会うようになってからは、ルイスは好意をまるで隠さなかった。


「早いのはわかってる。でも僕は新大陸へ行けば最低二月は戻って来られないし、君を繋ぎ止めておく約束が欲しい。

 初めて会った時から君以外は目に入らない。愛しているんだ、シャルロット。どうか僕と結婚してくれないか」

 王都を流れるシモン河の川縁のレストランで、跪いてそう言ったルイスに、感極まって涙を流したシャルロットは、信じられないくらいの幸せを感じた。

 会うたびに更に会いたくなる気持ちを、ずいぶん前から持て余していたのだ。

 ルイスも同じ思いを抱いてくれていたことが、奇跡のようだと思った。



 たが、今思えば、あの運命の出会いすらもルイスの思惑通りだったのだろうか。

 そう考えてしまうくらい、シャルロットの心は荒んでいた。


 六本の爪に支えられたダイヤモンドの婚約指輪は、取り出しやすいように、とビューロの一番上の棚に仕舞われていたが、このところケースの蓋を開けて眺めることもなくなっていた。




「ルイス様は新大陸での新しい会社のお披露目にはご同席なさるの?」

 うん、とルイスは頷く。

「伯爵との共同出資の肝入りだからね。ようやく結婚相手としても認められたし、落ち着いたら結婚式を挙げて、新婚旅行は新大陸のリゾートにいこうか。まだ人が少ないから海も綺麗だよ」

「ルイス様が行ったり来たりになりますわ」

 ふふ、とルイスは笑う。

 普段は二十四という年齢よりも成熟して見える風貌だが、笑うと一気に年相応の青年になるのがシャルロットは好きだった。

「船に住んでるようなものだよね」

「そんなのは嫌だわ。ちゃんと帰ってきてください」

「シャルロットのいないところには住めないよ」

 反応を伺うように覗き込んでくるイタズラっぽい表情も、大好きだった。

「旅に出るまでに何回お会いできますか?」

「君が望んでくれるなら、何度でも。どこか行きたいところはある?」

 シャルロットのカップを持つ右手に少し力が入る。

「フリューゾン植物園の花市が賑わっていると聞いたのですが、エミリアと三人で行ってみませんか?」

 ルイスの瞳は真っ直ぐにシャルロットを見つめたまま揺らがない。

「二人で出かけたいな。植物園ならリーズバラ園の今の展覧は評判がいいよ。バラ園の後にリバークルーズでディナーはどう?

 ああ、その前に来週オペラの席を取ってあるんだ。一緒に行ってくれる?」

「嬉しい、全部楽しみにしています」

 ルイスは満足そうに頷いた。

「じゃあ、そろそろ膝を借りてもいいかな。ここは心地よくて眠くなるね」

 そう言って、とすん、と無作法にソファに横になる。

 長い足が肘掛けから外に放り出された。

 ルイスはこのソファでうたた寝するが大のお気に入りだった。

「シャルロット、もっとこちらに寄って」

 シャルロットの膝を自分の方へ寄せると躊躇いなく頭を乗せる。

「このソファは最高だ。柔らかくて暖かくていい匂いのクッションがついてくる」

 身じろぎして姿勢を整え、両腕を組んですっかり寝る体制に入ってしまった。

 シャルロットは軽く息をついてルイスの髪を撫でる。

 いつもは後ろに流されている癖っ毛が、今日はふわふわ降ろされていて、手慰みには丁度いい。

「猫になった気分だな」

 ちらりと片目を開けて、ルイスはまたすぐ目を閉じる。

「こんな大きな猫飼えません」

 くっくっ、と膝の上の頭が揺れる。

「残念だな、こんなに懐いているのに放り出すの」

 声に眠気が混じっているのがわかる。

 時をおかず呼吸が深くなり、ルイスはしっかり寝入ってしまった。

 疲れているのだろう。目元がうっすらと青白い。

 

 シャルロットにはルイスの心が全くわからなくなっていた。

「きれいな顔…」

 しばらく髪で遊び、形のいい眉に触れる。

 瞼に触れ、頰に触れ、最後に薄い唇を親指で撫でた。


 シャルロットの心がルイスに届いているのかも、もうわからなかった。





 そんなやり取りの幾日か後。


 母と参加した修道院のチャリティーで、シャルロットは学生時代のクラスメイトのレオニーに声をかけられた。

 隣には彼女の母親もいて、親同士も顔見知りだ。

「おとといは声をかけたのに、聞こえていなかったの?私もよく行くのよ、あのレストラン。目立つ婚約者さんで大変ね」

 一瞬で体が冷えた。

 隣の母も、会話には入っていないが表情を変えたのがわかった。


 レオニーは学生時代からおしゃべり好きなおしゃれな女の子で、当時からの恋人と、近々相手の領地で結婚するのだと、夜会の噂で聞いていた。

 今日もチャリティーらしいシンプルだが仕立ての良い控えめな若緑色のデイドレスで、子供たちに食事を配っていたのを目にしていた。

「全然気づかなかったわ、エントランスのあたり?」

「二階のホールよ。私たちは帰るところだったの。彼がクライネのオオエビのクリームソースが好きで、今季は五回も行っちゃった」

あなたったら立ち止まってくれたから、聞こえていたと思ったのに。

 悪気のないレオニーの言葉に胸が軋む。

 自分に会った次の日に、エミリアとデートしていたのだ。

 結婚式とハネムーンの話をした、次の日に。



 クライネヴェルトは魚介料理のレストランで、内陸の王都にあっても国一番の海の幸が食べられると評判の、かなりの高級店だ。

 二階はすべて、個室になっている。

 王都の西側にあり、王の離宮が近いことから閑静な邸宅が並ぶ街景の中で、ひと目ではわからない密やかな店構えをしている。

 一度、アデライドとエミリアと三人で食事をしたことがある。

 その時は一階のテラス席だった。

 テラスからはガスランプに照らされた、幻想的な見事な庭園が見えたのを覚えている。

 オオエビのクリームソースがけはクライネヴェルトの季節の人気メニューなのだろうか。

 その店には一度も誘われたことがない。



 帰りの車の中で、母の聴取を躱すのは不可能だった。

「一昨日も昨日も家族揃って食事したわね。あなたの婚約者はだれと個室で食事なさってたのかしら」

 全て知っているような口ぶりだった。隠し立ては意味がない。

「エミリアでしょう。アデライドの結婚式で引き合わせてから、何度か二人で出かけているようです」

「あなたとエミリアは昔から背格好が似ていたわね」

 髪色は金色、多少黄みの強弱はあれども帽子をかぶってしまえばわからない。体型は二人とも細身のやや長身で、エミリアの方が更に少し高かった。

 気が合う友人同士で様々な好みが似ていて、学校でもよく後ろ姿を間違えられたので、レオニーが見間違えたのも何も不思議はない。

 婚約者を連れている素振りで逢瀬を重ねていたのだろうか。

 そういえば植物園でも、エミリアは大きめの帽子をかぶっていた。

「どうするつもりでいるの?このまま結婚するなら、釘は刺しておきなさい」

「わかれても?」

「仕事上は特に変わらないわ。多少今後の条件が彼にとって厳しいものになるでしょうけど、その程度よ。きっとね」

 それはルイスが作り上げた信用のおかげだ。

「まだ浮気と決まったわけじゃないわ」

 シャルロットにとっての最後の砦だった。

 見かけた二人も、連れ立っていたが触れ合ってはいなかった。

 そんな娘を、母は傷ましげに見つめる。

 思考の沼に沈んだシャルロットは、その眼差しに気づかない。





 エミリアは今年の秋に結婚が決まっていた。王都の社交が明ける夏の終わりに領地に戻り、そのまま分家筋の従兄と結婚してアルニム子爵家を継ぐことになっている。

 エミリアは三姉妹の長女なので、従兄が婿入りするのだという。




 シャルロットが決心してエミリアの住まうタウンハウスを訪れたのは、ルイスが新大陸へ旅立つ三日前だった。



 事前の知らせもなくやってきたシャルロットに、子爵家の家令はわずかな動揺を見せた。

 日の入りはとうに過ぎ、侍女と運転手を連れているとはいえ、令嬢が独り歩きをするには憚られる時間帯だ。

 どうか応接室でお待ちを、という家令の申し出を断り、

「エミリアが戻るまでホールで待つわ、大事な約束をしていたの。私のことは気にしなくていいから」

と譲らない伯爵家の令嬢に、老齢の家令がどうしたものかと悩んでいる風を見せていた時、二階から軽やかに階段を下ってやってきたのは、エミリアの妹のユリアだった。

 ユリアはエミリアの二つ下で、この春シャルロットやエミリアと同じ女子学校を卒業したばかりだ。

 アルニム子爵夫妻が領地留まっている今季、結婚の決まっているエミリアが王都に出てきたのは、ユリアの社交をサポートするためという側面も強い。

「シャルロット様、ご無沙汰いたしております。今日は、あの…」

 エミリアと良く似た榛色の瞳が戸惑うように揺れる。

「王室の春の会以来ね、ユリア様。エミリアと約束していたのだけど、聞いていて?」

「ええ、三人で夕食をご一緒なさると、クレモンド卿がお迎えに」

 は、と、両手で口元を押さえたユリアに、家令も顔を伏せる。

 彼女は、察したのだろう。

 そして彼は、露呈していたことを察したのだ。



 外から聞こえる微かなエンジン音は、夜の静かさの中でだれの耳にも届いた。

「シャルロット様。どうか、どうかお待ちを。どうか」

 エントランスの扉の前で行手を阻む家令は、しかし身分の上で争う術がなかった。


 

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