第5話 不可抗力
マリアとカインの奇妙な共同生活は、試行錯誤の連続だった。
マリアの素手が触れれば、カインは人の姿を取り戻せる。
だが、それは一時的な対処療法に過ぎない。
なぜマリアの力が呪いを鎮めるのか。
その理屈がわからなければ、根本的な解決には至らないのだ。
工房の書庫には、天井まで届くほどの大きな本棚が設えられており、そこには古びた書物がびっしりと並んでいる。
人間の姿を取り戻していたカインは、湯気を立てるハーブティーを片手に、その背表紙の列を興味深そうに見上げていた。
「……薬草学に、精霊学、古代語の辞典か」
カインが、背表紙のタイトルを目で追いながら呟く。
そこにあるのは、単なる田舎暮らしの知恵袋ではない。
高度な魔術的知識が記された専門書の数々だった。
「マリア殿。少し、書庫の本を拝見しても?」
カインが振り返り、マリアに尋ねた。
「ええ、もちろん。……何か、手がかりがありそうですか?」
「ああ。これだけの蔵書だ」
カインは、本棚に並ぶ書物の背を、愛おしむように指でなぞった。
「君の力と俺の呪い……魔力の干渉に関する記述が、祖母君の書物に残っていないかと思ってな」
二人は、工房の奥、貴重な書物が保管されている書庫へと足を踏み入れた。
埃っぽい、古い紙とインクの匂いが立ち込める空間。
そこは、かつてマリアの祖母マルダスが、ほとんどの時間を過ごしていた思い出の場所でもあった。
「ごめんなさい、散らかってて……。祖母は魔法より薬草学が中心だったから、専門的な魔導書は少ないかも……」
「いや、知識は分野を選ばない。必ず何かあるはずだ」
カインは真剣な表情で背表紙を追っていく。
マリアも、カインの役に立ちたい一心で、記憶を辿った。
この書庫で、祖母はいつも難しい顔をして本を読んでいた。
幼いマリアが魔法を教えてとせがむと、祖母は決まって寂しそうな顔をして「お前にはまだ早い」と、簡単な生活魔法しか教えてくれなかった。
だから、どの本に何が書いてあるのか、マリアにはほとんど分からない。
(なにか、私でも読めそうな……役に立ちそうな本は……)
マリアは背伸びをして、視線を目一杯上に向けた。
難解な古代語や、複雑な数式が書かれた背表紙ばかりが並ぶ。
その中で、一番上の棚の端に、古びた革表紙の本が見えた。
背表紙の文字は擦り切れているが、『魔力』と『循環』という単語だけは、かろうじて読み取れた。
(あ、あれなら……もしかして)
マリアは近くにある踏み台を運んでくると、その上に立った。
「えいっ……」
つま先立ちになり、目的の本に手を伸ばす。
だが、長年置かれたままだった本は、棚の奥に張り付いているのか、びくともしない。
(うぅ……もうちょっと……!)
マリアが無理に体を伸ばした、その瞬間。
ぐらり、と踏み台が傾いだ。
「きゃっ!?」
「マリア殿!」
バランスを崩し、マリアの体が宙に投げ出される。
マリアの異変をすぐさま察知したカインが、彼女を受け止めようと疾風のように駆け寄る。
カインは、落ちてくるマリアの体をしっかりと腕の中に抱き留めた。
だが、その勢いは殺しきれなかった。
「ぐっ……!」
踏ん張ろうとしたカインの足が、床に乱雑に積まれていた古い魔導書に乗り上げ、つるりと滑る。
「しまっ……!」
カインは体勢を崩し、マリアを抱きかかえたまま、背中から床へと倒れ込んだ。
ドサッ!という鈍い音と、バサバサと本が崩れる音が重なる。
「……い、た……」
工房は、一瞬の静寂に包まれる。
マリアは、自分が床に叩きつけられていないことに気づいた。
カインが、下敷きになるような形で、彼女の体をぎりぎりで受け止めてくれていたのだ。
マリアの両手はカインの胸板についており、カインはマリアの体を支えるように腕で覆いながら、背中を床につけていた。
「ご、ごめんなさい、カインさ……」
謝ろうとして顔を上げたマリアは、言葉を失った。
カインもまた、驚いたように目を見開いて、マリアを見ていた。
至近距離。
そして、二人の唇が、ごく柔らかく、重なっていた。
時が、止まった。
暖炉の薪がはぜる音だけが、やけに大きく響く。
「——っ!!」
我に返ったマリアが、弾かれたようにカインの腕の中から転がり出る。
「ご、ご、ごめんなさい! わ、わざとじゃ……!」
「い、いや、こちらこそ……すまない……」
普段の冷静沈着な騎士の姿はどこへやら、カインも珍しく狼狽し、顔を赤らめながら立ち上がる。
その時、マリアは、カインの首筋——うなじの部分に、何か黒い文様が浮かび上がっているのを、目敏く見つけた。
「カインさん! 首……!」
「ん? 首?」
マリアが顔を真っ赤にしながら、今の気まずさを誤魔化すように必死にそれを指差す。
よく見れば、それはただの汚れではない。
複雑で、どこか禍々しい幾何学模様。
(あれは……)
マリアの記憶が、ふと刺激される。
昔、祖母の書庫でこっそり開いた、分厚い黒革の本。
そこに描かれていた、恐ろしい挿絵の横に、こんな模様があった気がする。
意味はわからなかったけれど、子供心に見てはいけないものだと感じて、すぐに閉じた記憶。
「……この、印……」
マリアが息を呑む。
その視線と呟きに、カインは自身のうなじに熱を感じたのか、ハッとしたように手を当てる。
「……っ!」
だが、その印は、まるでマリアに見られたのを嫌うかのように、カインの手が触れるよりも早く、瞬く間にインクが染み込むように消えてしまった。
「……消え、た……」
再び、重い沈黙が書庫に落ちる。
不気味な印の衝撃と、それ以上に、先ほどの唇の感触。
「……………………」
「あ、あの……わ、私、ちょっと……森の動物たちの様子、見てくる……!」
マリアは、これ以上カインの顔を見ていられず、意味不明な言い訳を残して書庫から、工房から、飛び出してしまった。
ドン、と扉を閉め、冷たい雪が積もる森の中を、マリアはしばらく夢中で歩いた。
ようやく足を止め、工房の明かりが見えない距離まで来て、彼女は背中を木に預けてずるずると座り込んだ。
(……どうしよう……)
顔から、火が出そうだ。
マリアは、まだジンジンする自分の唇に、そっと手袋越しに触れた。
(は、はじめてだった……のに……!)
事故だった。分かっている。
けれど、思い出すだけで心臓が飛び跳ね、恥ずかしさで雪の中に埋まってしまいたくなる。
森に棲むリスが、そんなマリアの様子を気にして、木の枝から顔を覗かせている。
マリアは、そのリスに向かって、力なく呟いた。
「……カインさん、怒って、たかな……」
* * *
一方、書庫に残されたカインもまた、その場に呆然と立ち尽くしていた。
床に散らばった本。傾いた踏み台。
そして、マリアが飛び出していった扉。
彼は、自分の唇に、そっと指先で触れた。
(……やわらかかった……)
はっとして、カインは自分の思考を打ち消すように、激しく頭を振った。
(俺は何を考えている……!彼女は命の恩人だぞ!)
鋼の自制心が、そう叱咤する。
だが、脳裏には、至近距離で見た、驚きと恥じらいに染まったマリアの顔が焼き付いて離れなかった。
「……不覚、だ……」
普段は決して変わることのない彼の顔が、珍しく、耳まで赤く染まっていることに、彼自身はまだ気づいていなかった。
マリアを命の恩人として、あるいは守るべき対象として接する、騎士道精神や理性とは明らかに異なる、一人の男としての熱。
それが好意であると、カインが自覚するのは、時間の問題だった。




