ロイヤルブルー
狭い、狭い、狭い——
身動きが取れずもがいてみるけれど、もがいてみたところで、だった。
暗闇と、静寂。このふたつが重なると、恐怖すら覚える。
どんなに目を凝らしても、ここにはわずかな光もない。どんなに耳をすましても、何の音も聞こえない。
次第に、これはただの闇なのか、自分の目がおかしくなってしまったのか分からなくなる。手のひらをどれだけ目の前に寄せても、そこにあると分かっていても全く何も見えない。手を叩いたところで、手のひらがぶつかっているだけだった。
どうしようもなくて、見えない手のひらを見つめていると、頭の中にゆっくりと色が入ってくる感覚に陥っていく。たくさんの色が、ゆらゆらと変化してひとつの絵を描いている。どんどん色が重なり、はっきりと形が見えそうになった瞬間はっとなった。思い違いでなければ、その絵は僕の記憶だ。
いつだったか、仕事帰りにたまたま立ち寄ったカフェの窓から見えた風景とものすごく似ていると思った。その日は普段よりも仕事が早く片付き、ひと息つこうとチェーン店のコーヒーショップに入った。ガラス張りのカウンターの席から、見るともなくぼんやりと窓の外を眺めていた時のあの風景を切り抜いたものだと、次第に確信に変わる。
ぴくりとも動かないこの絵が、一体なんだというのだろうか。
あの日と同じようにぼんやり眺めていると、どこからともなく悲しいという感情がふつふつとわいてきた。涙こそ出ないけれど、胸の奥の誰にも触れられたことない場所を、無遠慮にぎゅっとつかまれたような気分だ。
この絵の中に、僕の心を動かす何かが隠れているのだろうか。
色のあった風景が、徐々にその色を失い、濃い霧のようなものに覆われて見えなくなる。あっという間に、闇の中に引き戻された。
何を伝えようとしているのだろう。思ってから、誰が、となった。誰かが、僕に何か伝えたがっているのだろうか。
もしも本当に僕の記憶なら、自分でわざわざこんなことをするだろうか。それなら、僕ではない誰かがそうしている方がしっくりくる。
誰だ、誰だ、誰だ——
反射的に、まぶたをぎゅっとつむる。
霧が晴れるのが恐ろしく遅い。思い切り息を吹きかけて飛ばしたくなるほどのろのろとした動きだ。
再び、頭の中に色が入ってきた。今度は単色だった。そのロイヤルブルーを僕は知っていた。瞬間、全身が粟立った。
——ロイヤルブルーは、僕の恋人が着ていたふわふわのカーディガンだ。クリスマスに、絶対に彼女に似合うと思いプレゼントしたものだ。予想通り、いや、予想以上にぴったりで、可愛くて、ずっと見ていたいと思ったのもつかの間、興奮した僕は、すぐにそのカーディガンを脱がせてしまったのを覚えている。
彼女は、その年の最後の日、この世からいなくなった——数十年ぶりの寒波で大雪に見舞わられ、コントロールの利かなくなった車が歩道に突っ込んできたのだ。
どれだけ謝罪の言葉を聞いても、どれだけ頭を下げられても、何ひとつ耳に入ってこなかった。怒りよりも、喪失感の方がはるかに大きく、何も手につかない、どころではなかった。
心配した友人に勧められ、精神科に足を運んではみたものの、その一度きりだけだった。
何もやる気が起こらなかった。だから、僕は彼女のあとを追った。
そうだ、そうだ、そうだ──
僕だけが息をしていることに耐えきれなくて、あの日僕は、自らの命を絶ったのだ。それなのに、これはいったいなんだというのだ。生きているわけではなさそうだけれど、死んでいるというにはどこか、何かが妙だ。俗に言う、あの世とこの世の間と呼ばれる場所にいるのだろうか。それにしては、感覚が現実的すぎる。
頭の中のロイヤルブルーも、先ほどの風景と同様早々に色を失ってしまうのかと思いきや、すぐには消えなかった。けれどそれも良かったのは初めのうちだけで、彼女との思い出があまりにも生々しく頭の中に入ってくるものだから、危うく生きていると勘違いしそうになる。あのコーヒーショップも、よく考えれば彼女の好きだった店だ。
すでに息絶えているはずなのに、苦しくて、苦しくて、胸元にそっと手を添えた。きっと、生きていた時の経験から、無意識に苦しいという感情を引っ張り出したのだろう。
——遠くでかすかに音がしたような気がした。ありえないと思いつつも、反射的に耳をすましてみると、人の声が重なって聞こえた。決して穏やかではないその声に混じって、耳の奥にまで響くような機械音がずっと鳴っている。
その声は、僕に向かって何かを叫んでいる。それは分かるのに、反響が激しすぎるせいで何も聞き取れない。まるで、声が物体になって迫ってくるかのような恐怖すら感じた。
夢を見ている時のように瞬間的に場面が切り替わり、左腕を何かに押さえつけられているような感じがして意識がそちらに向く。けれどやっぱり、身動きが取れない。ただ、先ほどまでとは様子が違う。目を閉じていても分かるほど、まぶたの向こう側に光を感じる。
ゆっくりとまぶたを開け、目だけで周りを見回した。
——ここは、どこだ?
次の瞬間、突然声をかけられた。その声の方に目を向け、その女性の姿を見て、さすがに全てを理解した。
——僕は、生きている。要するに、死ぬことに失敗した。僕はここに、この世界に取り残されたのだ。その事実を不運だと決めつけた途端、孤独に襲われた。さらには嫌悪、そして後悔——後悔は、自分の失敗に対してなのか、死のうとした行為自体に対してなのか、どちらなのだろう。今僕が生きているということは、少なからず死への恐怖があったに違いない。本気なら、もっと確実な方法を選んだはずだ。
睡眠薬の多量摂取くらいではさすがに無理だったようだ。こんなのは、ただの自己憐憫だ。もっと呆れた言い方をするなら、注目を浴びたいだけのかまってちゃんに過ぎない。自分のことだから、なんとでも言える。
頭上のナースコールを押したのは、僕ではない。今にもはち切れそうな白衣を着た看護師は、慌てる様子もなく僕にいくつか質問を投げかけてきた。そのあとすぐに病室に入ってきた医者の話を病人のふりをして受け流し、適当に話を合わせた。理由を聞かれたところで、本当のことを言う気はさらさらなかった。会社の人間関係に疲れてどうしようもなくてつい、などという嘘に、唇をきゅっと結んで聞いている医者の表情に白けながらも、ビジネスでも僕のことを心配してくれているので悪いことは言えない。
話の最後に精神科の受診を勧められ、検討すると答えた時に医者が渋い顔をした。あながち、全てが全てビジネスではないのかもしれないと思った。
翌日僕は退院した。次の予約を取ることも、薬をもらうこともなく、あたかも元気になってそうするかのように病院をあとにした。
心には、とてつもなく大きな穴がぽっかりと開いているのに、あの医者はその大きな穴を見落としてしまった。医者のくせに、思ってから、それは大きなブーメランとなって僕に返ってきた。
八つ当たりをすることしかできない自分を、自嘲して笑うしかない。
——横断歩道で立ち止まり、それっぽく空を見上げる。澄んだ空にロイヤルブルーを重ねるのは無理があるけれど、そうしてしまう僕を、ひとりくらいは理解してくれるだろうか。あの不思議な体験は、彼女が僕に生きろと伝えようとしたのだろうか。もしもそうだとしたら、生かされた命を、彼女の分まで生きようと前向きに考えられる日がくるのだろうか。そして、僕の欲しい答えはこの先見つかるのだろうか。彼女のいない世界で……
完
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現実逃避の行く末は二極化でしかないけれど、自分がもしも直面した場合に、正しい判断ができるだろうか……




