第37話 灰色の街
腐敗臭と湿気が充満する地下の闇を歩き続けること、数刻。
カインの記憶通り、迷路のような水路の奥に、地上へと続く錆びついた梯子があった。
「……ようやく、出口か」
先頭を行くカインが梯子を押し上げる。
重い鉄の蓋がずれると、そこから微かな夜風が吹き込んできた。
地下の淀んだ空気とは違う、冷たく乾いた外気。
三人は音もなく地上へと這い出した。
そこは、王都アルジェンティアの下層区画。
いわゆる貧民街と呼ばれる地域の路地裏だった。
崩れかけたレンガ造りの建物が密集し、頭上には洗濯物が干されたままのロープが蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
「ふぅ……。二度と通りたくない道だね」
最後に上がってきたルーカスが、露骨に顔をしかめて服の汚れを払う。
彼は指先を軽く振るうと、三人を清浄な魔法が包み込んだ。
すると、服に染み付いた汚泥や臭いが瞬く間に消え去り、旅の痕跡がかき消される。
「ありがとうございます、ルキ様」
「礼には及ばないよ。臭いで兵士に気づかれたら、笑い話にもならないからね」
ルーカスは肩をすくめたが、その視線は鋭く周囲を巡回していた。
カインは深々とフードを被り直し、周囲の気配を探った。
「……静かすぎる」
カインの呟きに、マリアも頷く。
現在は夜の帳が下りた時間帯だが、それでもここは王都だ。
以前なら、貧民街であっても酒場からは喧騒が漏れ、路地には明日を生きるための活気が、泥臭くとも力強く満ちていたはずだ。
――だが、今はどうだ。
物音一つしない。
家の窓という窓は雨戸が固く閉ざされ、光が漏れることすら拒んでいる。
まるで、街全体が息を潜め、何かに怯えているかのような沈黙。
「行こう。……現状を確かめる」
カインの先導で、三人は路地裏から大通りへと出た。
石畳の道は、街灯の魔石も光量を落とされ、薄暗い。
すれ違う市民たちは皆、俯いて足早に歩き去っていく。
誰もが互いを疑うように距離を取り、目が合うことすら避けている。
かつて銀の都と謳われた美しい街並みは、今や恐怖と疑心暗鬼によって、くすんだ灰色に塗りつぶされていた。
「おい、そこの貴様!止まれ!」
突然、怒鳴り声が響いた。
カインたちが身を隠した建物の陰から覗くと、数人の兵士が、一人の行商人の男を取り囲んでいるところだった。
兵士たちが纏っているのは、カインもよく知る王都の衛兵の鎧。
だが、その肩にはヴァルロア公爵家の紋章が入った腕章が巻かれている。
「な、なんですか……私はただ、荷物を運んでいただけです!」
「うるさい!貴様のその荷物、カビ臭いな。……獣化病の兆候があるのではないか?」
兵士の一人が、男の荷車を蹴り上げた。
積まれていた野菜や日用品が散乱し、泥にまみれる。
「や、やめてください!これは売り物で……!」
「黙れ!最近、この地区で獣に変わる者が増えている。貴様のその薄汚い顔色、感染者の疑いがあるぞ」
兵士は男の胸倉を掴み上げ、下卑た笑みを浮かべた。
「連行しろ。……たっぷりと取り調べをする必要があるな」
「そ、そんな……お助けください!私には家族が……!」
男の悲鳴も虚しく、他の兵士たちが寄ってたかって男を拘束し、引きずっていく。
周囲の市民たちは、それを見て見ぬふりをして通り過ぎる。
助けようとすれば、次は自分が感染者として連行されることを知っているからだ。
「……ッ!」
カインが反射的に飛び出しそうになる。
だが、その肩をルーカスが強く掴んで制した。
「放せ、ルキ!あれはただの強請りだ!何の罪もない市民を……!」
「分かっている。だが、今ここで騒ぎを起こせば、僕たちの潜入が露呈する。……あの男一人を助けて、王都全体の希望を潰すつもりか?」
ルーカスの声は冷徹だが、その握る手には痛いほどの力が込められていた。
彼もまた、この理不尽な暴挙に腹を立てていないわけではない。
カインはギリリと歯軋りをし、握りしめた拳の爪が肉に食い込む痛みで、なんとか衝動を堪えた。
「……獣化病、と言っていました」
マリアが震える声で呟く。
「カインさんの呪いを……感染する病気だと偽って、人々を脅しているんですね」
「ああ。恐怖政治の常套手段だね」
ルーカスが吐き捨てるように言う。
「『カイン団長が魔獣化し、その呪いを撒き散らしている』という嘘を広め、市民の不安を煽る。そして、感染者を恣意的に摘発することで、ヴァルロアに逆らう者を合法的に排除しているんだ」
――獣化病。
それは、ヴァルロアが作り出した架空の病。
だが、ヴァルロアの背後にいると思われる闇の組織は、黒魔法を扱う。
人間に呪いをかけ、人為的に魔獣を生み出しているとしか考えられない。
「……許せない」
カインの口から、どす黒い怒りが漏れ出した。
自分の名を騙り、自分の愛した騎士団を使って、民を苦しめている。
その事実は、カインの魂を焼くような屈辱と、燃えるような使命感を呼び起こした。
「行くぞ。……バルトが待つ隠れ家へ」
カインは、連行されていく男の背中を脳裏に焼き付けながら、踵を返した。
今は耐える時だ。だが、必ず取り戻す。
この灰色の街に、再び銀色の誇りと、人々の笑顔を取り戻すために。
三人は夜の闇に紛れ、バルトが潜伏している貧民街のさらに奥深くへと、足早に姿を消していった。




