第8話 変わりはいないから
あの書庫で、カインが王都での騎士団の暮らしを少しだけ話してくれてから、数日が過ぎた。
工房での生活は、奇妙なバランスで成り立っていた。
「カインさん、そこは邪魔です……」
マリアが箒を動かすと、その穂先にじゃれつくように、銀色の狼が前足を出してくる。
日中のカインは、体力の消耗を抑えるため、ほとんどの時間をこの狼の姿で過ごしている。
人間の時の鋼の理性はどこへやら、狼姿の彼は、本能のままにマリアに甘え、後をついて回るのが日課となっていた。
「ワンッ!」
「遊びません。掃除が終わらないじゃないですか」
マリアは困ったように眉を下げるが、その口元は緩んでいる。
孤独だった工房が、今は賑やかだ。
大きな銀色の尻尾が、ブンブンと振られて風を起こす。
その無邪気な姿を見ていると、彼が国を守る騎士団長だということも、重い呪いを背負っていることも、一瞬忘れそうになる。
けれど、現実は甘くはない。
昼食の時間。
マリアが手袋を外し、カインの額に触れる。
光と共に人間の姿に戻ったカインは、スプーンを手に取りながら、小さく溜息をついた。
「……また、箒にじゃれついていた気がする」
その声は、絶望に震えていた。
狼の姿でいる間の記憶は、深い霧の中にあるように曖昧だ。
だが、身体の奥底に、目の前で揺れ動く何かを無心に追いかけ、本能の赴くままに飛びついた時の……あの、恥ずかしいほどの高揚感だけが、うっすらと残っている。
騎士団長として魔獣を狩る時の研ぎ澄まされた感覚とは違う、もっと純粋で、情けないほどの遊びの記憶。
まさか、誇り高き闘争本能が、掃除の邪魔で満たされていたとは。
「ふふ。元気で何よりです。尻尾もブンブン振ってましたよ」
「ぐっ……!」
マリアの悪気のない追撃に、カインはテーブルに突っ伏した。
「情けない……。あの姿を、部下には……副団長たちには、死んでも見せられん……!」
理性と本能の乖離に頭を抱えるカインだったが、その時間は長くは続かない。
食事を終え、少し会話をすると、カインの体は再び光に包まれ、強制的に狼へと戻ってしまう。
マリアが触れていなければ、彼が人間でいられる時間は、まだごくわずかだった。
(ずっと触れているわけにはいかない。でも、カインさんには、もっと人間の姿でいてほしい)
マリアは、食器を洗いながら考えた。
私の力が鍵なら。
私の魔力を込めた何かを、彼が身につけていれば、触れていなくても人の姿を保てるのではないか?
* * *
その夜。
マリアは、暖炉の前で針仕事に没頭していた。
手元にあるのは、上質な青い布切れ。かつて祖母が残していた端切れだ。
彼女はそこに、銀色の糸で、一針一針、魔力を込めながら刺繍を施していく。
(私の魔力が、カインさんを守りますように。呪いを、抑えてくれますように)
祈りを込めた魔力は、銀の糸を通して布地に定着していく。
出来上がったのは、銀の刺繍が入った、青いスカーフだった。
不格好かもしれないけれど、今のマリアに作れた精一杯の魔道具だ。
「カインさん」
マリアが呼ぶと、暖炉の前で丸まっていた狼が顔を上げる。
「これを、着けてみてください」
マリアは、狼の首にスカーフを巻き、キュッと結んだ。
その瞬間。
スカーフから、マリアが込めた淡い魔力の光が溢れ出し、カインの体を包み込む。
「グルッ……!」
カインが驚いたように目を見開く。
光の中で、狼の輪郭が揺らぎ、人の形へと変わり——
パァンッ!!
乾いた破裂音が、工房に響いた。
「え……?」
光が霧散する。
そこには、人間のカインではなく、狼の姿のまま、呆然と座り込むカインがいた。
そして、彼の首に巻かれていたはずのスカーフは——無残にも弾け飛び、黒く焦げた布切れとなって、床に散らばっていた。
「……あ……」
マリアは、黒く焦げた布切れを拾い上げた。
ボロボロに引き裂かれている。
マリアが込めた魔力が、カインの呪いの力と衝突し、器である布が耐えきれずに崩壊したのだ。
(だめ、なんだ……)
自分の魔力を込めた物程度では、あの強大な呪いを抑え込むことはできない。
「クゥ……」
狼が、悲しげな顔をするマリアを慰めるように、鼻先を摺り寄せてくる。
失敗したことよりも、マリアが傷ついていることを案じているようだ。
「……ごめんなさい、カインさん」
マリアは、狼の首に腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。
「私、甘く見ていました。……あなたの呪いは、こんな小手先だけじゃ、どうにもならないくらい根深いんですね」
悔しさと申し訳なさで、マリアは狼のふかふかの毛並みに、自分の頬を押し付けた。
その、瞬間。
カッ、と淡い光が二人の間から溢れた。
「あっ」
腕の中の感触が変わる。
ふかふかの毛並みが、しっとりとした布地と、その下の硬い筋肉の感触へ。
獣の匂いが、カイン特有の清潔な石鹸のような香りへ。
光が収まると、マリアが抱きしめていたのは、狼ではなく——人間の姿に戻ったカインだった。
「……謝ることはない」
耳元で、低い声が響く。
カインは、驚いて固まるマリアの背中に、そっと自分の腕を回し、抱きしめ返した。
「カイン、さん……?」
マリアが顔を上げると、すぐ目の前に、カインの穏やかな瞳があった。
彼は、マリアの手の中にある黒く焦げた布切れを、愛おしそうに見つめた。
「君が俺のために、作ってくれたものだろう?狼だった時も、君が一生懸命作る姿をうっすらと覚えている……その気持ちだけで、俺は十分救われている」
「で、でも……壊れちゃいました……」
マリアが涙目で訴える。
カインは、その手から黒い布切れを優しく取り上げると、代わりに、マリアの小さな手を自分の両手で包み込んだ。
「ああ。だが、見てくれ。俺は今、こうして人間の姿だ」
カインは、包み込んだマリアの手を、トントン、とあやすように叩いた。
「道具は壊れてしまったが……君がこうして触れてくれさえすれば、俺は元に戻れる。その事実は変わらない」
「……」
「だから、今はそれだけでいい。……君がそばにいてくれるなら、俺はそれで十分だ」
カインの言葉には、迷いも、自分への卑下もなかった。
ただ事実として、マリアがいれば大丈夫だ、と告げている。
その揺るぎない落ち着きが、マリアの焦燥感を溶かしていく。
道具は壊れてしまったけれど、二人の絆まで壊れたわけではない。
カインは、失敗したマリアを責めるどころか、その存在だけで自分を肯定してくれている。
マリアは、カインの胸に額を預け、小さく、けれど深く頷いた。
「……はい」
口ではそう答えたものの、胸の奥には、黒く焦げた布切れのような苦い悔しさが残っていた。
(……でも、くやしい。本当は、もっと……カインさんを自由にしてあげたかった)
けれど、それを口に出すことはできなかった。
もっと何とかしたい、なんて言えば、今のカインの十分だという言葉を否定することになるかもしれない。
自分のわがままかもしれない。
人に甘えることにも、自分の意志を主張することにも慣れていないマリアは、言葉を飲み込み、ただ俯くことしかできなかった。
そんなマリアの沈黙に込められた想いを、カインの聡明さが察しないはずがなかった。
「……ありがとう。だが」
カインは、マリアの体を優しく離すと、その顔を覗き込んだ。
「俺も、君の優しさに甘え続けてばかりではいられないな」
彼は立ち上がり、工房の奥——書庫へと視線を向けた。
そこには、まだ二人が手を付けていない、難解な専門書が眠っている。
「今まで避けていた難解な本……天体や暦に関する文献も、もう一度片っ端から調べてみようと思う。君の手が鍵なら、その鍵穴の形——呪いの周期や法則を知る必要があるはずだ」
カインは振り返り、座り込んでいるマリアに手を差し出した。
それは、ダンスに誘うような、紳士的な、誠実な、差し伸べ方だった。
「マリア殿。君さえ良ければ……手伝ってくれないか?」
「……!」
マリアは顔を上げた。
彼は、マリアが「何もできなかった」と落ち込まないように、新たな役割を用意してくれている。
その温かい気遣いに、マリアの瞳に新たな光が宿る。
「……はい! 喜んで!」
マリアは、差し出されたカインの手をしっかりと握り返し、立ち上がった。
二人は、砕けたお守りを胸に、まだ紐解かれていない真実を求めて、再び書庫へと向かう。
窓の外では、清冽な白い月が、静かに二人を見下ろしていた。
その美しい光が、まもなく絶望の色に染まりゆく運命にあることを、二人はまだ、知る由もなかった。




