第41話 悪意の布告、銀の誓い
――翌朝。
鉛色の空の下、王都アルジェンティアの至る所に、一枚の高札が掲げられた。
『告ぐ。王都の安寧を脅かす元凶、魔獣カインの毒気に当てられ、正気を失いし反逆の騎士たちを捕縛した。彼らは魂を汚染され、もはや人としての理性を保てぬ状態にある。よって、慈悲深き宰相ヴァルロア公爵の命により、明日正午、中央広場にて彼らの魂を救済するための、浄化の儀を執り行うものとする』
それは、事実上の公開処刑の宣告だった。
広場に集まった市民たちは、不安と恐怖に顔を歪めながら、その布告を見上げている。誰かが、『魔獣カイン』の名を呪い、誰かが、捕らえられた騎士たちを哀れんだ。
ヴァルロアの撒いた毒は、確実に王都の人々の心を蝕んでいた。
* * *
貧民街の地下、同志たちの隠れ家。
持ち帰られた布告文を前に、重苦しい沈黙が流れていた。
「……ふざけるなッ!」
バンッ!と机が叩かれる音が響く。
バルトが、怒りに震える拳を叩きつけたのだ。
「浄化だと……?ふざけるな!捕らえられたのは、ヴァルロアの暴政に異を唱えただけの、誇りある騎士たちだ!それを、魔獣の手先などと……!」
バルトの目には涙が滲んでいた。
処刑リストの中には、彼が手塩にかけて育てた部下や、カインを慕っていた若手騎士たちの名前が連なっていたのだ。
彼らは皆、カインの潔白を信じ、最後まで抵抗した者たちだった。
「落ち着け、副団長殿。机が壊れる」
ルーカスが冷静な声で諌めるが、その瞳の奥には氷のような怒りが宿っている。
「これは、明白な罠だ。義勇軍をおびき寄せるためのね。……自分たちが捕らえた人質を見せしめにし、救いたければノコノコ出てこいという、三文芝居さ」
「分かっています!ですが、見殺しにはできません!」
「――ああ、その通りだ」
それまで沈黙を守っていたカインが、静かに口を開いた。
彼は、愛剣の刃を丁寧に布で拭いながら、揺るぎない視線を二人に向けた。
「罠だろうが、構わん。……俺を信じてくれた部下たちを見捨てるくらいなら、俺は騎士など辞める」
その言葉に、迷いはなかった。
カインは剣を鞘に納めると、立ち上がった。
「明日の正午。処刑が執行される瞬間に、広場へ突入する。……敵は待ち構えているだろうが、正面からねじ伏せる」
「待ちなよ、カイン。……無策な突撃は、君の悪い癖だ」
ルーカスが不敵な笑みを浮かべて、カインを制した。
その瞳は、盤面をひっくり返す策を見出した策士の色を帯びていた。
「いいかい。この状況は、ピンチであると同時に、千載一遇の好機でもあるんだ」
「好機だと?」
「ああ。ヴァルロアにとっての誤算が、一つだけある」
ルーカスは『魔獣カイン』と書かれた文字を指差した。
「ヴァルロアは未だに、君を『理性を失った魔獣』だと思い込んでいる」
その指摘に、カインとバルトが顔を見合わせる。
「だが……あの赤いローブの魔術師たちは、俺が人間に戻った姿を見ているはずだ」
「そう。そこがポイントだ。あの闇の組織は、真実を知っている。だが、依頼主であるヴァルロアには、おそらくその情報が伝わっていない」
ルーカスは嘲笑うように鼻を鳴らした。
「つまり、組織にとってヴァルロア公爵は、対等なパートナーですらない。金と場所を提供するだけの、都合の良い貴族に過ぎないということさ。……組織は、あえて情報を伏せたんだよ」
「なぜだ?」
「君が人間に戻れると知れば、ヴァルロアは魔獣討伐という大義名分を失い、計画を変更するかもしれないからね。……奴らは、君をまだ実験材料として泳がせておきたいのさ」
ルーカスの分析に、場の空気が変わる。
敵は一枚岩ではない。そこに付け入る隙がある。
「奴の認識では、カインは理性を失った魔獣となり、今頃どこかの山奥を彷徨っているか、あるいは最悪、野垂れ死んでいるとでも思っているはずだ。……まさか、呪いを克服し、正気を取り戻した『聖銀騎士団長』が、王都の足元まで帰還しているなどとは、夢にも思っていない」
ルーカスは地図上の広場を指でなぞった。
「奴が用意しているのは、あくまで義勇軍を殲滅するための包囲網だ。……そこに、想定外の英雄が飛び込んだら、どうなると思う?」
「……敵は混乱し、指揮系統が麻痺する」
「その通り。奴らの脚本にはない役者が、舞台の主役を奪うんだ」
ルーカスの瞳が、楽しげに、そして冷徹に輝く。
「正面からぶつかるんじゃない。敵が勝利を確信し、一番油断しているその瞬間に、君が姿を現す。……魔獣としてではなく、高潔なる騎士としてね」
それは、ヴァルロアが流した『魔獣カイン』という嘘を、白日の下で粉砕する最高の一手。
民衆の目の前で、真の騎士の姿を見せつけることこそが、最大の反撃となる。
「……なるほど。悪くない」
カインの口元にも、微かに笑みが浮かんだ。
ただの力押しではない。これは、王都の民を取り戻すための戦いだ。
「乗ったぞ、ルキ。その作戦で行こう」
カインの黄金色の瞳に宿る光が、周囲の同志たちの恐怖を、勇気へと変えていく。
反撃の狼煙は、敵の慢心と、情報の断絶が生んだ隙にこそ上げられる。
* * *
その夜。
出撃前夜の隠れ家は、嵐の前の静けさに包まれていた。
武器の手入れをする音と、静かな祈りの声だけが響く。
マリアは、部屋の隅で剣の手入れをしているカインの元へ歩み寄った。
カインは手を止め、マリアを見上げた。
「……眠れないのか?」
「はい。……カインさんも」
「ああ。少し、気が高ぶっているようだ」
カインは苦笑し、隣の椅子を勧めた。
マリアはそこに座り、カインの手にある剣を見つめた。
使い込まれた白銀の剣。
多くの魔獣を斬り、多くの民を守ってきた、彼の誇りそのもの。
「カインさん。……怖くは、ないですか?」
マリアが問いかけると、カインは少し考えてから、首を横に振った。
「怖いさ。……だが、それ以上に許せないんだ。俺の大切な故郷を、仲間たちを、あんな男の好き勝手にさせておくことが」
カインは剣の柄を握りしめた。
「俺は、取り戻したい。かつての、銀色に輝く美しい王都を。……そして、君に胸を張って案内できるような、平和な世界を」
その言葉に、マリアの胸が熱くなる。
彼はいつだって、自分のためではなく、誰かのために戦っている。
そんな彼だからこそ、マリアは惹かれたのだ。
「……私も、戦います」
マリアは、自分の両手を――手袋に覆われた手を、胸の前で握りしめた。
「私は、剣は持てません。戦場に出れば、足手まといになるだけです。……でも、ここで皆さんの帰りを待つことならできます」
マリアは、カインの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「傷ついた方がいれば、私が治します。心が折れそうになったら、私が支えます。……だから、カインさんは前だけを見ていてください」
それは、かつての『守られるだけの少女』の言葉ではなかった。
多くの人々の命を救い、彼らの希望となった『聖女』としての、力強い誓いだった。
「……ああ。頼もしいな」
カインは目を細め、マリアの手をそっと包み込んだ。
「君がいてくれるなら、俺は何度でも立ち上がれる。……必ず、生きて戻るよ」
「はい。……約束です」
カインは、マリアの手袋に覆われた手を、自身の両手で大切そうに包み込んだ。
そして、祈るようにその手を持ち上げ、自らの額にそっと押し当てる。
「――――」
言葉以上の想いが、手袋越しにじんわりと伝わってくる。
その熱は、震えるマリアの心を芯から温め、不安を溶かしていった。
明日、運命の戦いが始まる。
けれど、この温もりがある限り、決して負けはしないと信じられた。
* * *
翌日、正午。
中央広場は、異様な熱気に包まれていた。
処刑を見物しようとする市民、警備にあたる兵士たち、そして空を覆うどんよりとした雲。
広場の中央に設えられた処刑台には、ボロボロになった数名の騎士たちが、鎖に繋がれて跪かされている。
その背後には、覆面をした処刑人が、巨大な斧を持って立っていた。
壇上の最上段、天蓋付きの玉座には、ヴァルロア公爵が優雅に座り、眼下の群衆を見下ろしている。
その口元には、獲物がかかるのを待つ蜘蛛のような、冷酷な笑みが浮かんでいた。
「さあ、始めようか。……愚かな反逆者どもの、最後の舞台を」
正午の鐘が鳴り響く。
それが、王都動乱の幕開けを告げる合図だった。




