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あなたの孤独をほどくまで  作者: らぴな
第3章 王都動乱

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第40話 暗闇に咲く聖女

 カインとルーカスがヴァルロアの別邸へ潜入している間。


 貧民街の奥深くに佇む、古びた酒場。

 その床下に広がる広大な地下空間は、重苦しい空気と、錆びた鉄のような血の臭いに包まれていた。


 そこは今、仮設の野戦病院と化していた。


 ヴァルロアの私兵との小競り合いや、街での理不尽な取締りから逃れてきた傷ついた人々が、所狭しと横たわっている。


 マリアは部屋の隅で、膝を抱えて小さくなっていた。


 飛び交ううめき声。膿と血の臭い。

 それらが、幼い日の記憶――両親が冷たくなっていくあの日の記憶を呼び覚まし、彼女をすくませていたのだ。


(怖い……。私、何もできない……)


 その時、酒場の床下へと続く階段の扉が、荒々しく叩かれた。


「開けてくれ!急患だ!」


 担ぎ込まれてきたのは、一人の若い男だった。


 全身が血まみれで、腹部には深々と刃物による裂傷が刻まれている。

 顔色は土気色で、呼吸は浅く、今にも止まりそうだ。


「こいつは酷いな……」


 留守を預かっていたバルトが駆け寄る。


 運び込まれたのは、かつてカインやバルトの部下だった聖銀騎士団の若手騎士だった。


「副団長……すま、な……」


「喋るな!おい、水と布を!止血だ!」


 バルトが叫ぶが、傷はあまりにも深すぎた。


 内臓にまで達する傷。

 ここにある貧弱な物資では、傷口を押さえることしかできない。


 ここにルーカスがいれば、治癒魔法で助けられたかもしれない。

 だが今、彼はいない。


「くそっ……。ここまで来て、死なせるわけには……!」


 バルトが悔しげに拳を床に叩きつける。


 周囲の者たちも、目を背け、沈痛な面持ちで俯くしかなかった。

 助からない。誰もがそう悟った。


 マリアは、震える手で自分の口元を覆っていた。


 見ていることしかできない自分が、歯痒い。悔しい。


 ふと、彼女の視線が、自分の左手に落ちた。

 手袋に覆われた手。

 この手は、触れたものの命を奪う呪われた手だ。


 けれど――カインを救った手でもある。


(私なら……治せる、かも知れない)


 頭の中に、一つの可能性が浮かぶ。


 自分の力なら、あの深い傷も無かったことにできるかもしれない。

 だが、同時に冷たい恐怖が心臓を鷲掴みにする。


(でも、もし失敗したら?間違って彼に触れて、殺してしまったら?)


 手袋を外すイメージをするだけで、指先が震える。


 ――怖い。


 両親から、体温が急速に失われていく感覚。

 原始の聖域で、ルーカスが自分の首に触れたときの、あの感覚。


 ――温かい命が、一瞬で冷たい物体に変わるあの感触。


 もし彼を殺してしまったら、私はもう二度と立ち直れない。


「……ぁ……」


 マリアが躊躇っている間にも、騎士の呼吸は弱まっていく。

 命の砂時計が、残りわずかだと告げている。


「死ぬな!ライオット、しっかりしろ!」


 バルトの悲痛な叫び。


 それは、カインがマリアを呼ぶ声と重なった。


 ――君の力は、希望だ。


 カインはそう言ってくれた。

 この呪われた手を、救済の力だと信じてくれた。


(カインさんが信じてくれた私を……私が信じなくて、どうするの)


 マリアは、震える膝を叱咤して立ち上がった。


 逃げるな。向き合え。

 ここで逃げたら、私は一生、ただの死を運ぶ魔女のままだ。


「……退いて、ください」


 マリアの口から出たのは、蚊の鳴くような細い声だった。


 誰も気づかない。

 マリアは大きく息を吸い込み、腹の底から声を絞り出した。


「退いてください!!」


 地下室に響いた声に、全員が驚いて振り返る。

 そこには、蒼白な顔で、けれど真っ直ぐに前を見据える少女が立っていた。


「マ、マリア殿?」


「助けます。……私に、やらせてください」


 マリアは震える足で、瀕死の騎士の枕元へと歩み寄る。

 心臓が早鐘を打っていた。


 ――怖い。怖くてたまらない。


 彼女は膝をつくと、周囲を取り囲む男たちを見回し、懇願するように言った。


「お願いします。今から私が何をしていても、決して私の体に……私の肌には、触れないでください。もし触れれば、貴方たちの命に関わります」


 その異様な警告に、場がどよめく。

 だが、バルトだけは彼女の覚悟を悟り、すぐに周囲を制した。


「全員、マリア殿から離れろ!決して触れるなよ!」


 場所が空けられる。


 マリアは深く息を吸い込むと、左手の手袋の縁に手をかけた。

 指が震えて、上手く掴めない。

 それでも、彼女は意を決して手袋を引き抜いた。


 露わになった白く華奢な素手。

 それだけで、空気が張り詰めた気がした。


 マリアはその手を、騎士の裂けた腹部へとゆっくりとかざす。

 触れるか触れないか、ギリギリの距離。

 少しでも誤れば、彼を殺す。


 その極限の緊張感の中で、マリアは目を閉じ、祈った。


(治って。……生きて、……目を覚まして。お願い……!)


「――治療ヒール……!」


 マリアは強く念じた。

 術式はない。短い詠唱も、イメージをするためのもの。

 ただひたすらに、治ってほしい、目を覚ましてほしいと、世界へ強く願った。


 カッ……。


 マリアの掌から、淡い、けれど芯のある光が溢れ出した。


 それは通常の治癒魔法のような緑色の光ではない。

 白く、清浄で、すべてを塗り替えるような輝き。


「な……っ!?」


 見守っていたバルトが息を呑む。


 光の下で、パックリと開いていた傷口が、見る見るうちに塞がっていく。

 血が止まり、肉が盛り上がり、皮膚が再生する。


 それは治癒魔法などという、生易しい速度ではなかった。

 まるで、最初から傷などなかったかのように、時間を巻き戻しているかのような光景。


 数秒後。


 マリアが手を離すと、そこには傷跡一つない、綺麗な肌が戻っていた。


「……う、ん……」


 死に瀕していた騎士が、小さく呻き、ゆっくりと目を開けた。

 顔色には赤みが戻り、呼吸も安定している。


「……はぁ、はぁ」


 マリアはその場にへたり込んだ。


 額にはびっしりと脂汗が浮かんでいる。

 助かった。殺さなかった。

 その事実に、全身の力が抜けていく。


「き、奇跡だ……」


 誰かが呟いた。


 その言葉は、さざ波のように地下室全体へと広がっていった。


 瀕死の重傷が一瞬で完治した。

 魔法使いですら匙を投げるような傷を、この少女は、あっという間に癒やしてしまった。


「あの方は……聖女様だ……」


 畏敬の眼差しが、マリアに注がれる。


 マリアは急いで手袋をはめ直すと、震える手で額の汗を拭った。


 怖い思いをした。もう、動きたくない。

 けれど、彼女の視界には、まだ苦しんでいる他の人々の姿が入っていた。


(私には、力がある。……カインさんが守ろうとしている人たちを、助ける力が)


 マリアは、恐怖で震える膝を叩き、再び立ち上がった。


「……あの、バルトさん」


「っ……はい。ここに」


 マリアの呼びかけに、バルトはハッとして居住まいを正した。

 その表情は、ただの少女に向けるものではなく、高潔な騎士が主君に接するかのような、深い敬意に満ちていた。


「他の方も……怪我をしている方を、診せてください。大きな傷でなければ、手袋をしたままでも治せると思います」


「なっ……しかし、マリア殿。貴女の顔色は……」


 バルトが気遣わしげに眉を寄せる。

 大怪我を一つ治しただけで、マリアの消耗は明らかだった。


「大丈夫です。……みんなが戦っているのに、私だけ休んでいるわけにはいきません」


 マリアは気丈に微笑んでみせた。

 その痛々しいほどの献身に、バルトは言葉を失い、やがて深く頭を下げた。


「……承知いたしました。こちらへ」


 マリアはふらつく足で、他の負傷者たちの元へと歩き出した。

 彼女は一人一人に優しく声をかけ、手袋越しに患部に触れ、その痛みを無かったことへと書き換えていく。


 酒場の地下室の空気は一変した。


 充満していた死の気配と絶望は消え失せ、代わりに温かな希望の光が満ちていく。

 マリアが通った後には、感謝の言葉と、生きる気力を取り戻した人々の笑顔が咲いた。


* * *


 日付が変わる頃。


 ヴァルロアの別邸から証拠を掴んで戻ってきたカインとルーカスは、酒場の裏口から地下へ降りて、目を丸くした。


「……これは、どういうことだ?」


 カインが呆気にとられる。


 出立時には陰鬱としていた隠れ家が、今は明るい熱気に包まれていた。


 重傷で寝込んでいたはずの者たちが起き上がり、談笑し、武器の手入れをしている。

 彼らの瞳には、戦う意志と活力が漲っていた。


「お帰りなさいませ、団長!」


 バルトが駆け寄ってくる。その表情も明るい。


「バルト、これは……」


「マリア殿のおかげです。彼女が、皆を癒やしてくださったのです……!」


 視線の先。


 部屋の隅で、マリアが老婦人の腰をさすっている姿があった。

 周りの人々は、彼女を崇めるように、あるいは守るように囲んでいる。


「……まさか、あの人数を一人で?」


 ルーカスが信じられないという顔で呟く。

 通常の魔法使いなら、魔力枯渇で倒れていてもおかしくない量だ。


 カインは、マリアの元へと歩み寄った。

 マリアが気づき、疲れた顔をほころばせる。


「カインさん!お帰りなさい」


「ただいま、マリア。……無理をしたんじゃないか?」


「いいえ。私も、皆さんの役に立ちたかったんです。……私、少しは強くなれましたか?」


 健気なその言葉に、カインは胸を熱くし、彼女の頭を優しく撫でた。


「ああ。君は立派だ。俺たちの誇りだよ」


 マリアが恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに微笑む。

 その光景は、あまりにも美しく、平和そのものだった。


 ――だが。


 一歩引いた場所でその様子を見ていたルーカスだけは、笑っていなかった。

 彼の鋭いエメラルドブルーの瞳は、マリアの笑顔ではなく、その髪に釘付けになっていた。


(……増えている)


 ルーカスの背筋に、冷たいものが走る。


 マリアの黒髪の毛先。

 白く変質した部分が、明らかに広がっていた。

 黒を侵食するように、雪のような白が這い上がってきている。


(力の使いすぎか?いや、違う。あれは……)


 以前彼女を診断した際に感じた、内に潜む『何か』。

 それが、マリアという器の表層へと、じわじわと浮き上がってきているような、彼女自身がその『何か』へ近づいて行っているような予感。


 ――聖女としての奇跡。


 それは尊いものだが、その代償として、彼女は人間としての在り方を削り取られているのではないか。


(……厄介だな)


 沸き立つ隠れ家の中で、ルーカス一人だけが、深まる闇の予兆を感じ取り、拳を握りしめていた。

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