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あなたの孤独をほどくまで  作者: らぴな
第3章 王都動乱

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第36話 帰還の決意

 北西の山岳地帯を抜け、街道をひたすらに南下すること数日。


 季節は春の盛りを迎えようとしていた。

 しかし、カインたちの肌を撫でる風は、冬の残滓を含んだように冷たく、重苦しかった。


 三人が辿り着いたのは、王都を一望できる小高い丘の上だった。


 夕暮れ時。


 茜色に染まる空の下、巨大な石造りの城壁に囲まれた都市が、黒い影絵のように広がっている。


 中央には、かつてカインが忠誠を誓った白亜の王城がそびえ立ち、その威容を誇っている。

 その周囲を、貴族たちが住まう上層区画、そして多くの市民が暮らす下層区画が同心円状に囲む、美しく堅牢な都。


 ――王都、アルジェンティア。


 そこはカインにとって、生まれ育った故郷であり、守るべき人々が暮らす場所であり、そして今は、彼を魔獣として拒絶する敵地でもあった。


「……変わってしまったな」


 カインが、絞り出すように呟いた。


 その黄金色の瞳には、懐かしさではなく、苦渋の色が濃く滲んでいる。


 遠目に見ても分かった。

 かつての王都にあった、活気や賑わいといった生の熱気が、今の街からは完全に失われている。


 夕刻であれば、本来なら各家庭から炊事の煙が立ち上り、市場は一日の終わりの喧騒に包まれているはずだ。

 だが、今の王都を覆っているのは、墓場のような静寂と、鉛色の重苦しい空気だけだった。


「随分と、物々しいね」


 隣に立ったルーカスが、片眼鏡モノクルのような魔道具を取り出し、右目に当てがった。

 その魔道具を通して視る世界には、肉眼では見えない魔力の流れが映し出される。


「城壁全体を覆う結界の強度が、異常なほど引き上げられている。……通常時の三倍、いや、戦時体制と同等だ」


 ルーカスは冷ややかな声で分析を続ける。


「正門を見てごらん。あの長蛇の列を」


 街道から続く正門前には、王都に入ろうとする荷馬車や旅人が列をなしていた。

 だが、その進みは遅々として進まない。


 松明を持った兵士たちが、荷台の樽の中身から、旅人の懐の中まで、執拗なまでに検問を行っているのが見て取れた。

 時折、怒号が飛び交い、何かを没収された商人が膝から崩れ落ちる姿も見える。


「検問所には、対魔術師用の探知術式まで何重にも張り巡らされている。蟻一匹、魔力を持つものは通さないという構えだ。……正面から堂々と凱旋、というわけにはいかないようだね」


「ヴァルロアの仕業か。……俺たちが戻ってくることを、これほどまでに警戒しているとはな」


 カインはギリリと奥歯を噛み締めた。


 王都を守るべき騎士や衛兵たちが、民を守るためではなく、一人の独裁者の保身と権力維持のために使われている。

 その歪な光景が、騎士団長としての彼の矜持を逆撫でした。


 自分のいない間に、どれだけの民が不安に怯え、不当な扱いを受けたのだろうか。

 握りしめた拳が震える。


 その震えを止めるように、そっと小さな手が重ねられた。


「カインさん……」


 マリアだった。


 彼女は心配そうにカインを見上げ、その手を両手で包み込む。


 手袋越しの温もり。

 その温かさが、怒りで熱くなりかけたカインの頭を、ふっと冷静に引き戻してくれた。


「……すまない、マリア。取り乱した」


「いいえ。……あの、どうしますか?やはり、強行突破は……」


「無茶だ」


 カインは即答し、首を横に振った。


 彼は胸に手を当てる。

 始原の聖域で手に入れた古代遺物アーティファクト――理の楔のおかげで、体内の混沌は完全に沈静化し、今のカインはかつて以上の力を自在に振るうことができる。

 その気になれば、正門の兵士たちを蹴散らし、強引に押し通ることも不可能ではないだろう。


 だが、それは彼の望む奪還ではない。


「そんなことをすれば、関係のない市民を巻き込むことになるし、何より俺自身が、ヴァルロアの喧伝する通りの暴れ狂う魔獣であることを証明してしまうことになる」


 カインは視線を正門から外し、城壁のさらに外側――鬱蒼とした雑木林が広がる方角へと向けた。


「……裏口を使う」


「裏口、ですか?」


「ああ。王都の地下には、建国期に作られた古い地下水路が網の目のように張り巡らされているんだ。その大半は、後の都市開発で埋め立てられたか、封鎖されて廃棄された」


 カインは記憶の地図をたぐり寄せるように、遠くを見つめる。


「俺がまだ新人騎士だった頃、古参の兵士から聞いたことがある。廃棄区画の一部が、城壁の外へと繋がる排水口として、今も密かに残されていると」


「なるほど。盲点というわけかい」


 ルーカスが感心したように口笛を吹く。


「だが、相手はあのヴァルロアだ。当然、主要な侵入経路は塞いでいるだろうね。その忘れられた排水口とやらが無事だといいんだが」


「入り口は鉄格子で厳重に封鎖されているし、内部は迷路のように入り組んでいると聞く。それに、ヘドロと汚水の臭いが充満する場所だ。……貴族であるヴァルロアが、わざわざそんな汚い場所にまで兵を配置するとは思えない」


「やれやれ。泥だらけになるのは御免なんだがね」


 ルーカスは大げさに肩をすくめて見せたが、その瞳には好戦的な光が宿っていた。


 どんなに汚れた道であろうと、進むしかない。

 その覚悟は、三人とも同じだった。


「行こう。日が暮れる前に、入り口を見つけたい」


 三人は街道を外れ、身を隠すように林の中へと足を踏み入れた。



* * *



 城壁沿いの雑木林は、人の手が入っていない原生林に近い様相を呈していた。


 足元には腐葉土が厚く積もり、踏みしめるたびにジュクリと湿った音を立てる。

 頭上を覆う枝葉が夕日を遮り、周囲は急速に夜の闇へと沈んでいこうとしていた。


 湿った土と、どこか鼻をつく腐敗臭。


 カインは先頭に立ち、剣で邪魔な蔦を払いながら進む。

 マリアはカインの足跡を辿るように慎重に歩き、ルーカスが最後尾で周囲の警戒にあたる。


 しばらく無言で歩き続けた頃。

 不意に、カインが足を止めた。


「……ここだ」


 カインが指差した先。


 切り立った岩肌の陰、背の高い草木に隠れるようにして、古びた鉄格子が鎮座していた。


 何十年も放置されていたのだろう。

 鉄格子は赤錆に覆われ、岩と一体化しているようにさえ見える。

 その奥からは、生温かく湿った風が、微かな唸り声を上げて吹き出してきていた。


「酷い錆だな。……とてもじゃないが、開きそうにない」


 カインが鉄格子を掴んで揺らしてみるが、びくともしない。

 枠ごと岩に食い込んでしまっているようだ。


 力任せに破壊することもできるが、金属が砕ける甲高い音を立てれば、城壁の上にいる巡回の兵士に気づかれる恐れがある。


「下がっていてくれ。僕がやる」


 ルーカスが前に進み出る。


 魔素に満ちたこの場所では、もう無粋な杖に頼る必要はない。

 彼は素手をかざし、鉄格子の蝶番部分へと、細く鋭い魔力を収束させた。


「――融解メルト


 唇だけで短く詠唱する。


 指先が微かに明滅し、目に見えない熱線が放たれた。


 ジジッ、ジジジ……。


 油が焦げるような低い音と共に、錆びついた蝶番の一部が赤熱し、泥のように溶け落ちていく。


 音もなく、光もない。

 ただ物理的な結合だけを静かに断ち切る、洗練された魔法制御。


「……相変わらず、器用なものだ」


 カインが感嘆の息を漏らすと、ルーカスはふん、と鼻を鳴らした。


「破壊工作は専門外だがね。……さあ、開くよ」


 ルーカスが軽く手を振る。

 すると、重厚な鉄格子が、悲鳴のような軋み音を立てることもなく、幽霊のように静かに内側へと開いた。


 ぽっかりと口を開けた、王都への侵入口。


 中から漂ってきたのは、鼻が曲がりそうなほどの強い黴と、淀んだ下水の臭気。

 そして、光の一切届かない、底知れぬ闇の気配。


 それはまるで、魔物の体内へと続く食道のようにも見えた。


「……うッ」


 マリアが思わず両手で鼻と口を覆い、後ずさる。

 生理的な嫌悪感を催すその濃厚な悪臭に、足がすくみ、目尻に涙が滲むのは当然の反応だった。


「マリア、大丈夫か?」


 カインがすぐに駆け寄り、背中を支える。

 彼は懐から清潔な手ぬぐいを取り出すと、マリアの口元を覆うように優しく手渡した。


「これを口に当てておくといい。少しはマシになるはずだ。……すまないな、こんな汚い場所を通らせてしまって」


「あ、ありがとうございます……カインさんこそ、平気ですか?」


「俺は戦場や野営で慣れているからな。それより、君が無理をしていないか心配だ」


 甲斐甲斐しくマリアを気遣うカイン。


 その横で、ルーカスはハンカチを鼻に押し当て、眉間にこれ以上ないほど深い皺を刻んでいた。


「やれやれ……。鼻がもげそうだ」


 ルーカスは心底嫌そうに吐き捨てる。

 その美貌は不快感で歪み、片手で顔の前をパタパタと仰いで、まとわりつく臭気を払おうとする。


「カイン、その感動的な気遣いは歩きながらにしてくれないかい? 僕は一秒だってこんな不浄な場所に長居したくはないんだ。服に臭いが染み付く前に、さっさと通り抜けたい」


「……お前な。少しはマリアの気持ちも考えろ」


「考えているさ。だからこそ、一刻も早くここを通り抜けようと提案しているんだよ」


 減らず口を叩きながらも、ルーカスは先行して指先を弾く。

 灯った小さな魔術の光が、足元のヘドロを照らし出すと、彼は「うわぁ」と言わんばかりに顔をしかめ、裾が汚れないよう慎重に歩き出した。


「ほら、行くよ。足元に気をつけて」


 三人の影が、地下の闇へと吸い込まれていく。

 背後で鉄格子が閉まる音が、退路を断つ号砲のように響いた。


 かつての栄光を取り戻し、国を蝕む巨悪を討つために。

 彼らの戦いが、今、静かに幕を開けた。

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