第35話 理の楔
「……おおおおぉぉッ!!」
カインの咆哮が、白亜の迷宮を震わせた。
それは、洗練された騎士の気合ではない。
傷ついた獣が、最後の命を燃やして敵を喰いちぎらんとする、泥臭く、凄絶な叫びだった。
カインが踏み込む。
限られた魔力を使用した、無理な身体強化。
魔素の欠乏により、肺は焼けるように熱く、手足には鉛の錘をつけたような倦怠感がまとわりついている。
だが、その剣速は衰えを知らなかった。
ガギィンッ!
暗殺者の短剣と、カインの長剣が火花を散らす。
技量で勝る暗殺者が、カインの斬撃を受け流し、隙を突いて懐へ潜り込む。
鋭利な刃が、カインの横腹を狙う。
「――そうはさせないよ!」
カインの背後。
ルーカスの杖先から、殺傷力のない、しかし目を開けていられないほどの強烈な光が炸裂する。
暗殺者の動きが、一瞬止まる。
その刹那の隙を、カインは見逃さなかった。
「はぁッ!」
体をねじり、渾身の力で剣を振り抜く。
刃が暗殺者の胴を捉え、その体を吹き飛ばした。
壁に激突した敵は、ぐらりと揺れて動かなくなる。
「はぁ……はぁ……っ」
カインが荒い息を吐き、剣を杖代わりにして膝をつく。
残る敵は一人。リーダー格の男のみ。
だが、カインの体力も限界を超えていた。
視界が霞み、指先の感覚がない。
「……しぶといな、騎士崩れが」
最後の暗殺者が、忌々しげに短剣を構え直す。
彼もまた消耗しているが、カインよりは余力が残っている。
ふいに、男の視線が、カインの背後――ルーカスとマリアへと走った。
「だが、守るものが多すぎる」
男が地を蹴った。
狙いはカインではない。魔力枯渇で動けないルーカスだ。
カインが反応するよりも速く、凶刃がルーカスへと迫る。
「ルキ!」
「ちっ……!」
ルーカスが杖を掲げるが、防御魔法を展開するだけの魔力は残っていない。
万事休すかと思われた、その時。
ガクンッ。
「なっ!?」
突進していた男の足元の石床が、唐突に陥没した。
それは魔法ではない。
先ほどの戦闘の余波で脆くなっていた床を、ルーカスが杖で叩いた振動によって、物理的に崩壊させたのだ。
「悪いが、僕もここで死ぬつもりはない!」
体勢を崩し、つんのめる暗殺者。
その無防備な背中へ、カインが最後の力を振り絞って跳躍した。
「これで、終わりだッ!!」
全体重を乗せた一撃が、男の肩口から深々と振り下ろされる。
断末魔を上げる間もなく、最後の敵が沈黙した。
――埃が晴れ、静寂が戻る。
カインは剣を落とし、その場に大の字に倒れ込んだ。
「カインさん!」
マリアが駆け寄り、カインの泥だらけの顔を覗き込む。
カインは薄く目を開け、安堵したように微笑んだ。
「……無事か、マリア。ルキも」
「ああ。……まったく、君という男は。寿命が縮んだよ」
ルーカスもまた、その場に座り込みながら悪態をつく。
だが、その表情には隠しきれない安堵と、友への信頼が滲んでいた。
* * *
小休止の後、三人は互いに支え合いながら、遺跡の最奥へと進んだ。
長い回廊を抜けた先にあったのは、天井のない、円形の広間だった。
頭上には、切り取られたような青空が見える。
そして、何もない純白の空間の中央に、ぽつんと置かれた台座があった。
そこには、拳大の宝珠が浮遊していた。
内側から鈍い乳白色の光を放ち、周囲の空間を厳かに支配している。
「あれが……」
「ああ。文献にあった通りだ。……理の楔。不安定な魔力を安定させ、その乱れを強制的に固定する古代遺物だ」
ルーカスが渇いた声で告げる。
カインの狼化という現象は、体内の魔力が不安定になり、肉体の構成を書き換えてしまうことで起こる。
この宝珠を手に入れれば、その乱れを固定し、不安定に獣になるのを防ぐことができるはずだ。
「さあ、カイン。それを」
ルーカスに促され、カインが歩み寄る。
痛む体を引きずり、台座の前に立つ。
震える手を伸ばし、宝珠に触れる。
――カッ!
瞬間、宝珠が眩い光を放った。
それは拒絶ではない。歓迎の輝き。
宝珠は光の粒子となって崩れ、カインの手のひらから体内へと吸い込まれていく。
「く……っ!」
カインが胸を押さえてうずくまる。
ドクン、ドクンと、心臓の鼓動に合わせて、銀色の波紋が全身に広がる。
体の中で暴れ回っていた熱い塊――混沌の力が、冷ややかな楔によって縫い留められ、静まっていく感覚。
――数瞬の後。
カインは、深く、静かに息を吐いた。
「……どうだい?」
ルーカスが尋ねる。
カインは自身の掌を見つめ、握りしめた。
「……静かだ。いつも体の奥で唸っていた獣の気配が、静かになったようだ」
成功だ。
これで、時間に怯える必要はない。
マリアの手を煩わせることもなく、その力を制御できるようになったのだ。
「よかった……本当によかったです、カインさん!」
マリアが涙ぐんで喜ぶ。
カインは彼女の頭を撫で、力強く頷いた。
「ああ。……帰ろう、マリア。ルキ」
三人は互いに支え合い、出口へと向かった。
* * *
白亜の遺跡を出て、再び色のない森を歩く。
まだ大気中の魔素は希薄なままだ。
息苦しさは続き、体は鉛のように重い。
だが、目的を果たした三人の足取りは、来る時よりも幾分か軽かった。
森の出口が近づき、灰色の景色に少しずつ色彩が戻り始めた頃。
マリアはふと足を止め、振り返った。
視線の先。木々の隙間から、あの真っ白な遺跡が僅かに見えている。
誰もいない、音もない、死のような静寂の場所。
それなのに。
(どうして……こんなにも、名残惜しいんだろう)
マリアは自身の胸に手を当てた。
普通の人間なら、二度と戻りたくないと思うはずの不毛の地。
けれどマリアの胸の奥には、まるで長く離れていた故郷を後にする時のような、切ない郷愁が渦巻いていた。
――懐かしい。寂しい。ずっと、ここにいたい。
湧き上がる感情の源を探ろうとした時。
脳裏にふわりと、ある映像が浮かんだ。
意識の深い場所で出会った、あの白い少女。
あの子がいた何もない場所と、この聖域の白さは、よく似ている。
(あの子と、この場所……何か、関係があるのかな)
マリアは内なる少女に問いかけるように、自問自答する。
しかし、答えは出てこない。
ただ、胸のつかえだけが、消えない澱のように残った。
「マリア? どうしたんだい」
先行していたカインが、心配そうに呼びかける。
マリアはハッとして、その不安を心の奥底にしまい込んだ。
「あ、いえ! なんでもありません!」
マリアは努めて明るく答え、二人の背中を追った。
* * *
やがて。
木々の緑が鮮やかさを取り戻し、風の音が耳に戻ってきた。
世界に色が満ちる境界線を越えた瞬間、肺の中に濃密な空気が流れ込んでくる。
「はぁ……っ。……生き返った気分だよ」
ルーカスがその場にへたり込み、大の字になって深呼吸をした。
枯渇していた体内に、大気中の魔素が潤沢に染み渡っていく。
「全くだな。空気が美味いというのは、こういうことか」
カインもまた、心地よい疲労感に包まれながら空を見上げた。
木漏れ日が眩しい。
穏やかな春の風が、三人の背中を押すように吹き抜ける。
長く、過酷だった旅路は一つの区切りを迎え、王都での新たな戦いが始まろうとしていた。
「さて。……向かうとしよう。王都へ」
カインの言葉に、二人が頷く。
そこには、彼らを待つ仲間がいる。
そして、決着をつけるべき敵がいる。
三人の影は、希望に満ちた足取りで、森の出口へと歩き出した。




