第47話 最期の呪い
――キィィィン……。
世界から音が消え、ヴァルロアの巨大な動きがピタリと止まった。
マリアの手が触れた部分から、灰色の浸食が爆発的に広がっていく。
それは石化ではない。
生き物の体内を巡る魔力そのものが凍りつき、物質としての存在を維持する力すらも停止させられ、世界から在ること自体を拒絶されていく現象。
「……な、に……?」
ヴァルロアの喉から、信じられないという響きが漏れた。
動かない。指一本、魔力の一片すらも、言うことを聞かない。
絶対的な力を持ったはずの魔獣の肉体が、足元から順に、サラサラと乾いた砂のように崩れ落ちていく。
「終わりだね」
瓦礫の陰で、ルーカスが荒い息を吐きながら杖を下ろした。
その瞳は、崩れゆく巨体と、その懐にいる少女を冷静に観察していた。
「対象の魔力循環を強制停止させ、構成要素を分解する。……あれが、彼女の力の極致か」
それは、魔法使いからすれば悪夢のような力だ。
どんな防御も再生能力も意味をなさない。
触れられれば終わる、即死の権能。
ルーカスは、勝利を確信しつつも、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
カインもまた、呆然とその光景を見つめていた。
マリアが勝った。
あの巨大な悪意が、小さな少女の手によって浄化されていく。
だが、カインの胸騒ぎは消えなかった。
ヴァルロアの瞳――まだ停止していない頭部の瞳に宿る光が、消えるどころか、より一層昏く、粘着質な憎悪に燃え上がったのを見たからだ。
「……おのれ、おのれぇぇ……!」
ヴァルロアの絶叫が響く。
体が崩れていく。死が迫る。
だが、このまま終わってたまるか。
私は選ばれた存在だ。混沌の王となるべき男だ。
――それが、こんな小娘一人に、何もかも奪われてなるものか。
(だが、あの娘は殺せん。私の力は、触れる端から無効化される)
ならば。この絶望を、誰に刻み込んでやるべきか。
一番、あの娘が苦しむ方法は何か。
ヴァルロアの視線が、足元のマリアから、少し離れた場所にいるカインへと移った。
「……ククク」
ヴァルロアの口元が、三日月のように裂けた。
「マリア、離れろッ!!」
カインが叫ぶ。
だが、遅かった。
ヴァルロアの崩れかけた胸の奥、まだ停滞していない混沌の核が、ドクンと最後の脈動を打った。
「タダでは死なん……!貴様らに、永遠の枷をくれてやる!!」
ヴァルロアの口が大きく開かれた。
狙いはマリアではない。
その遥か後方――カインだ。
「――ッ!?」
ルーカスが気づき、杖を掲げる。
だが、魔力は底をつきかけている。障壁の展開が間に合わない。
ヒュンッ!!
ヴァルロアの口から、漆黒の槍のようなものが射出された。
それは物理的な攻撃ではない。
彼が体内に溜め込んでいた、濃縮された呪いそのもの。
純粋な悪意の結晶。
「っ――」
マリアは反応できなかった。
彼女はヴァルロアの懐にいて、攻撃の射線から外れていたため、背後で何が起きているか気づくのが遅れたのだ。
彼女が振り返った時には、黒い閃光はすでに彼女の真上をすり抜け、カインへと迫っていた。
「カイン!!」
ルーカスの叫び。
カインは避けることができたかもしれない。
だが、彼の背後には、逃げ遅れた市民たちがいた。
避ければ、彼らに当たる。
カインは迷わず、剣を捨てて両手を広げた。
「ぐ、ぅ……ッ!!」
ドスッ、という鈍く重い音が響いた。
黒い呪いの槍が、カインの胸――心臓の少し上を、深々と貫いていた。
「カインさんッ!!」
マリアの悲鳴が広場に木霊する。
カインは衝撃で吹き飛ばされ、石畳の上を転がった。
胸に突き刺さった黒い槍は、カインの体に触れた瞬間に液体のように溶け出し、彼の体内へと侵入していく。
ドス黒い紋様が、傷口を中心に全身へと這い広がった。
パキィィィン……!
カインの胸の奥で、硬質な音が響いた。
それは、彼が聖域で手に入れ、体内に取り込んでいた古代遺物――理の楔が、許容量を超えた呪いの負荷に耐えきれず、砕け散った音だった。
「カイン!しっかりしろ!」
ルーカスが駆け寄り、抱き起こす。
カインは苦悶に顔を歪め、血を吐いた。
その瞳の色が、黄金色から、一瞬だけ禍々しい赤色へと明滅する。
「フハハハハハ!見たか!それが私の最後の呪いだ!」
首だけになったヴァルロアが、狂ったように高笑いする。
「その呪いは消えんぞ!貴様の楔は砕けた!貴様の魂は、永遠に獣へと堕ち続けるのだ!死ぬまで……いや、死んでもなお、化け物として生きるがいい!」
「……あ……」
マリアは、ただ呆然と、高笑いする生首を見つめることしかできなかった。
怒りよりも、悲しみよりも、目の前で起きている惨劇への絶望が、声を奪っていた。
だが、ヴァルロアの狂宴はそこまでだった。
マリアが先ほど触れた部分から広がっていた停滞の侵食が、ついに彼の頭部にまで到達したのだ。
「フハハ……、ハ……、…」
笑い声が、唐突に掠れた。
ヴァルロアの表情が、歓喜のまま凍りつく。
鱗が灰色へと変わり、ひび割れ、そして――。
サラサラ……。
乾いた音がして、ヴァルロアの頭部が砂のように崩れ落ちた。
巨大な魔獣の残骸は、一陣の風にさらわれ、霧散していく。跡形もなく。
王都を恐怖に陥れた元凶は、マリアが手を下すまでもなく、自らの破滅に飲み込まれて消滅した。
だが。広場には、勝利の歓声はなかった。
「う、ぐぁ……アアアアアッ!!」
カインの絶叫が、静寂を引き裂いた。
彼の体から、どす黒い瘴気が噴き出し、その肉体が痙攣を始める。
ヴァルロアは死んだ。
だが、彼が遺した最悪の置き土産は、今まさにカインを蝕み、新たな絶望を生み出そうとしていた。
「カイン、さん……?」
マリアが駆け寄ろうとする。
だが、カインの体から放たれる衝撃波が、彼女を弾き飛ばした。
バキボキ、と骨がきしむ音が響く。
人の形が保てない。
カインの体が膨張し、銀色の毛並みが黒く染まっていく。
それは、あの赤き月の夜に見た姿。
理性を失い、破壊の衝動のみで動く、禍々しい黒狼への変貌だった。
「グルルルル……ッ!」
喉の奥から、獣の唸り声が漏れる。
カインの意識は、急速に塗りつぶされていく。
ダメだ。飲み込まれる。
俺は、また、マリアを傷つけてしまうのか。
「くそっ……!これが赤月の……!!」
ルーカスが悲鳴じみた声を上げ、杖を構える。
魔力はもう、底をついている。
立っているのもやっとの状態だ。
だが、ここでカインが暴走すれば、広場の市民も、そしてマリアも皆殺しにされる。
「マリア!カインに触れるんだ!君の力なら、止められる!」
「は、はい!」
マリアが立ち上がり、黒く染まりつつあるカインへと近寄り、手を伸ばす。
だが。
「ガァァァッ!!」
黒狼になりかけたカインが暴れ、強烈な魔力の嵐を巻き起こす。
その風圧だけで、マリアの体は木の葉のように吹き飛ばされそうになる。
近づけない。拒絶のオーラが、彼女の手を阻む。
「カインさん!私です、マリアです!」
マリアが必死に叫ぶが、獣の咆哮にかき消される。
カインの瞳から、黄金色の理性が消えかけ、赤い狂気が支配しようとしていた。
「……させるかッ!」
ルーカスが、杖を投げ捨てた。
彼は両手を広げ、カインの正面に立ちはだかる。
「大馬鹿者!マリアがわからないのかッ…!!」
ルーカスは、自身の生命力そのものを魔力に変換し、最後の術式を編み上げた。
全身から血が噴き出すような負荷。
それでも彼は、不敵に笑った。
「――氷鎖!!」
ルーカスが、広げた手を地面にかざすと、その地面から巨大な氷の鎖が出現し、暴れるカインの四肢を絡め取った。
ミシミシと氷が砕ける音がする。
カインの膂力は凄まじく、鎖は今にも引きちぎられそうだ。
「く、ぅぅぅ……ッ!今だ、マリアッ!!」
ルーカスが、血を吐きながら叫ぶ。
彼が命を削って作った、わずか数秒の隙。
「カインさん!」
マリアは突風の中を駆けた。
恐れはない。ただ、愛しい人を救いたい一心で。
暴れる黒い巨体の懐へ飛び込み、その胸に手を伸ばす。
「戻ってきて……!」
マリアの素手が、黒い毛並みの奥、カインの心臓がある場所に触れた。
カッ……。
温かな光が溢れ出す。
マリアの停滞の力が、暴走する呪いの魔力循環を強制的に堰き止め、鎮めていく。黒い色が抜け、銀色が戻る。
膨張していた肉体が縮み、人の形へと収束していく。
「……ガ、ァ……」
獣の咆哮が、苦しげな人間の吐息へと変わった。
光が収まると、そこには倒れ込んだカインと、彼を抱きしめるマリアの姿があった。
「カインさん……よかった……」
カインは意識を失っているが、その寝顔は穏やかで、獣の気配は消え失せていた。
「……はは。……まったく、世話の焼ける……」
それを見届けたルーカスは、糸が切れたようにその場へ崩れ落ちた。
広場に、本当の静寂が戻る。
長い、長い戦いが、ようやく終わりを告げたのだった。




