第7話 銀灰騎士の優しさ
書庫の中は、埃っぽい紙の匂いと、マリアが静かに鼻をすする音だけが響いていた。
激情の波が引き、後に残ったのは、深い疲労感と、不思議なほどの安堵だった。
マリアは、涙で濡れた顔を上げ、目の前の青年を見つめた。
カインは、何も言わずに、ただマリアの手袋越しの手を包み込むように握り続けてくれている。
その手は、大きく、無骨で、そして——何より温かかった。
「……」
マリアは、確認するように、そっと指先を動かした。
手袋の布地越しに、カインの掌の熱がじんわりと伝わってくる。
脈打つ鼓動。確かな生命の証。
(温かい……。あの日、私が素手で触れたのに……この人は、氷のように冷たくならなかった。今もこうして、生きて、私を温めてくれている)
「……本当に、温かいんですね」
マリアは、噛み締めるように、独り言のように呟いた。
「私の手が……触れたのに」
その言葉に、カインは困ったように、けれど力強く微笑んだ。
「ああ。言っただろう?俺は平気だ」
彼は、握っていたマリアの手を、安心させるようにポン、と軽く叩いた。
「王都の騎士は、これくらいでは参らないさ。……それに、俺は少々頑丈にできているんでね」
「騎士……様」
マリアは、その響きを反芻した。
そういえば、あの騒がしい朝、彼は自分が騎士だと言っていた。
この森で見る彼は、狼として無邪気に甘えてきたり、あるいはこうして穏やかに本を読んだりする姿ばかりだったけれど。
目の前にいる、この温かい手を持つ人が、どんな世界で生きてきたのか。
マリアは、純粋に知りたくなった。
「……カインさんは、どんなお仕事をされていたんですか?」
マリアが尋ねると、カインは少し意外そうに目を丸くしたが、すぐに懐かしむように目を細めた。
彼女の気が紛れるなら、と、彼はぽつりぽつりと語り始めた。
「……聖銀騎士団という、王都を守る騎士団の団長を務めていた」
「聖銀、騎士団……」
雪のように白く、銀のように輝く名前。
「ああ。『聖銀』の名は、いかなる混沌の中にあっても、決して曇らぬ理性と秩序の銀光たれ、という誓いから来ている。……規律にはうるさいが、誇り高い騎士団だ」
カインは、書庫の窓から見える忘却の森の雪景色に、遠い王都の姿を重ねるように語った。
「団員たちは、みな腕は立つが、少し無鉄砲でな。特に副団長は、実直すぎるきらいがある。俺が理性的たれ、と口酸っぱく言っても、訓練場ではすぐにカッとなって、模擬戦で備品を壊すんだ」
「ふふ……」
マリアが小さく笑うと、カインもつられて口元を緩めた。
「きっと今頃、俺がいないのをいいことに、訓練場をひっくり返しているだろう。……騒がしいが、いい連中だ」
その声には、部下たちへの確かな信頼と、自らの騎士団への揺るぎない愛情がこもっていた。
カインには、帰るべき場所があるのだ。
マリアは、そんなカインの横顔を、眩しいものを見るように見つめていた。
「彼らも、俺の帰りを待っているはずだ。……必ず、戻らねばならない」
カインが、ふと、言葉を切った。
その視線が、窓の外の雪景色に釘付けになる。
「……」
一瞬。本当に、ほんの一瞬だけ。
カインの表情から、穏やかな色が消え、代わりに深く、暗い影が差したのを、マリアは見逃さなかった。
それは、単なる望郷の念ではない。
もっと切迫した、何かを悔やみ、何かを恐れているような——鋭い憂いの色。
握られている手袋越しの手に、ギュッ、と無意識の力がこもる。
(……?)
マリアの胸に、小さな違和感が棘のように刺さった。
彼は、ただ迷い込んでここに来ただけなのだろうか?
必ず戻らねばならないという言葉の裏に、何か、彼を追い立てるような事情があるのではないか。
「……カイン、さん?」
マリアが不安げに呼びかけると、カインはハッとして我に返り、いつもの穏やかな表情を作り直した。
「……すまない。少し、昔を思い出してしまった」
彼は、それ以上は何も語らなかった。
マリアもまた、それ以上聞くことはできなかった。
せっかく彼が作ってくれた穏やかな空気を、壊してはいけない気がしたからだ。
けれど、マリアの胸には、小さな予感が残った。
この人は、何か大きなものを背負っている。
そしてそれは、いずれこの静かな森の生活にも、影を落とすことになるのではないか——と。
「……さて」
カインは、その暗い表情を振り払うように、努めて明るく話題を変えた。
「マリア殿。君の話を聞かせてくれてありがとう。……おかげで、一つ、君に伝えられることがある」
カインは、床に座り込んだままのマリアと視線を合わせた。
その瞳には、先ほどの憂いはなく、誠実な光が宿っていた。
「君の、その力が……なぜ俺の呪いを鎮めるのか。なぜ俺だけが平気なのか。……君は、その本質を知りたくはないか?」
「本質……」
「この森にいては、それは叶わないかもしれない。だが……王都になら、きっと答えがある」
「王都、ですか……?」
「ああ。あそこには、国内随一の知識を持つ魔術師たちがいる。彼らなら、きっと君の力の謎を解明してくれる」
カインは、祈るように言葉を継いだ。
「……そうすれば、君はもう、自分を呪いだなんて、責めなくて済むようになるはずだ」
カインの言葉に、マリアの瞳が揺れる。
自分の力が呪いではないと証明されるかもしれない。
両親を殺しただけの力ではないと、誰かに教えてもらえるかもしれない。
それは、彼女にとって夢のような希望だった。
けれど、カインはそこで言葉を区切った。
彼は、何かを言いかけて、喉の奥でその言葉を飲み込んだ。
カインの胸の内で、騎士としての良心と、彼女の未来を救いたいという願いが激しくせめぎ合う。
その迷いは、一瞬、金色の瞳の奥に、暗い影を落とした。
彼は、その迷いを隠すように、優しく、けれど慎重に告げた。
「……もし、君が望むなら。いつか、君を王都へ案内したいと思う」
「カインさんが、私を……?」
「ああ。君が俺を救ってくれたように……今度は俺が、君の力になりたいんだ」
「……」
カインは、ただマリアの未来のために、その道を示した。
まだ、具体的な時期も、彼が抱える事情も、何も明かされてはいない。
それでも。
マリアは、カインの金色の瞳を見つめ返した。
自分の力が呪いではなく、解明すべき謎であり、それを解く手伝いをしたいと、彼が言ってくれている。
カインの横顔に一瞬見えた憂いの影は残るものの、その事実が、マリアの凍てついた心に、一条の光を差し込んだ気がした。




