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あなたの孤独をほどくまで  作者: らぴな
第1章 忘却の森

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第6話 つめたい感触

 あの書庫での一件から、数日が過ぎた。


 工房には、穏やかな日常が戻っていた。

 だが、二人の間には、以前とは違う、共有された目的があった。


「……これでもないです」


「こちらにも、似たような紋様の記述はないな」


 昼下がり。

 マリアとカインは、書庫で古い書物を広げていた。


 探しているのは、あの日カインのうなじに一瞬だけ浮かび上がった、不吉な幾何学模様の手がかりだ。

 カイン自身はその印を見ることができなかったため、マリアの幼い頃に見た、黒い背表紙の本にあった挿絵という記憶だけが頼りだった。


 マリアは、棚の奥から埃をかぶった分厚い専門書を取り出し、ページをめくる。

 そこに書かれているのは、難解な魔術理論や古代語だ。


(……やっぱり、難しい)


 少し前のマリアにとって、この書庫は開かずの間のようなものだった。


 もちろん、物理的な鍵がかかっていたわけではない。

 祖母マルダスが亡くなった後、一人で魔法を学ぶ時間はいくらでもあった。


 けれど、マリアはそうしなかった。


 いや、できなかったのだ。

 もし調べてしまえば、自分の力がどれほど恐ろしいものかを知ってしまうかもしれない。

 幼い頃のあの日、自身の身に降り掛かった恐ろしい出来事が、紛れもなく自分の力のせいだったと……その残酷な真実を突きつけられるのが、何よりも怖かった。


 だから、彼女は無知であることで、自分自身の心を守っていたのだ。


「……マリア殿? 疲れたか?」


 ふと、カインが心配そうに顔を覗き込んでくる。


「あ、いえ! 大丈夫です」


 マリアは首を振って、小さく微笑んだ。


「……祖母が亡くなった後は、この部屋に入るのも、本を開くのも、怖かったんです。自分の力のことを知るのが、恐ろしくて」


 彼女は、自分の手袋を見つめた。


「でも、今は……カインさんがいてくれるから」


 触れても、命を奪わない人。

 私の力を希望だと言ってくれた人。


「今なら…勇気を出せる気がするんです」


 マリアの健気な決意に、カインは眩しいものを見るように目を細めた。


「……ありがとう、マリア」


 カインは、テーブルに積まれた高度な魔術書に視線を落とした。

 彼はふと、以前から抱いていた疑問を口にした。


「しかし……不思議だ」


「え?」


「これだけの専門書を揃え、読み解いていた君の祖母君だ。君が強力な力の持ち主であることには、当然気づいていただろう」


 カインは、マリアをまっすぐに見つめた。


「なぜ、祖母君は君に、その力の制御法や知識を授けなかったのだろうか?知識があれば、君はもっと早く、その力を恐れずに済んだかもしれないのに」


 それは、純粋で、もっともな疑問だった。

 だが、その問いは、マリアの心の奥底に眠る、最も冷たい記憶の扉をノックした。


「……それは」


 マリアの表情から、ふっと感情の色が抜け落ちた。


 視線が、虚空の一点を捉える。

 その瞳は、鉄錆色に沈殿した古井戸のように、深く、静かだった。


「祖母は……教えなかったんじゃないんです。……教えられなかったんだと、思います」


 彼女の声は、まるで今日の天気の話でもするかのように、平坦だった。



* * *



 あの日は、窓から差し込む光が、とても暖かな午後だった。

 村はずれの小さな家。


 幼いマリアは、熱を出してベッドに横たわっていた。


『マリア、顔が赤いわね』


 母の、優しい声。

 心配そうに覗き込む、大好きな笑顔。


 母が、マリアの熱を確かめようと、その温かい手を伸ばしてくる。



* * *



「あれは、私が5つくらいの時でした。私は熱を出して、母が看病をしてくれていました」


 書庫のマリアは、ページをめくる手すら止めずに、淡々と続けた。


「母が、私の額に触れました。熱を測ろうとしたんです。……ただ、それだけでした」



* * *



 瞬間、世界から音が消えた。


 母の動きが、ピタリと止まる。

 心配そうな、慈愛に満ちた表情のまま、瞳の光だけがフツリと消える。


 次の瞬間、糸が切れた人形のように、母の体が、幼いマリアの上に覆いかぶさるように倒れ込んできた。


『……おかあ、さん……?』


 重い。

 でも、幼いマリアはまだ状況が分からず、母に甘えようとして、その体を抱きしめ返そうとした。



* * *



「母は即死でした。苦しむこともなく、ただスイッチが切れたように、私の上に倒れ込んできました」


 マリアは、自分の手袋を見つめた。

 そこには、悲しみも後悔もなく、ただ事実を確認するような冷めた目があった。


「父が駆けつけてきました。母を退かそうとして、父の腕が私に触れました」



* * *



『おい、どうしたんだ!』


 異変に気付いた父が、部屋に飛び込んでくる。

 父は、マリアの上に倒れ込んでいる母を退かそうと、慌てて手を伸ばした。


 その太い腕が、マリアの腕に触れる。


『……あ』


 父の目から、光が消えた。

 驚愕の表情を浮かべたまま、父の体からも力が抜け、そのまま母の上へ——マリアをさらに押し潰すように、崩れ落ちた。



* * *



「父も、死にました。二人とも、私に触れた箇所から、心臓が止まったようでした」


 カインの表情が、凍りついていく


 だが、マリアは止まらない。

 書き込まれた台本を読み上げるように、淡々と、正確に、過去を再生し続ける。


「二人は動かなくなりました。私は、ベッドの上で、二人の死体の下敷きになりました」



* * *



 動かなくなった、二人。

 幼いマリアは、小さなベッドの上で、大好きな両親の死の重みの下に閉じ込められた。


『……おとうさん? おかあさん……?』


 いくら呼んでも、返事はない。


 普通なら、まだ残っているはずの体温が、そこにはなかった。

 マリアに触れた額。触れた腕。

 その接触点から、瞬きする間に熱が消滅していた。


 覆いかぶさる母の体も、重なる父の体も。

 マリアに触れている部分から、急速に、恐ろしい速さで冷たい物体へと変質してしまっていた。


 まるで、一瞬で氷の彫像に変えられてしまったかのように。


『つめたい……さむい……』


 幼いマリアは、その異常な冷たさと重みの中で、一晩中、泣き叫び続けた。

 温かかった父と母が、氷のよう。


 ――助けて。寒い。重い。怖い。



* * *



「重かったです。そして、どんどん冷たくなっていきました」


 マリアは、まるで他人の話をしているかのように、首をかしげた。


「不思議ですよね。人は死ぬと、あんなに冷たくなるんです。まるで氷みたいに。……私は一晩中、その氷の下にいました」


「……マリア殿」


 カインの声が震えている。だが、マリアには届かない。


「翌朝、祖母が見つけてくれました。祖母はすぐに状況を理解しました。だから、私には触れませんでした」



* * *



 翌朝、祖母マルダスが発見した時、マリアは両親の死体の下で、声も出せずに凍えていた。

 引き剥がされた時、マリアの手には——冷たくなりすぎた母の服の生地が、張り付いていた。


 祖母は、足元に落ちていた枯れ木の枝を拾うと、その端をマリアに握らせた。


『……マリア。これを持つんだ』



* * *



「枯れ木の枝でした。祖母はそれを私に握らせて、引っ張り出しました」


 マリアは、空中に見えない枝を握るような仕草をした。


「賢明な判断です。もし祖母が私を抱きしめていたら、祖母も死んでいたでしょうから。……私は、自分が毒であることを、その時理解しました」


 彼女は、カインに向かって、薄く、虚ろに微笑んだ。


「私が殺したんです。私が触れなければ、二人は生きていた。私が、二人を冷たいモノに変えて……」


「——もういい!!」


 カインの叫びが、静寂を切り裂いた。

 ドンッ、と椅子が倒れる音がする。


「え……?」


 マリアが、びくりと肩を震わせ、我に返る。


 目の前には、カインが立っていた。

 その顔は、苦痛に歪み、今にも泣き出しそうなほどに悲痛だった。


「もう……もういい。やめてくれ……」


 カインは、震える手で、マリアの肩を掴もうとして——躊躇い、それでも、彼女の手袋をした手を、強く、強く握りしめた。


「……カイン、さん……?」


「そんな……そんな顔で、自分をそこまで追い詰めないでくれ……!」


 カインの手から伝わる熱と、痛いほどの握力。

 その生きた感覚が、マリアを、冷たい回想の世界から、現実へと引き戻す。


「あ……」


 マリアの目から、ポロリと涙がこぼれた。

 淡々と話していた時には出なかった涙が、カインの痛切な声と体温に触れた瞬間、堰を切ったように溢れ出した。


「……わたし……」


 心が、解凍されていく。

 今まで事実として処理し、感情を殺して閉じ込めていた痛みが、一気に噴き出す。


「……こわ、かった……」


「……ああ」


「冷たくて……重くて……!ごめんなさい、お父さん、お母さん……!」


 マリアは、カインの手に額を押し当て、子供のように泣きじゃくった。

 カインは、その小さな背中を、もうためらうことなく抱きしめた。


「君は悪くない……! 誰も、君を責めたりしない……!」


 書庫に、マリアの慟哭が響く。

 それは、10年以上もの間、彼女の枯れた心の中で凍りついていた時間が、ようやく動き出した音だった。

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