第2話 銀灰色の狼
工房の中は、暖炉の薪がはぜる音と、狼の浅く苦しげな呼吸音だけが響いていた。
マリアは、横たえた銀灰色の狼のそばで、震える手で薬草棚を漁っていた。
(手袋越しの魔法じゃ、傷が深すぎて追いつかない……!)
手袋という絶縁体越しでは、彼女の魔力はうまく伝わらなかった。
ならば、物理的な処置が必要だ。
強力な止血効果のある軟膏。
あれがあれば、まずは血を止められる。
「あった、これ……!」
マリアは棚の奥から小さな瓶を掴み出し、蓋を開けた。
だが、彼女の顔から血の気が引いた。
「……うそ」
瓶の底は、乾いていた。
よりによって。
いつもなら切らさない常備薬が、この瞬間に尽きているなんて。
狼の脇腹からは、未だにドクドクと赤い血が溢れ出し、床を黒く染めていく。
このままでは、数分と持たずに失血死してしまう。
「……魔法で、止めるしか……!」
マリアは自分の両手を見つめた。
祖母の形見である、薄暗い色の手袋。
彼女を無害な存在たらしめていた、最後の戒め。
だが、これをつけたままでは、この命は救えない。
その時、脳裏に懐かしくも厳しい祖母の声が蘇った。
『マリア。いいかい、決してこの手袋を外しちゃいけないよ。お前のためにも、誰かのためにも……』
幼い頃から何度も言い聞かせられた、呪いのような愛の言葉。
それが、マリアの心臓を強く締め付ける。
(ごめんなさい、おばあちゃん……。私は、あなたの教えを守れない)
マリアは意を決し、手袋の袖口を掴んだ。
力任せに引きちぎるように、それを脱ぎ捨てる。
白い素肌が、暖炉の炎に赤く照らされる。
両親を殺した、呪われた、忌まわしい素手。
肌が空気に触れるだけで、まるで世界中の命を吸い取ってしまうかのような自己嫌悪がこみ上げるが、今はそれを飲み込む。
「お願い……通って!」
マリアは、素手のまま——けれど、決して触れないように慎重に距離を取り、狼の傷口の上に手をかざした。
遮るもののない掌から、練り上げた治癒の光を注ぎ込む。
——だが。
「え……?」
治癒の光は、傷口に届く直前で、まるで透明な壁に阻まれたように霧散してしまった。
いや、違う。
狼の傷口の奥から、どす黒く、禍々しい『何か』が溢れ出し、マリアの魔法を拒絶しているのだ。
(なに、これ……!?)
それは、ただの魔力ではなかった。
混沌と荒れ狂い、触れるものすべてを拒むような、不気味なオーラ。
まるで狼の体そのものが、外部からの干渉を許さない呪いの塊になっているかのようだ。
「どうして……!?治癒!」
マリアは焦り、さらに強く魔力を込める。
しかし、黒いオーラはマリアの治癒魔法を押し返し、弾き飛ばそうとする。
傷は塞がるどころか、その拒絶反応で狼が苦しげに呻き声を上げた。
(だめ……弾かれる!でも、ここで引いたらこの子は死んじゃう!)
焦りが募る。
力ずくでも、このオーラをねじ伏せて、傷を塞がなければ。
マリアは、額に脂汗を浮かべながら、全身全霊の魔力を掌に集めた。
黒いオーラに、自分の魔力を叩きつけるように押し込む。
「お願い……入って!!」
反発する力と、押し込む力。
その均衡が、一瞬で崩れた。
「あ……!」
勢いあまって、マリアの体がつんのめる。
支えを失った彼女の素手が、そのまま狼の血濡れた傷口に——
ベタリ、と触れてしまった。
「——っ!!」
しまった。
マリアは瞬時に凍りついた。
やってしまった。
私の呪いが、この子の命を止めてしまう。
殺してしまった。
だが——。
狼の呼吸が止まることはなかった。
それどころか、マリアの手が触れた瞬間、狼の体から荒れ狂っていたあの不気味な黒いオーラが、まるで鎮静剤を打たれたように、急速におとなしくなっていくのを感じた。
暴れていた力が、マリアの魔力に触れ、静まり返っていく。
(え……?)
狼の胸が、まだ微かに、だが規則正しく上下している。
傷口の熱が、掌に伝わってくる。
生きている。
私が触れているのに、死んでいない。
(生きてる……これなら、いける!)
マリアは困惑しながらも、好機を逃さなかった。
抵抗が消え、おとなしくなった傷口に、再び治癒の光を注ぎ込む。
今度は、弾かれない。
光は乾いた砂に水が染み込むように、素直に傷口へと吸い込まれていく。
みるみるうちに、裂けた肉がふさがり、血が止まっていく。
荒かった狼の呼吸が、安らかな寝息へと変わる。
「……よかった……」
マリアはその場へへたり込んだ。
助かった。助けられた。
そして——殺さなかった。
ふいに、狼のまぶたが震え、金色の瞳がゆっくりと開かれた。
狼は、上半身を起こすと、不思議そうに自分の傷があった場所を確認し、それからマリアを見つめた。
「クゥ……」
狼は、マリアにすり寄ると、感謝するように、その温かい舌でマリアの頬をひと舐めした。
「っ……!」
マリアは驚いて身を固くするが、すぐに力が抜けた。
温かい。
この子は、私の素肌に触れても、平気なんだ。
今まで生きてきて、唯一、私の素肌を許してくれた相手。
「……ありがとう、生きててくれて」
マリアは、涙ぐみながら狼の頭を撫でた。
柔らかい毛並みの感触を、手袋越しではなく、直接肌で感じる喜びが、胸を満たしていく。
その後、マリアは狼の血で汚れた体を蒸しタオルで綺麗に拭いてやり、床の掃除も終えた。
緊張の糸が切れると、どっと疲れが押し寄せてきた。
「もう、だめ……」
マリアはよろよろと工房の奥にある寝室へ向かう。
すると、狼がパタパタとしっぽを振りながらついてきて、当たり前のようにマリアの狭いベッドに飛び乗った。
「え、一緒に寝るの?」
狼は「クゥン」と甘えた声を出し、ベッドの半分以上を占領するようにして横たわった。
ただでさえ狭い一人用のベッドだ。
彼のような巨体の狼が乗れば、マリアが寝るスペースはほとんど残らない。
「……狭いんだけどなぁ」
マリアは苦笑いしたが、追い出す気にはなれなかった。
「……まあ、いっか」
彼女は残されたわずかなスペースに潜り込み、狼の体に身を寄せるようにして横になった。
窮屈だが、狼の背中から伝わる体温が、冷え切ったマリアの心と体を芯から温めてくれる。
(……あったかい)
マリアは、触れても平気だった狼に少しの喜びと安堵を感じながら、目の前にある銀灰色の毛並みに顔をうずめ、深い眠りへと落ちていった。
誰にも見られてはいけない、甘く、危険すぎる朝が待ち受けているとも知らずに——。




