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あなたの孤独をほどくまで  作者: らぴな
第2章 雪解けの旅路

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第32話 静寂の境界線

 バルトと別れ、未踏の森へと足を踏み入れてから数日が経過していた。


 鬱蒼と茂る原生林は、人の侵入を拒むように枝葉を広げ、頭上の陽光を遮断している。

 足元は腐葉土と幾重にも絡み合う根に覆われ、一歩進むたびに体力を削り取っていく過酷な道のりだった。


「……っ、キリがないね…」


 先頭を行くルーカスが、小さく舌打ちをしてぼやく。


 彼が振るった白銀の杖の先から不可視の刃が放たれ、目の前に立ちはだかる荊棘の壁を切り裂いた。

 パラパラと緑の破片が舞い落ち、人が一人通れるだけの細い獣道が切り開かれる。


「……この森の植生は、異常なほどの生命力に満ちているようだね」


 ルーカスが額の汗を拭いながら、忌々しげに呟く。


 その手には、彼にしては珍しく、一本の杖が握られていた。


 装飾の少ないシンプルな形状だが、柄は最高級のミスリル銀で作られ、先端には深い蒼色を湛えた魔石が埋め込まれている。

 一見して国宝級と分かる、洗練された一品だ。


「珍しいな、ルキ。お前が杖を使うなんて」


 背後のカインが、魔獣の気配を探りながら問う。


 普段のルーカスなら、この程度の魔法は指先一つで発動させる。

 道具に頼ることを二流の証と笑う彼が、わざわざ杖を持ち歩いていることに、カインは違和感を覚えていた。


「この森のせいさ。……気づかないか、カイン」


 ルーカスは杖の石を撫でながら、険しい表情で答える。


「ここに入ってから、大気中の魔素マナが薄くなっている。素手で魔法を練り上げるには、効率が悪すぎるんだよ」


「効率?」


「ああ。体内の魔力を一滴も無駄にしないためには、この増幅器を通す必要がある。……僕としたことが、道具頼りとは情けないがね」


 自嘲気味に笑うルーカスだが、その瞳は笑っていなかった。

 天才がなりふり構わず最適解を選ぶほど、この森の環境は異常なのだ。


「魔獣の気配も濃い。だが、遠巻きに見ているだけで襲ってはこないな」


「……こちらの魔力に恐れをなしているのか、あるいは……もっと奥にいる『何か』を恐れて近づかないのか」


 ルーカスの言葉に、カインとマリアの表情が引き締まる。


 バルトとの一件を経て、三人の結束は強固になっていた。


 ルーカスが道を作り、カインが脅威を払い、マリアは二人の背中を見守るように、祈りを込めた視線で懸命についていく。


「マリア、大丈夫か? 足元が悪い」


「はい、平気です。ルキ様が歩きやすくしてくださっていますから」


 マリアは気丈に微笑んだ。


 その髪の毛先は白く変色したままだが、瞳には強い意志の光が宿っている。

 三人は互いの呼吸を合わせ、薄暗い緑の回廊をひたすらに南へと進んだ。



* * *



 異変に気づいたのは、森に入って三日目の昼過ぎだった。


「……おい。何か変じゃないか?」


 カインが足を止め、周囲を見回した。

 ルーカスもまた、眉間に深い皺を寄せて、枝葉の隙間から覗く空を見上げる。


「ああ。……音が、消えた」


 それまでは耳障りなほどに響いていた鳥のさえずりや、虫の羽音が、ピタリと止んでいた。

 風の音さえしない。

 木の葉が擦れる音も、小川のせせらぎも聞こえない。


 あるのは、自分たちが踏みしめる土の音と、自身の呼吸音だけ。

 まるで、世界中の音が分厚い布に吸い取られてしまったかのような、圧迫感のある静寂。


「それに、色もだ」


 ルーカスが手近な葉を拾うと、その拭えない違和感に眉を寄せる。


 鮮やかな緑色だったはずの葉が、まるで枯れる寸前のように彩度を失い、灰色がかったくすんだ色へと変貌している。

 植物だけではない。土も、岩も、空の色さえも。


 進めば進むほど、世界から色彩が剥奪され、灰色の風景へと近づいていく。


「……気味が悪いな」


 カインが身震いをする。


 魔獣の気配も完全に消え失せていた。

 生きとし生けるものが住めぬ領域に入り込んだのだと、本能が告げている。


「それだけじゃない。……僕の魔力の巡りが、酷く重くなっている」


 ルーカスが深刻な声で告げた。

 彼は自分の掌を見つめ、汗ばんだその手を、握ったり開いたりを繰り返す。


「やはり、大気中の魔素マナが、極端に薄い。……いや、薄いどころじゃない。枯れ果てている」


魔素マナが薄い場所なんて、そんなことがありえるのか?」


「理論上はあり得ない。魔素マナはこの世界の構成要素そのものだからね。それが無いということは……ここは世界のルールの外側に近いということになる」


 ルーカスの説明に、カインとマリアは息を呑んだ。三人は最大限に警戒しつつ、慎重に歩みを進める。



* * *



 さらに数刻が経過した頃。


 周囲の景色は完全に色を失い、白と黒、そして灰色の三色だけで構成された世界になっていた。

 音のない世界。色のない世界。


 そして、決定的な異変がカインとルーカスを襲った。


「はぁ……はぁ……っ」


 カインが胸元を掴み、苦しげに膝をつく。

 全力疾走したわけでもないのに、心臓が早鐘を打ち、肺が空気を求めて喘ぐ。


「妙に息苦しいな……」


 ルーカスもまた、顔面を蒼白にして肩で息をしていた。

 額には脂汗が浮かび、杖にすがって立っているのがやっとという有様だ。


魔素マナ欠乏だ……。人間は、呼吸と一緒に無意識に魔素マナを取り込んでいる。……ここには、それが全くない。虚無だ」


 ルーカスが呻く。


 魚が陸に打ち上げられたようなものだ。

 魔素マナに満ちた世界に適応した生物にとって、この空間は緩やかな処刑場に等しい。


「魔法は使うなよ、ルキ。……くっ、それより……」


 カインは自身の苦痛をねじ伏せるように顔を上げ、すぐ背後にいるはずの少女を振り返った。


 自分のような非魔法使いですらこの有様だ。

 ルーカス同様に魔法が扱える彼女の負担は、計り知れないはずだと直感したからだ。


「マリア、大丈夫か……?君も魔法が扱える……俺たちよりも、辛いんじゃないのか……」


 カインが這うようにして手を伸ばす。

 しかし、その瞳に映ったのは、苦悶に歪む少女の姿ではなかった。


「……え? カインさん?」


 そこには、平然とした顔で佇むマリアがいた。

 苦しげな様子は微塵もない。顔色は良く、呼吸も乱れていない。


 それどころか、その瞳はどこか生き生きとした輝きを帯びているようにさえ見えた。


「マリア……君は、苦しくないのか?」


 ルーカスが掠れた声で問う。

 マリアはきょとんとして、自分の胸に手を当てた。


「え? はい、なんともありません。……むしろ」


 マリアは周囲の灰色の森を見渡し、不思議そうに呟いた。


「ここに入ってから、体が軽いくらいです。空気が澄んでいて、余計なものが何もないような……。なんだか、懐かしい、ような……」


(懐かしい、だと……?)


 ルーカスは戦慄した。


 魔素マナがない空間を『澄んでいる』と感じる。

 生物にとっての猛毒を『懐かしい』と感じる。


 それは、彼女という存在が、この世界の理とは相容れない、全く別の法則で動いていることの証明だった。


(あり得ない。魔素マナがない空間で平気でいられる生物など、この世に存在しないはずだ。……君は、一体何者なんだい……?)


 ルーカスは喉まで出かかった言葉を飲み込み、恐怖を押し殺して前を向いた。


 カインには言えない。マリア本人にも。

 この違和感は、決して触れてはいけない禁忌の扉のような気がしたからだ。


「……行こう。もう少しで、森を抜ける」


 ルーカスに促され、カインも重い体を起こした。

 マリアだけが軽やかな足取りで、二人の背中を押すように付き添う。



* * *



 やがて、木々の密度が薄くなり、視界が開けた。


 森を抜けた先に広がっていたのは、広大な鉢状の窪地だった。

 その中心に、それはあった。


「あれが……始原の聖域……」


 カインが息を呑む。


 そこにあったのは、巨大な白亜の遺跡だった。

 風化した石柱が林立し、中央には天を突くような塔がそびえ立っている。


 だが、何よりも異様なのは、その白さだった。

 汚れ一つない、純白。

 太陽の光すら反射せず、すべてを吸い込むような、乾いた白。


 まるで、そこだけ世界が塗り残された画布キャンバスの地肌が露出しているかのような、絶対的な無垢と虚無。


 音もなく、色もなく、魔素マナもない。

 神聖でありながら、近づく者を拒絶するような圧倒的な威圧感が、遺跡全体から漂っている。


「……ようやく、着いたな」


 カインが安堵の息を吐きかけた、その瞬間。


 彼の黄金色の瞳が、鋭く細められた。


「――ッ!?」


 カインは反射的に剣を抜き、マリアの前に立ちはだかる。

 ルーカスも杖を構え、痛む肺を叱咤して魔力を練り上げた。


「ど、どうしたんですか……!?」


「……先客がいるようだ」


 カインの視線の先。


 誰もいないはずの白亜の遺跡の入り口に、不自然な影が揺らめいていた。


 風はない。生物もいない。

 なのに、そこには明確な殺気と、鍛え上げられた者特有の、静寂が潜んでいた。


「待ち伏せか……」


 ルーカスが舌打ちをする。


 魔素マナのない極限状態。疲弊した体。

 そして、目の前には未知の敵。


 雪解けの旅路の果てに待っていたのは、安息ではなく、最後の、そして最大の試練だった。

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