第39話 生命への冒涜
貧民街の奥深く、同志たちが潜伏する隠れ家で束の間の休息を取った後、カインとルーカスは再び闇夜へと踊り出た。
目指すは、王都の上層区画――貴族街の一角に構えられた、ヴァルロア公爵の別邸である。
『……確かな情報なのか、バルト』
『はい。同志の報告によれば、その別邸の裏口から、夜な夜な奇妙な木箱が運び込まれているそうです。中身は不明ですが、運び込む兵士たちの様子が尋常ではないと』
出発前、バルトは厳しい表情で語っていた。
運び込まれる荷物からは、生き物の気配がするにも関わらず、悲鳴一つ聞こえない。
そして時折、地下の通気口から、獣の咆哮のような音が漏れ聞こえてくると。
カインたちは、その別邸の地下こそが、一連の獣化事件の震源地であると踏んだのだ。
『マリア。君はここで待っていてくれ』
『カインさん……』
出立の際、不安げなマリアに対し、カインは優しく、けれど拒絶を許さない口調で言い聞かせた。
敵地への潜入捜査だ。
戦闘になれば守りきれない可能性があるし、何より、これから見るであろう光景を、彼女の清らかな瞳に見せたくはなかった。
『バルト、彼女を頼む』
『御意。……必ずや、守り抜きます』
バルトに後を託し、二人は闇に紛れて隠れ家を後にしていた。
* * *
貴族街は、貧民街とは対照的に、静謐で冷たい空気に包まれていた。
整然と敷き詰められた石畳。手入れの行き届いた街路樹。そして、威圧的に立ち並ぶ豪奢な屋敷たち。
だが、その美しさはどこか作り物めいていて、生気がない。
カインとルーカスは、闇色のマントで身を隠し、ヴァルロアの別邸へと忍び寄った。
警備は厳重だ。
庭には私兵が巡回し、窓には鉄格子が嵌められている。
「……正面からは無理だな」
「問題ない。魔法使いというのは、裏口を作るのが得意でね」
ルーカスが指先を振るう。
屋敷の裏手、使用人用の勝手口の鍵穴に、音もなく魔力が浸透していく。
カチリ、と小さな音がして、厳重な施錠が解かれた。
二人は素早く屋敷内へと侵入する。
屋敷の中は、外見の豪華さとは裏腹に、異様な静けさに満ちていた。
廊下には高価な調度品が並んでいるが、人の気配が希薄だ。
カインは剣の柄に手をかけ、ルーカスは周囲の魔力反応を探りながら、地下へと続く階段を目指す。
階段を下りるにつれ、空気が変わった。
鼻をつく薬品の臭いと、鉄錆のような血の臭い。
そして、肌にまとわりつくような、粘着質で不快な気配。
それは、カインがよく知る――自らの首筋に刻まれた呪いと同質の気配だった。
「……混沌の気配だ」
ルーカスが嫌悪感を露わにして呟く。
地下への扉は、分厚い鉄で作られていた。
だが、そこには鍵穴すらない。
「結界で封印されているな。……少々手荒いが、こじ開けるよ」
ルーカスが掌を扉に押し当て、魔力を流し込む。
解錠の術式と、封印の術式が火花を散らし、やがてガラスが割れるような音と共に、扉の魔法が砕け散った。
ギィィィ……。
重い鉄扉を押し開ける。
そこには、地上の優雅さとはかけ離れた、冒涜的な空間が広がっていた。
「な、なんだ……ここは……」
カインが絶句する。
広い地下室は、まるで拷問部屋のような様相を呈していた。
壁一面に並ぶのは、錆びついた太い鉄格子で仕切られた、無数の狭い檻。
石造りの床はどす黒い染みで汚れ、天井からは鎖や拘束具がぶら下がっている。
そして、その檻の中には――。
「……っ」
絶命した『何か』が、転がっていた。
ある檻には、人間の体に獣の腕を無理やり縫い付けられた死骸。
別の檻には、背中から鳥のような翼が生えかけ、肉が裂けたまま腐敗した塊。
人と獣を、太い糸と鎹で継ぎ接ぎし、魔力で強引に癒着させようとして失敗した、悪夢の成れ果てたち。
「……酷いな」
ルーカスが顔をしかめ、口元を覆う。
彼は部屋の中央にある、血に汚れた石の作業台へと歩み寄った。
そこには、解剖に使われたであろう鋸やナイフと共に、乱雑に書き散らされた羊皮紙の束が置かれていた。
ルーカスはそれを手に取り、目を通す。
そこには、狂気じみた研究の記録が記されていた。
『被検体、第ニ〇四号。混沌因子との適合失敗。精神崩壊ののち、肉体が溶解』
『魔獣化の過程における、魂の摩耗について』
『黒魔術による、強制的な種の融合実験』
「黒魔術……」
ルーカスが吐き捨てるように言う。
「やはり、ヴァルロア……いや、奴の背後にいる組織の仕業か。彼らは混沌の魔力を人為的に操作し、人間を魔獣へと作り変える実験を繰り返しているようだ」
ルーカスは、作業台の隅に置かれていた、黒い鉱石の欠片を拾い上げた。
それは、バルトが持たされていたペンダントと同じ、禍々しい紫色の光を放っていた。
「これが種だ。大気中の魔素を、汚染された混沌へと変換し、生物の肉体を強制的に変異させる触媒。……古の時代、禁忌とされた黒魔術の秘儀そのものだよ」
カインは、檻の中で息絶えている、かつて人間だったモノたちを見渡した。
その顔は苦悶に歪み、死してなお、安らぎを得られていないように見える。
「……彼らは、王都の民か」
「恐らくね。行方不明になった市民や、反逆者として捕らえられた騎士たちだろう。……彼らは、生きたままこの石を埋め込まれ、理性を食い破られて、あんな姿に……」
カインの拳が震える。
――怒り。
ヴァルロアに対する、底知れぬ怒りが腹の底から湧き上がってくる。
彼は、自らの欲望と実験のために、罪なき人々をこんな姿に変え、あまつさえそれを『カインの呪いのせいだ』と喧伝していたのだ。
「……許さん。断じて、許さんぞ、ヴァルロア……!」
カインの黄金色の瞳が、静かな、しかし烈火のごとき怒りに燃え上がる。
――その時だった。
「ヴ……ヴヴゥ……」
部屋の最奥、一際頑丈な鉄格子で仕切られた檻の中から、低い唸り声が聞こえた。
カインたちが振り返ると、そこには一匹の魔獣がうずくまっていた。
全身が黒い剛毛に覆われた、熊のような魔獣。
だが、その首には、泥と血にまみれた銀色のプレート――聖銀騎士団の認識票がかけられている。
「……まさか」
カインが駆け寄る。
見覚えのある認識票。
それは、カインの部下である、若手騎士のものだった。
「グルァッ!」
魔獣が檻に体当たりをする。
その瞳に理性はない。
ただ、破壊の衝動だけが渦巻いている。
「オグマ、なのか……?」
カインが悲痛な面持ちで名を呼ぶと、魔獣の動きが一瞬だけ止まった。
赤い瞳の奥に、微かな、本当に微かな涙が浮かんだように見えた。
「……ゴ、コロ、ジ……テ……」
獣の喉から、人間だった頃の言葉にも似た、掠れた音が漏れた。
それは、魂からの懇願だった。
この醜い姿で、理性を失い、誰かを傷つける前に。
騎士としての誇りを持ったまま、終わらせてくれという願い。
「オグマ……」
カインは剣の柄を握りしめた。
――助けたい。
マリアがいれば、もしかしたら人間に戻せるかもしれない。
だが、この魔獣はすでに肉体の変異が進みすぎていた。
骨格も、内臓も、完全に別の生き物に作り変えられている。
たとえ呪いを解いても、人間の形を保てず、肉塊となって崩れ落ちるだけだろう。
ルーカスの沈痛な眼差しが、それを肯定していた。
――救う道は、一つしかない。
「……すまない。安らかに眠ってくれ、騎士オグマ」
カインは剣を抜き、檻の隙間から突き入れた。
迷いはない。ただ、慈悲と祈りを込めて。
白銀の刃が、魔獣の心臓を貫く。
魔獣は、安堵したように一度だけ大きく息を吐き、その場に崩れ落ちた。
黒い靄となって遺体が霧散していく。
後に残されたのは、一枚の認識票だけ。
「……行くぞ、ルキ」
カインは剣を納め、踵を返した。
その背中からは、悲しみよりも、鋼のような決意が立ち上っていた。
ルーカスは、実験の証拠となる羊皮紙の束と、黒い魔石を亜空間収納に放り込み、カインに続いた。
「この証拠があれば、ヴァルロアの罪を告発できる。……だが、奴が大人しく裁きを受けるとは思えないな」
「ああ。だからこそ、俺たちが討つ」
二人は地下室を後にした。
背後には、無言の屍たちが眠る、冒涜的な実験場が残された。
カインは誓った。
この地獄を作り出した元凶を、必ず、この手で断罪すると。
地上に出ると、夜風が熱を持ったカインの頬を冷やした。
だが、胸の炎は消えない。
彼らは足早に、仲間たちが待つ隠れ家へと急いだ。
これから始まる戦いは、ただの権力争いではない。
人の尊厳を踏みにじる黒魔術との、決死の戦いになるのだから。




