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あなたの孤独をほどくまで  作者: らぴな
第3章 王都動乱

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第48話 英雄と聖女の夜明け

 柔らかな日差しが、瞼をくすぐる。


 カインはゆっくりと目を開けた。


 視界に映ったのは、見慣れた工房の煤けた天井でも、隠れ家の湿った石壁でもない。


 高く、洗練された装飾が施された白亜の天井。

 そして、清潔なリネンの香り。


「……ここは、王城か」


 カインは半身を起こそうとして、右手に温かい重みがあることに気づいた。


 ふと視線を落とす。


 ベッドの脇には椅子が置かれているが、そこには座らず、床から直接ベッドに突っ伏して眠る少女――マリアの姿があった。


 彼女はカインの右手を両手で包み込むように握りしめ、頬を寄せて眠っている。


「……」


 カインの脳裏に、遠い記憶が重なった。


 かつて雪山で起きた、あの赤き月の惨劇。

 あの時は自分がマリアの手を握りしめていた。


 立場が逆転したその光景に、カインは胸の奥が温かくなるのを感じた。

 彼女は、ずっとこうして傍にいてくれたのか。


 カインは空いている左手を動かし、自身の胸に触れた。


 ドクン、ドクンと、力強い鼓動が伝わってくる。

 以前のような、いつ破裂するか分からない異物としての暴れる鼓動ではない。


 だが、完全に人間のそれとも違う。

 もっと深く、野性的で、底知れぬ力が、血液と共に全身を巡っている感覚。


 ふと、サイドテーブルの鏡に映った自分の顔を見て、カインは息を呑んだ。


 黄金色だったはずの瞳。その右目だけが、あの赤月を思わせるような、血の色に変貌していたのだ。


「……目が覚めたかい、英雄殿」


 部屋の扉が開き、ルーカスが入ってきた。


 彼もまた包帯だらけの痛々しい姿だが、その足取りはしっかりとしており、手には水差しを持っている。


「ルキ……。俺は、どれくらい眠っていた?」


「丸三日だ。魔力の枯渇と、肉体の再構築……。これだけで済んだのが奇跡だよ」


 ルーカスは水差しを置くと、眠るマリアを起こさないように静かに椅子を引き、ベッドの横に座った。


「ここは、王城の一室だろう。……俺のような反逆者が、こんな場所にいていいのか?」


 カインが周囲を見回しながら問うと、ルーカスは肩をすくめた。


「反逆者?冗談を言うな。君は今や、国を救った英雄だよ」


「英雄……?」


「ああ。ヴァルロアが倒れた瞬間、陛下を蝕んでいた病……いや、奴の呪いも霧散したんだ。意識を取り戻された陛下が、開口一番に仰ったよ。『我が騎士団長を、丁重に介抱せよ』とね」


「陛下が……」


「君の潔白は証明された。もう、追われる心配はないさ」


 ルーカスは、安堵するカインの顔を認めると、今度は真剣な眼差しで彼を見据えた。

 そのエメラルドブルーの瞳が、探究心と、それ以上の困惑を湛えている。


「……カイン。君は、自分の体の変化に、気づいているね?」


「ああ。瞳の色が変わった。それに……体の中にある力の質が変わっている、ような気がする」


 カインは握りしめた拳を見つめた。


 以前は、抑え込まなければ溢れ出し、理性を食いつぶそうとしていた衝動。

 だが今は、その衝動が手足のように馴染んでいる。

 いつでも引き出せるし、いつでも抑えられる……そんな感覚だった。


「あの時……ヴァルロアの最期の呪いが、君の体内で理の楔と衝突し、砕け散った」


 ルーカスが説明を始める。


「本来なら、その衝撃で君の魂ごと崩壊していてもおかしくなかった。だが、マリアが介入した。……彼女の力が、砕けた楔の欠片と、呪いの残滓を、君の魂そのものに縫い付けてしまったんだ」


「縫い付けた?」


「ああ。以前の君は、人の魂に獣の呪いが寄生している状態だった。だから拒絶反応で暴走した。……だが今は違う。君は、人と獣が完全に混ざり合い、溶け合った、新しい器へと作り変えられたんだ」


 ルーカスは、呆れたように、しかしどこか感嘆した様子で肩をすくめた。


「もはや呪いではない。それは君の半身だ。……これからは、君自身の意志で、その力を自在に操れるだろうね」


 カインは呆然とした。


 呪いが解けたわけではない。

 だが、呪いに縛られることもない。


 共に生きていく力へと変わったのだ。


「……そうか。俺は、化け物のままか」


「化け物じみているのは、君だけじゃないよ」


 ルーカスが顎をしゃくる。

 その先には、カインの手を握って眠るマリアがいた。


「彼女の手をよく見てみなよ」


 言われて、カインはハッとした。


 マリアは、手袋をしていない。

 白く華奢な素手が、カインの肌に直接触れていた。


 普段の彼女なら、必要がない限りは素肌をさらすことを忌避するはずだ。


「……まさか、マリアも?」


「信じられないことだがね。……彼女の力の質もまた、変質している」


 ルーカスはマリアの寝顔を、複雑な表情で見つめた。


「これまで彼女が触れたものを停滞させていたのは、彼女の深層意識にあった、世界への拒絶だ。傷つくことを恐れ、無意識に張り巡らせていた絶対的な防壁……それが、あの『停滞』という力の正体だった」


 ルーカスは言葉を選びながら続ける。


「だが、あの極限状態で、彼女は願った。君を救いたいと。君を失いたくないと。……その強烈な意志が、彼女の魂に刻まれていた防衛本能を焼き切ったんだ」


 ルーカスは、ため息交じりに笑った。


「まったく……。君たちは、あの土壇場で、互いに互いの魂を干渉し合い、あろうことか作り変えてしまったんだよ。……神の領域すら超える、デタラメな奇跡だ」


 カインは、マリアの温かい手を、そっと握り返した。


 彼女が、俺を受け入れてくれた。

 世界を拒絶していた少女が、俺を救うために、その殻を破ってくれた。


 その事実が、何よりも愛おしく、胸を締め付ける。


「……んぅ」


 手の感触に、マリアが目を覚ました。


 長い睫毛が震え、鉄錆色の瞳がゆっくりと開かれる。


 カインと目が合うと、彼女は数回瞬きをし、それから花が咲くように顔を輝かせた。


「カインさん……!目が、覚めたんですね!」


 マリアが起き上がり、カインに抱きつこうとして――ふと、自分の手が素手であることに気づき、慌てて引っ込めようとした。


「あ、ごめんなさい!えっと、よくわからないんですけど、私。手袋がなくても……」


「いいんだ、マリア」


 カインは、引かれそうになったその手を逃さず、力強く引き寄せた。

 そして、そのまま彼女の体を抱きしめる。


「カイン、さん……?」


「もう、恐れなくていい。……君の手は、温かいままだ」


 カインの腕の中、マリアはおそるおそる、カインの背中に手を回した。


 鼓動が聞こえる。体温が伝わる。彼が生きている。


「……はい、温かいです……」


 マリアの目から、大粒の涙が溢れた。


 それは悲しみの涙ではない。

 呪いという鎖ではなく、互いの意志で触れ合える喜びの涙だった。


 ルーカスは、椅子に座ったまま、その光景を静かに見つめていた。


 そして、二人の世界が完成したのを悟ると、音を立てないよう慎重に腰を浮かせ、立ち上がった。


 衣擦れの音すらさせない、洗練された所作。

 彼は少し距離を取った壁際に下がり、抱き合う二人を静かに見守った。


 その瞳には、友の無事を喜ぶ温かな光と、そして――自分でも説明のつかない、チクリとした胸の痛みが宿っていた。


(……やれやれ。入り込む隙間もないな)


 ルーカスは、自嘲気味に口元を歪めた。


 目の前の光景は美しい。

 計算し尽くされた術式のように完璧な、二人の絆。


 それを守れたことを誇りに思う反面、その輪の中に自分がいないという事実に、えも言われぬ渇きを覚える。


 その渇きに耐えるように、ルーカスは無意識に自分の手を握りしめていた。


(……退散するとしようか)


 彼は音もなく踵を返し、静かに扉を開けた。


 これ以上、この甘く幸福な空気の中にいるのは、毒だ。

 彼は誰にも気づかれないよう、そっと部屋を出て扉を閉じた。


 廊下に出た途端、ルーカスは大きな溜息をつき、壁に背を預けた。

 ズキズキと疼く傷の痛みを誤魔化すように、彼は独りごちる。


「……これからは、片時も目が離せそうにないな」


 その言葉には、世界の危機に対する懸念と、それ以上に粘着質な執着が滲んでいた。


 あの不安定で、危うくて、愛おしい存在を、誰にも渡さず、自分の一番近くで監視まもらなくてはならない。


 それが、湧き上がる独占欲を正当化するための、天才が見つけた唯一の論理だった。


 ルーカスは廊下の窓から、眼下に広がる王都を見下ろした。


 悪夢から覚めた人々が、復興へと動き出している。


 新たな時代の幕開け。

 そして、英雄と聖女、そして一人の天才魔術師が織りなす、新しい物語の始まりだった。

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