第46話 静寂の介入
「マリア……ッ!?」
カインの絶叫が、爆音と土煙にかき消されそうになる。
瓦礫の陰から飛び出し、二人の前に立ちはだかったのは、あまりにも小さく、華奢な背中だった。
足はもつれ、顔は涙と煤で汚れ、全身が恐怖でガタガタと震えている。
それでも彼女は、逃げるどころか、死地へと身を投げ出したのだ。
「馬鹿な……!何をしている、逃げろマリア!!」
カインが血を吐くような思いで叫ぶ。
体は動かない。指一本動かす力も残っていない。
目の前には、山のように巨大な魔獣。
その八つの首が鎌首をもたげ、口元には世界を終わらせるほどの質量を持った死が、渦巻いている。
「虫ケラが増えたか」
頭上から、嘲笑うような声が降ってくる。
八つの首を持つ魔獣ヴァルロアが、眼下の少女を見下ろしていた。
その瞳にあるのは、獲物を屠る、残虐な光だけ。
「まとめて消えろ!」
ヴァルロアの八つの顎が、一斉に開かれた。
それぞれの口に溜め込まれていた紫色の閃光が、中心の一点に収束し、太陽をも飲み込むほどの巨大な、混沌の球体となって放たれた。
直撃すれば、骨も残らない。
広場どころか、国ごと消滅させる、回避不能の高密度な魔力。
それが、音を置き去りにする速度でマリアへと迫る。
「あ……」
マリアは、迫りくる死の影を見上げた。
怖い。足がすくんで動かない。呼吸が止まる。
本能が『逃げろ』と叫んでいる。
――けれど、どこへ?
目の前で渦巻く巨大な力の塊は、全てを消し飛ばすほどの質量だ。
私がここで逃げようと、その場に留まろうと、結果は変わらない。
私たち全員、跡形もなく消えてなくなる。
(それなら、どうして……私は、前に出たの?)
策なんてなかった。勝算なんてあるはずがない。
ただ、ボロボロになったカインとルーカスが、これ以上傷つくのを見たくなかった。
大好きな人たちが失われる瞬間を、指をくわえて見ていたくなかった。
それだけの想いで、体が勝手に動いてしまったのだ。
後のことなんて、何も考えていない。
どうすれば助かるのかなんて、分からない。
ただ、嫌だ。
この結末だけは、認めたくない。
「……やめて」
マリアは、恐怖でギュッと目を閉じた。
そして、反射的に両手を前に突き出した。
「来ないでぇぇぇッ!!」
悲鳴にも似た絶叫。
それは、ただひたすらに拒絶を願う、魂の叫びだった。
私に触れるな。私の大切な人たちを傷つけるな。
この場所から、その悪意を消し去りたい。
ゴオオオォォッ!!
すべてを飲み込む紫色の奔流が、マリアの華奢な体を呑み込んだ――はずだった。
――。
いつまで経っても、衝撃は来なかった。
痛みも、死も訪れない。
代わりに聞こえてきたのは、シュウゥゥ……という、熱した鉄を水に入れたような、何かが急速に冷えて消えていく音だけ。
マリアがおそるおそる目を開ける。
そこで彼女が見たのは、信じられない光景だった。
眼前の空中で、巨大な混沌の球体が止まっていた。
いや、止まっているのではない。
マリアが突き出した両手、その手袋は焼き切れていたが、露出した肌の先に触れた部分から、強大な魔力塊が音もなく無へと還っていたのだ。
「な、なんだ……?」
ヴァルロアの驚愕の声が響く。
彼は信じられないものを見る目で、自身の放った必殺の一撃が、少女の掌一つで吸い込まれるように消滅した光景を凝視していた。
「私の力が……消えた……?」
ヴァルロアは呆然と呟いた。
魔法による防御でも、相殺でもない。
これは、もっと根源的な――理の否定だ。
「……ぐっ」
ヴァルロアが、後ずさった。
本能的な恐怖。
絶対的な強者であるはずの自分が、あんなちっぽけな小娘一人に、底知れぬ脅威を感じている。
「貴様……貴様は、何だぁぁぁッ!?」
ヴァルロアが咆哮する。
残った魔力を振り絞り、触手のような前足や、牙による物理攻撃を繰り出そうと身構えた。
だが、その本能は『触れてはならない』と警鐘を鳴らし、動きが鈍る。
「マリア、逃げろ!」
カインが叫ぶ。
だが、マリアは動かなかった。
彼女は自分の震える両手を見つめていた。
(止められた……。でも、これは守る力じゃない)
目の前で霧散した混沌の球体。
それは、彼女が願った通りに無かったことになった。
彼女の力は、対象の魔力循環を止め、存在を改変し、無へと帰す力。
あの巨大な怪物を止めるには、この手で触れて、その命を強制的に奪うしかない。
(この手が汚れてもいい。人殺しになってもいい。……あなたが生きていてくれるなら)
マリアは涙を拭い、振り返った。
そこには、必死の形相で彼女を見つめるカインがいる。
彼は首を振っている。
そんなことをする必要はない、と。
マリアは、震える唇で、精一杯の笑顔を作った。
「……ごめんなさい、カインさん。私、行きます」
マリアは前を向いた。
その瞳に宿るのは、怯えではない。悲壮なまでの覚悟。
彼女は地面を蹴った。
怪物へ向かって、たった一人で走り出す。
「小娘ぇぇぇ!近寄るな!近寄るなぁぁぁッ!!」
ヴァルロアが、初めて恐怖を叫んだ。
巨大な魔獣が、小さな少女に怯えて後退する。
吐き出される毒霧も、混沌の光線も、マリアが手をかざすだけで砂となり、光となって消え失せる。
誰も、彼女を止められない。
マリアは嵐のような攻撃をかいくぐり、ついにヴァルロアの傍まで近寄った。
「……ごめんなさい」
謝罪と共に、彼女の手が、魔獣に触れる。
キィィィン……。
世界から音が消えた。
ヴァルロアの巨大な肉体が、足元から頭頂部まで、ピタリと止まる。
魔獣の中の暴れ狂う強大な混沌の魔力が、マリアが触れた一点から急速に停滞していく。
それはあたりの空気までを凍てつかせるような、静寂だった。




