第28話 『白』と、再会
そこは、何もない世界だった。
上も下も、右も左もない。
あるのは、果てしなく広がる純白の虚無だけ。
音も、匂いも、痛みもない。
恐怖に震える必要もない、絶対的な安息の場所。
その白い世界の中で、マリアは膝を抱えてうずくまっていた。
黒髪とローブだけが、この世界における唯一の色彩であり、異物だった。
彼女は硬く目を閉じ、耳を塞いでいる。
見たくない。聞きたくない。外の世界は、あまりにも恐ろしい。
私がいるだけで、誰かが死ぬ。誰かが傷つく。
――だから、もう何もしたくない。
「……いた、い……の?」
不意に、声がした。
それは、鈴を転がすような、けれど壊れた楽器のように途切れ途切れの、拙い声だった。
マリアがおそるおそる顔を上げると、目の前に誰かが立っていた。
鏡を見ているようだった。
背格好も、顔立ちも、マリアと瓜二つの少女。
けれど、決定的に違うことがあった。
その少女には、色がなかった。
マリアの漆黒の髪とは対照的な、雪のような純白の髪。
鉄錆色の瞳とは対照的な、すべてを見通すような白銀の瞳。
肌も、衣服も、その輪郭さえもが白く、背景の虚無に溶けてしまいそうなほどに朧げで、希薄だ。
「……だれ?」
マリアが震える声で問うと、白い少女は首をかしげた。
その動きには、人間らしい滑らかさがなく、糸の絡まった操り人形のように、酷くぎこちないものだった。
「わたし……は……あなた……」
白い少女の口が動く。
言葉は形を成す前に崩れかけ、耳障りなざらつきが混じったように響く。
「あなたが……こわい、から……わたし、が……まも、る……」
「まもる……?」
「そう……まもる……。いたいの……けす……。こわいの……けす……」
白い少女が、すうっと手を伸ばしてきた。
その手はマリアの頬に触れることなく、すり抜けるようにしてマリアの体へと重なっていく。
「わたし、が……すべて……かき、かえる……」
少女の姿が霧散し、マリアの中に溶け込んだ。
瞬間、マリアの意識は深い微睡の底へと沈んでいった。
―――もう、何も考えなくていい。この子が、全部、まもってくれる。
* * *
――現実世界。
朝霧に煙る森の中を、一人の少女が歩いていた。
うつむき加減で、ふらふらと、けれど迷いのない足取りで。
その瞳は光を失った漆黒。
少女の髪先は白く輝き、白い髪が揺れるたび、そこに触れた空気は歪み、ひずんでいく。
体から発せられるのは、この世のものとは思えない異質な魔力の波動。
少女の肩が、寒さで小さく震える。
次の瞬間、少女を中心として、パキパキパキッという音と共に、周囲の空間の温度定義がデタラメに書き換えられていく。
ある場所は灼熱に、ある場所は絶対零度に。
大気中の水分が異常凝固を起こし、美しい氷の結晶が花のように咲き乱れたかと思えば、隣の木は枯れ果てて灰になる。
鬱蒼と茂る木々が、少女の進行方向を塞ぐ。
少女が視線を向けるだけで、大木が飴細工のようにねじれ、道を開けるように左右へ避けていく。
物理法則を無視したその光景は、悪夢の中の散歩道のようだった。
彼女は、ただ不快なものを排除し、都合のいい世界へと塗り替えながら進んでいく。
そこに明確な意思があるのかすら定かではない。
ただ、定義された防衛機能のように、世界を壊し続けていた。
* * *
そうして、どれほど歩いただろうか。
少女は、森の奥深くに佇む、朽ち果てた建造物に辿り着いた。
屋根の落ちた廃教会。
かつては祈りの場であっただろうその場所は、今は蔦に覆われ、静寂に包まれている。
少女が歩くたび、その荒れた石畳は玉虫色の硝子へと変貌し、崩れた柱は飴細工のようにねじれていく。
蔦の絡まる壁は、無数の目玉のような幾何学模様がびっしりと浮き上がる。
「……、…………、……」
少女の口から、声にならない、掠れた音が漏れる。
彼女は祭壇の陰、埃を被った床に座り込んだ。膝を抱え、外界を拒絶するようにうずくまる。
その周囲の空間は、陽炎のようにゆらりと歪み、不協和音を奏でるようにきしんでいた。
不用意に踏み込めば、たちまちその身をねじ切られ、存在ごと塗りつぶされてしまうような、静かで濃密な『拒絶』が張り巡らされていく。
* * *
――ガサッ。
枯れ枝を踏む音が、静寂を破った。
廃教会の入り口に、銀色の影が現れる。
朝日を背に浴びて輝く毛並み。黄金色の瞳を持つ、巨大な狼――カインだった。
その後ろには、戦斧を構えたバルトも続いている。
「グルゥ……」
カインは鼻をひくつかせ、祭壇の陰にうずくまる小さな背中を見つけた。
間違いない。マリアだ。
だが、カインはすぐに駆け寄ることはしなかった。
彼女の周囲の空間が、陽炎のように歪み、狂っているのが目に見えたからだ。
うかつに近づけば、体ごとねじ切られるかもしれない。
それを、狼姿のカインは本能で感じ取っていた。
「マリア殿……!」
バルトが踏み出そうとするのを、カインは前に出て制した。
「だ、団長……でも、おひとりでは危険です……!」
心配するバルトを横目に、これ以上お前は来るな、危険だ、と言っているようなそぶりで、カインはふいと尻尾を振った。
カインは覚悟を決め、一歩、足を踏み出した。
その気配に、少女が顔を上げる。
漆黒に塗りつぶされた瞳と、黄金色の瞳が交錯する。
「……?」
少女は、小首をかしげた。その反応は、あまりにも異質だった。
再会の喜びも、安堵もない。
まるで、初めて見る未知の生物を観察するかのような、無機質な視線。
――彼女は、カインのことを認識していない。
「グルルゥ……」
カインが喉を鳴らし、一歩近づく。
だが、少女の反応は冷淡だった。
「……、…………、……」
少女の口から漏れたのは、マリアの声帯を使いながらも、抑揚のない機械的な響きだった。
「………、……」
少女が手をかざす。
瞬間、空間が軋み、カインの周囲の空間が狂い始める。
ミシミシと肉体が締め上げられる音が響く。
「グルッ……!」
カインは苦痛に顔を歪めたが、それでも足は止めなかった。
敵意を見せず、牙を剥くこともなく、ただゆっくりと、愛しい半身へと歩み寄る。
拒絶されようとも、忘れられようとも、君を受け止めるのは俺しかいないのだと伝えるように。
少女の眉が、ぴくりと動く。
判断に迷いが生じ、空間の歪みがわずかに緩む。
その隙に、カインは強靭な肉体で、陽炎のように歪んだ、その空間へ境目を強引に突破した。
皮膚がピリピリと焼けるように痛むが、そんなものは構わないとでも言うように。
カインはマリアの目の前まで歩み寄る。
すると、その場に伏せ、自分の大きな頭を、彼女の膝の上にそっと乗せた。
「……?」
少女の手が止まる。自然と、その手が狼の頭に触れる。
――温かい。
ふわふわとした毛並みの感触と、ドクンドクンと脈打つ鼓動。
そして、体温。
それは、冷え切っていたマリアの世界に、一番欠けていたものだった。
「……あった、かい……?」
少女は、不思議そうに自分の膝に乗った銀色の頭を見つめた。
触れていると、なぜか心地いい。
内側の深い場所で、何かが揺さぶられる感覚。
(……カイン、さん……?)
深い海の底から引き上げられていく感覚。
視界がだんだんと鮮明になっていく。
「……ぁ……」
マリアの瞳に、鉄錆色の光が戻る。
数回瞬きをして、焦点が合う。
目の前には、大好きな銀色の毛並み。
「……カイン、さん……?」
震える声で名前を呼ぶと、狼は嬉しそうに目を細め、マリアの頬をざらりとした舌で舐めた。
その感触に、マリアの目から涙が溢れ出す。
怖かった。寂しかった。でも、来てくれた。
「カインさん、カインさんっ……!」
マリアは狼の首に抱きつき、顔を埋めて泣きじゃくった。
カインの体が光に包まれる。
マリアが触れたことで、呪いが中和され、人の姿へと戻っていく。
光が収まると、そこには優しい微笑みをたたえたカインがいた。
彼は自分の胸で泣く少女を、力強く、それでいて壊れ物を扱うように優しく抱きしめ返した。
「……ごめん。遅くなって、ごめんよマリア」
「うわぁぁぁぁぁん!」
廃教会に、少女の泣き声と、それをあやす青年の穏やかな声が響く。
周囲に満ちていた殺気と、空間を軋ませていた圧力は、朝霧が晴れるように静かに消え去っていた。
だが、書き換えられた世界そのものが元に戻ることはない。
硝子へと変質した床、飴細工のようにねじれた柱、幾何学模様が浮き出た壁。
それらは朝日を浴びて、不気味でありながらも、息を呑むほど幻想的な輝きを放っていた。
その異質な光景を、入り口でバルトが呆然と見つめていた。
歪み、変貌してしまった世界の中で、互いの温もりを確かめ合うように抱き合う二人。
その姿は、彼が昨夜見た悪夢を完全に否定する、あまりにも神聖で美しい真実として、バルトの瞳に焼き付いた。




