第40話 暗闇に咲く聖女
カインとルーカスがヴァルロアの別邸へ潜入している間。
貧民街の奥深くに佇む、古びた酒場。
その床下に広がる広大な地下空間は、重苦しい空気と、錆びた鉄のような血の臭いに包まれていた。
そこは今、仮設の野戦病院と化していた。
ヴァルロアの私兵との小競り合いや、街での理不尽な取締りから逃れてきた傷ついた人々が、所狭しと横たわっている。
マリアは部屋の隅で、膝を抱えて小さくなっていた。
飛び交ううめき声。膿と血の臭い。
それらが、幼い日の記憶――両親が冷たくなっていくあの日の記憶を呼び覚まし、彼女をすくませていたのだ。
(怖い……。私、何もできない……)
その時、酒場の床下へと続く階段の扉が、荒々しく叩かれた。
「開けてくれ!急患だ!」
担ぎ込まれてきたのは、一人の若い男だった。
全身が血まみれで、腹部には深々と刃物による裂傷が刻まれている。
顔色は土気色で、呼吸は浅く、今にも止まりそうだ。
「こいつは酷いな……」
留守を預かっていたバルトが駆け寄る。
運び込まれたのは、かつてカインやバルトの部下だった聖銀騎士団の若手騎士だった。
「副団長……すま、な……」
「喋るな!おい、水と布を!止血だ!」
バルトが叫ぶが、傷はあまりにも深すぎた。
内臓にまで達する傷。
ここにある貧弱な物資では、傷口を押さえることしかできない。
ここにルーカスがいれば、治癒魔法で助けられたかもしれない。
だが今、彼はいない。
「くそっ……。ここまで来て、死なせるわけには……!」
バルトが悔しげに拳を床に叩きつける。
周囲の者たちも、目を背け、沈痛な面持ちで俯くしかなかった。
助からない。誰もがそう悟った。
マリアは、震える手で自分の口元を覆っていた。
見ていることしかできない自分が、歯痒い。悔しい。
ふと、彼女の視線が、自分の左手に落ちた。
手袋に覆われた手。
この手は、触れたものの命を奪う呪われた手だ。
けれど――カインを救った手でもある。
(私なら……治せる、かも知れない)
頭の中に、一つの可能性が浮かぶ。
自分の力なら、あの深い傷も無かったことにできるかもしれない。
だが、同時に冷たい恐怖が心臓を鷲掴みにする。
(でも、もし失敗したら?間違って彼に触れて、殺してしまったら?)
手袋を外すイメージをするだけで、指先が震える。
――怖い。
両親から、体温が急速に失われていく感覚。
原始の聖域で、ルーカスが自分の首に触れたときの、あの感覚。
――温かい命が、一瞬で冷たい物体に変わるあの感触。
もし彼を殺してしまったら、私はもう二度と立ち直れない。
「……ぁ……」
マリアが躊躇っている間にも、騎士の呼吸は弱まっていく。
命の砂時計が、残りわずかだと告げている。
「死ぬな!ライオット、しっかりしろ!」
バルトの悲痛な叫び。
それは、カインがマリアを呼ぶ声と重なった。
――君の力は、希望だ。
カインはそう言ってくれた。
この呪われた手を、救済の力だと信じてくれた。
(カインさんが信じてくれた私を……私が信じなくて、どうするの)
マリアは、震える膝を叱咤して立ち上がった。
逃げるな。向き合え。
ここで逃げたら、私は一生、ただの死を運ぶ魔女のままだ。
「……退いて、ください」
マリアの口から出たのは、蚊の鳴くような細い声だった。
誰も気づかない。
マリアは大きく息を吸い込み、腹の底から声を絞り出した。
「退いてください!!」
地下室に響いた声に、全員が驚いて振り返る。
そこには、蒼白な顔で、けれど真っ直ぐに前を見据える少女が立っていた。
「マ、マリア殿?」
「助けます。……私に、やらせてください」
マリアは震える足で、瀕死の騎士の枕元へと歩み寄る。
心臓が早鐘を打っていた。
――怖い。怖くてたまらない。
彼女は膝をつくと、周囲を取り囲む男たちを見回し、懇願するように言った。
「お願いします。今から私が何をしていても、決して私の体に……私の肌には、触れないでください。もし触れれば、貴方たちの命に関わります」
その異様な警告に、場がどよめく。
だが、バルトだけは彼女の覚悟を悟り、すぐに周囲を制した。
「全員、マリア殿から離れろ!決して触れるなよ!」
場所が空けられる。
マリアは深く息を吸い込むと、左手の手袋の縁に手をかけた。
指が震えて、上手く掴めない。
それでも、彼女は意を決して手袋を引き抜いた。
露わになった白く華奢な素手。
それだけで、空気が張り詰めた気がした。
マリアはその手を、騎士の裂けた腹部へとゆっくりとかざす。
触れるか触れないか、ギリギリの距離。
少しでも誤れば、彼を殺す。
その極限の緊張感の中で、マリアは目を閉じ、祈った。
(治って。……生きて、……目を覚まして。お願い……!)
「――治療……!」
マリアは強く念じた。
術式はない。短い詠唱も、イメージをするためのもの。
ただひたすらに、治ってほしい、目を覚ましてほしいと、世界へ強く願った。
カッ……。
マリアの掌から、淡い、けれど芯のある光が溢れ出した。
それは通常の治癒魔法のような緑色の光ではない。
白く、清浄で、すべてを塗り替えるような輝き。
「な……っ!?」
見守っていたバルトが息を呑む。
光の下で、パックリと開いていた傷口が、見る見るうちに塞がっていく。
血が止まり、肉が盛り上がり、皮膚が再生する。
それは治癒魔法などという、生易しい速度ではなかった。
まるで、最初から傷などなかったかのように、時間を巻き戻しているかのような光景。
数秒後。
マリアが手を離すと、そこには傷跡一つない、綺麗な肌が戻っていた。
「……う、ん……」
死に瀕していた騎士が、小さく呻き、ゆっくりと目を開けた。
顔色には赤みが戻り、呼吸も安定している。
「……はぁ、はぁ」
マリアはその場にへたり込んだ。
額にはびっしりと脂汗が浮かんでいる。
助かった。殺さなかった。
その事実に、全身の力が抜けていく。
「き、奇跡だ……」
誰かが呟いた。
その言葉は、さざ波のように地下室全体へと広がっていった。
瀕死の重傷が一瞬で完治した。
魔法使いですら匙を投げるような傷を、この少女は、あっという間に癒やしてしまった。
「あの方は……聖女様だ……」
畏敬の眼差しが、マリアに注がれる。
マリアは急いで手袋をはめ直すと、震える手で額の汗を拭った。
怖い思いをした。もう、動きたくない。
けれど、彼女の視界には、まだ苦しんでいる他の人々の姿が入っていた。
(私には、力がある。……カインさんが守ろうとしている人たちを、助ける力が)
マリアは、恐怖で震える膝を叩き、再び立ち上がった。
「……あの、バルトさん」
「っ……はい。ここに」
マリアの呼びかけに、バルトはハッとして居住まいを正した。
その表情は、ただの少女に向けるものではなく、高潔な騎士が主君に接するかのような、深い敬意に満ちていた。
「他の方も……怪我をしている方を、診せてください。大きな傷でなければ、手袋をしたままでも治せると思います」
「なっ……しかし、マリア殿。貴女の顔色は……」
バルトが気遣わしげに眉を寄せる。
大怪我を一つ治しただけで、マリアの消耗は明らかだった。
「大丈夫です。……みんなが戦っているのに、私だけ休んでいるわけにはいきません」
マリアは気丈に微笑んでみせた。
その痛々しいほどの献身に、バルトは言葉を失い、やがて深く頭を下げた。
「……承知いたしました。こちらへ」
マリアはふらつく足で、他の負傷者たちの元へと歩き出した。
彼女は一人一人に優しく声をかけ、手袋越しに患部に触れ、その痛みを無かったことへと書き換えていく。
酒場の地下室の空気は一変した。
充満していた死の気配と絶望は消え失せ、代わりに温かな希望の光が満ちていく。
マリアが通った後には、感謝の言葉と、生きる気力を取り戻した人々の笑顔が咲いた。
* * *
日付が変わる頃。
ヴァルロアの別邸から証拠を掴んで戻ってきたカインとルーカスは、酒場の裏口から地下へ降りて、目を丸くした。
「……これは、どういうことだ?」
カインが呆気にとられる。
出立時には陰鬱としていた隠れ家が、今は明るい熱気に包まれていた。
重傷で寝込んでいたはずの者たちが起き上がり、談笑し、武器の手入れをしている。
彼らの瞳には、戦う意志と活力が漲っていた。
「お帰りなさいませ、団長!」
バルトが駆け寄ってくる。その表情も明るい。
「バルト、これは……」
「マリア殿のおかげです。彼女が、皆を癒やしてくださったのです……!」
視線の先。
部屋の隅で、マリアが老婦人の腰をさすっている姿があった。
周りの人々は、彼女を崇めるように、あるいは守るように囲んでいる。
「……まさか、あの人数を一人で?」
ルーカスが信じられないという顔で呟く。
通常の魔法使いなら、魔力枯渇で倒れていてもおかしくない量だ。
カインは、マリアの元へと歩み寄った。
マリアが気づき、疲れた顔をほころばせる。
「カインさん!お帰りなさい」
「ただいま、マリア。……無理をしたんじゃないか?」
「いいえ。私も、皆さんの役に立ちたかったんです。……私、少しは強くなれましたか?」
健気なその言葉に、カインは胸を熱くし、彼女の頭を優しく撫でた。
「ああ。君は立派だ。俺たちの誇りだよ」
マリアが恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに微笑む。
その光景は、あまりにも美しく、平和そのものだった。
――だが。
一歩引いた場所でその様子を見ていたルーカスだけは、笑っていなかった。
彼の鋭いエメラルドブルーの瞳は、マリアの笑顔ではなく、その髪に釘付けになっていた。
(……増えている)
ルーカスの背筋に、冷たいものが走る。
マリアの黒髪の毛先。
白く変質した部分が、明らかに広がっていた。
黒を侵食するように、雪のような白が這い上がってきている。
(力の使いすぎか?いや、違う。あれは……)
以前彼女を診断した際に感じた、内に潜む『何か』。
それが、マリアという器の表層へと、じわじわと浮き上がってきているような、彼女自身がその『何か』へ近づいて行っているような予感。
――聖女としての奇跡。
それは尊いものだが、その代償として、彼女は人間としての在り方を削り取られているのではないか。
(……厄介だな)
沸き立つ隠れ家の中で、ルーカス一人だけが、深まる闇の予兆を感じ取り、拳を握りしめていた。




