第45話 絶望の淵
「グルルルルル……ッ!!」
王都の中央広場に、地獄の底から響くような咆哮が轟いた。
宰相ヴァルロアの成れの果て――八つの首を持つ巨大な蛇の魔獣が、その鎌首をもたげ、眼下の広場を睥睨している。
変貌の瞬間に放たれた衝撃波は、広場にいた全ての者を無慈悲に吹き飛ばしていた。
「……ぐ、ぅ……」
土煙が晴れた広場は、死屍累々の様相を呈していた。
ヴァルロアの私兵たちも、カインと共に戦っていた義勇軍の騎士たちも、敵味方の区別なく吹き飛ばされ、石畳の上や瓦礫の山に打ち付けられて動かない。
皆、気絶しているか、あるいは――。
「バルト……ッ!」
カインが悲痛な声を上げて駆け寄る。
瓦礫の陰に、岩のような巨躯が倒れていた。副団長バルトだ。
彼は仲間を庇うように両手を広げたまま、頭から血を流して意識を失っている。
その頑強な肉体をもってしても、直撃した衝撃には耐えきれなかったのだ。
さらに奥を見れば、逃げ遅れた市民たちが折り重なるように倒れているのが見える。
「くそっ……! なんてことを……!」
カインはギリリと奥歯を噛み締め、剣を握り直した。
自分とルーカスが立っていられるのは、奇跡ではない。
「……はぁ、はぁ。……間に合ったか」
隣で、ルーカスが荒い息を吐きながら杖を下ろした。
彼に展開されていたドーム状の光の障壁が、パリンと音を立てて砕け散る。
衝撃波が到達する寸前、ルーカスがとっさに白銀の杖を掲げ、広範囲防御魔法を展開して衝撃を和らげたのだ。
だが、その代償は大きかった。
ルーカスの顔色は雪のように白く、杖を持つ手は微かに震えている。
一撃を防ぐだけで、魔力の底が見えるほど、消費させられたのだ。
「……呆れた質量だ。あれを削り切るには、剣が何本あっても足りないかもしれん」
カインが魔獣を見上げ、低く呟く。
その声に絶望の色はない。
あるのは、あまりに巨大すぎる障害を前にした、騎士としての冷静な分析と、それでもやるしかないという覚悟だけだった。
その巨体から放たれる瘴気だけで、広場の空気が腐食していくようだ。
周りには動ける者はいない。
残されたのは、満身創痍の二人だけ。
「ふん……」
隣で、ルーカスが口の端を吊り上げ、強がるように笑ってみせた。
「ポジティブに考えたまえよ、カイン。あんなに無駄にでかい図体だ。……いい的じゃないか」
ルーカスの軽口に、カインは口元を緩めたが、すぐにその視線は足元――瓦礫の下で動かないバルトや、倒れ伏す市民たちへと彷徨った。
「……だが、皆が」
「気にするな。彼らは気絶しているだけだ」
ルーカスが鋭く、けれど力強く告げる。
彼は震える手で杖を握り直し、石突をカツンと石畳に打ち付けた。
その瞳には、絶望ではなく、燃えるような闘志と、研究者としての意地が宿っていた。
「僕らが勝てば、助かる。……今は前だけを見ろ」
「……ああ、そうだな。ルキ」
カインが迷いを捨てて剣を構えるのを見て、ルーカスはニヤリと笑った。
「行くぞ。今の僕の全魔力を、一滴残らず使ってやる。……この一撃で足場を作る。君は奴の核を狙え!」
とうに限界を迎えているその体は悲鳴を上げ、口の端からは鮮血が流れる。
だが彼は諦めない。
ルーカスは杖を振り上げると、枯渇寸前の魔力を無理やり絞り出し、最大級の術式を編み上げる。
「――蒼氷界!」
その詠唱と共に、広場の景色が一変した。
杖から放たれた冷気が爆発的に広がり、地面を、瓦礫を、そしてヴァルロアの足元を瞬く間に凍てつかせていく。
さらに、空中に無数の氷の柱が出現し、巨大な魔獣の周囲を取り囲む階段状の足場を形成した。
「駆け上がれッ!!」
ルーカスの叫びに呼応し、カインが地を蹴った。
銀色の残像となり、氷の柱を駆け上がる。
「小賢しいわ、虫ケラどもが!」
ヴァルロアの八つの首が一斉に動き、カインを狙って喰らいつく。
だが、カインは空中で身をひるがえし、氷の足場を蹴って加速した。
「遅いッ!」
白銀の剣閃が走る。
ザンッ!!
最も太い首の一つが、半ばから切断され、ドロリとした黒い体液を撒き散らしながら宙を舞った。
「やったか!?」
カインが着地し、振り返る。
だが、その期待は無惨にも裏切られた。
ボコ、ボコボコ……。
切断された首の断面から、黒い肉が泡立つように膨れ上がり、瞬きする間に新たな首が再生したのだ。
それどころか、一本だった首が二本に分かれ、さらに凶悪さを増している。
「「無駄だと言っただろう。混沌は無限、私は不滅だ!」」
増殖した首たちが、嘲笑うように揺れる。
絶望的な再生能力。斬れば斬るほど、敵は増え、強くなる。
「くそっ、キリがない……!」
「カイン、避けろ!」
ルーカスの悲鳴に近い警告。
ヴァルロアの全ての首が大きく口を開け、紫色の閃光を収束させていた。
「消え失せろ!」
ドォォォォォンッ!!
八方向から放たれた極太の熱線が、広場を焼き尽くす。
カインは回避が間に合わず、衝撃波で吹き飛ばされた。
「ぐあ、ッ……!」
「カイン!」
ルーカスが杖を掲げ、氷の障壁を展開するが、熱線の威力は桁違いだった。
幾重にも重ねた氷壁が、飴細工のように溶解し、砕け散る。
余波だけでルーカスの体は木の葉のように舞い、瓦礫の山へと叩きつけられた。
「が、はッ……!」
ルーカスが血を吐き、地面に伏す。
杖を持つ手が震え、指先の感覚がない。
魔力は底をつきかけ、視界が霞む。
あれだけの大魔術を使っても、傷一つつかない怪物。
これが、人の身を捨てた代償だというのか。
「ルキ……立てるか……」
瓦礫を退け、カインがふらふらと立ち上がる。
鎧は砕け、全身から血を流しているが、それでも彼は剣を離していない。
カインはルーカスの前に立ち、震える足で踏ん張った。
「まだだ……。まだ、終わらせ、ない……!」
「よせ、カイ、ン……。今の君じゃ、盾にも、なら、な……」
ルーカスが止めようとするが、声がまともに出ない。
二人の頭上に、巨大な影が落ちる。
ヴァルロアが、その巨体で二人を見下ろしていた。
「終わりだ、騎士崩れと魔術師風情が。……貴様らの絶望こそが、私の糧となる」
八つの首が、鎌首をもたげる。
その口には、先ほどよりもさらに巨大な、圧縮された混沌の球体が渦巻いていた。
直撃すれば、骨も残らない。
――完全なる死の宣告。
「逃げろ、ルキ……」
カインが、背後の友に告げる。
だが、逃げる場所などどこにもないことは、二人とも分かっていた。
カインは剣を構えることすらできず、ただルーカスを庇うように両手を広げた。
――すまない、マリア。約束は、守れそうにない。
カインが覚悟を決めて瞳を閉じた、その瞬間。
「やめてぇぇぇッ!!」
戦場に響いたのは、凛とした聖女の声ではなく、喉が裂けんばかりの悲痛な叫びだった。
「――!?」
カインが弾かれたように目を開ける。
瓦礫の陰から、小さな影が飛び出してくるのが見えた。
足はもつれ、顔は涙と煤で汚れ、全身が恐怖でガタガタと震えている。
それでも、彼女は迷うことなく、死地へ向かって駆けてくる。
「マリア……ッ!?」
カインの絶叫が、爆音にかき消されそうになる。
マリアが、二人の前に立ちはだかった。




