第29話 変わらぬ温もりと、白き徴
廃教会での慟哭の後。
張り詰めていた糸が切れたように、マリアは深い眠りについた。
カインは彼女の小さな体を、壊れ物を扱うように慎重に抱き上げた。
彼女の手袋は片方失われている。
もし素肌が触れれば、対象の命を止めてしまうかもしれない。
カインは自身の纏っていた厚手のローブでマリアの全身を隙間なく包み込み、直接馬の肌に触れないよう細心の注意を払って、鞍の前方に抱え込んだ。
「……帰ろう」
カインが短く告げ、バルトが頷く。
二人は馬首を巡らせ、異質に変貌した森を背にした。
帰り道、馬上で揺られながら、バルトがぽつりと漏らす。
「団長。……あの力は、一体何だったのでしょうか」
硝子に変わった地面、ねじれた大木。
人の御技を超えた、まるで神の悪戯のような痕跡。
カインは腕の中の軽い重みを感じながら、首を横に振った。
「俺にも分からない。……だが、マリアがマリアであることに変わりはない」
「……そうですな。マリア殿がご無事で、本当によかった」
バルトの声には、心の底からの安堵が滲んでいた。
カインもまた、眠るマリアの寝顔を見下ろし、胸を撫で下ろす。
理屈など後でいい。今はただ、彼女がここにいるという事実だけで十分だった。
馬を休ませながら進んだため、宿場町への道のりは遠い。
太陽が傾き、空が茜色に染まり始めた頃だった。
『――ざ、……ザザ……こ、えら……』
不意に、カインの胸元から、砂嵐の中で話しているような、途切れ途切れの声が聞こえてくる。
「ん?」
カインが手綱を緩め、胸ポケットを探る。
指先に触れたのは、覚えのない硬質な感触。
取り出してみると、それは銀色のロケットペンダントのような形をした、小さな魔道具だった。
『……あー、あー。聞こえているかい、カイン』
雑音が晴れ、鮮明になったその声に、カインは目を丸くした。
「ルキか?」
『やれやれ、ようやく繋がったか。心配させないでくれよ』
あきれ声の中に、隠しきれない安堵を含んだルーカスの声。
カインは苦笑した。
いつの間にこんなものを入れたのだろうか。
「まったく、お前には敵わないな。いつの間に」
『備えあれば憂いなし、さ。……で、マリアは?』
「無事だ。今は疲れ切って眠っている」
『そうか……。よかった』
短い言葉に込められた深い安堵。
カインは、ルーカスもまた、自分と同じくらいマリアを案じていたことを知る。
「ルキ、すまないが帰るにはまだ時間がかかりそうだ。馬も限界でな」
『ああ、位置は大体把握している。僕の魔力もあらかた回復したからね、そっちへ向かうよ』
「無理をするなよ。あれだけの魔法を使ったんだ」
『君に言われたくはないね。……じゃあ、後ほど』
プツリ、と通信が途絶える。
カインはロケットをポケットにしまうと、周囲を見渡した。
すでに日は落ちかけ、夜の気配が近づいている。
これ以上の行軍は、マリアの体にも負担がかかるだろう。
「バルト。今日はこの辺りで野営にしよう。水辺が近い場所を探してくれ」
「承知しました」
二人は街道を少し外れ、開けた河原に陣を取ることにした。
* * *
パチパチと、焚き火が爆ぜる音がする。
香ばしい匂いが、マリアの鼻先をくすぐった。
「……ん……」
マリアは重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
視界に映ったのは、揺らめく夕日色の炎と、満天の星空。
体を起こそうとすると、肩にかけてあった厚手のローブがずり落ちた。
「気がついたか」
すぐ傍で、優しい声がした。
見上げれば、カインが穏やかな瞳でこちらを見守っている。
その隣では、バルトが焚き火に向かっていた。
その大きなゴツゴツとした手で、不器用ながらも丁寧に、串に刺した川魚を焼いている。
「カイン、さん……バルト、さん……」
マリアは夢現のまま、自分の手を見た。
左手には、カインの予備の手袋だろうか、少し大きめの革手袋がはめられている。
記憶が、ゆっくりと蘇る。
黒いローブの男たちにさらわれた恐怖。
暴走した力。変貌した世界。
そして、意識を失っていた間の空白。
「私……」
言葉にしようとして、喉が詰まる。
何を言えばいいのか分からない。
ただ、申し訳なさだけがこみ上げてくる。
俯いたマリアの視界に、自分の髪の毛先が映り込んだ。
「あ……」
漆黒だったはずの髪の毛先が、色素が抜け落ちたように白く変色していた。
それは、あの白い虚無の世界で出会った、もう一人の自分の色。
マリアの背筋が凍る。あれは夢じゃなかった。
私は、私じゃない「何か」に、すべてを委ねて……。
震えるマリアの頭に、ポン、と大きな手が乗せられた。
カインの手だ。
「大丈夫だ、マリア」
「でも、私……人を、あんな風に……それに、森も……」
「何も言わなくていい。君が無事でいてくれた、それだけで俺たちは救われたんだ」
カインはマリアの髪――白く変わってしまった部分も、忌避することなく優しく撫でた。
「……怖く、ないんですか?」
マリアは掠れた声で尋ねた。
バルトの方も見る。
彼は家族を魔獣に殺された人だ。
異質な力を持つ自分など、魔獣と同じくらい恐ろしいはずなのに。
「私が、こんな……化け物みたいな力を持っていても……」
「マリア」
カインが、マリアの肩を両手で掴み、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「君がどんな力を持っていようと、髪の色が変わろうと、マリアはマリアだ。俺に温もりをくれた、優しい女性だ。……俺が君を怖がることなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない」
その言葉に嘘偽りがないことは、黄金色の瞳を見れば分かった。
そして、魚の焼き加減を見ていたバルトも、顔を上げて破顔した。
「私もです、マリア殿。……正直、あの惨状には肝を冷やしましたが、団長が信じる貴方なら、私も信じます」
バルトは自身の胸を拳で叩く。
「それに、貴方のその瞳を見れば分かります。そんなにも悲しげで、優しい瞳を持つ方が、恐ろしい化け物であるはずがない」
二人の言葉が、凍りついていたマリアの心を、じんわりと溶かしていく。
拒絶されると思っていた。置いていかれると思っていた。
けれど、彼らはここにいてくれる。
「う、ぅ……」
視界が涙で滲む。その時。
ぐうぅぅ~~……。
盛大な音が、静かな夜の河原に響き渡った。
マリアの腹の虫だ。涙が引っ込み、カッと顔が熱くなる。
「あ、う、あの……っ!」
真っ赤になって俯くマリアを見て、カインとバルトが顔を見合わせ、吹き出した。
「ははは!そうだな、昨日の夜から何も食べていないんだ、腹も減るさ」
「いい音でしたな!さあ、ちょうど魚も焼けましたぞ」
バルトが焼きたての魚を差し出す。
カインがそれを受け取り、マリアに手渡してくれた。
「ほら、食べよう。温かいうちに」
「……はい。いただきます」
マリアは串を受け取り、一口かじった。
塩だけの味付け。少し焦げた皮。
けれど、口いっぱいに広がるその味は、今までのどんな食事よりも美味しく、温かかった。
「……おいしい……っ」
咀嚼すると同時に、また涙が溢れてきた。
今までの非現実的な恐怖が、まるで遠い夢の出来事のように思えてくる。
ここにあるのは、焚き火の温かさと、焼き魚の味と、そして優しい人たち。
生きていてよかった。戻ってこられてよかった。
泣きながら魚を食べるマリアの背中を、カインはずっと撫でてくれていた。
その隣で、バルトも何も言わず、ただ温かい目線で二人を見守っている。
白く変わってしまった髪の毛先。
それは消えない傷跡かもしれない。
けれど、この温もりがある限り、私はまだ私でいられる。マリアはそう信じて、夜空に昇る月を見上げた。




