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あなたの孤独をほどくまで  作者: らぴな
第2章 雪解けの旅路

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第27話 歪んだ世界

 ドドドドドッ……!


 早朝の冷え切った山道に、地鳴りのような蹄の音が響き渡った。


 限界まで酷使され、口元から白い泡を吹いて走る二頭の馬。


 その背に乗るカインとバルトの表情は、焦燥で張り詰めていた。

 流れる景色は飛ぶように後ろへ消えていくが、彼らの体感時間は泥沼のように重く、遅い。


 一秒でも早く。一瞬でも早く。


 その想いだけが、鞭となって馬を駆り立てていた。


「団長!見えました、あれが鉱山の入り口です!」


 バルトが前方を指差して叫ぶ。


 木々の切れ間、荒涼とした山肌に、ぽっかりと口を開けた巨大な闇が見えた。

 ついに辿り着いた。敵の隠れ家、マリアが囚われている場所へ。


 だが、二人が息を呑み、手綱を引いた理由は、その入り口そのものではなかった。


「な、なんだこれは……」


 カインが呆然と呟き、馬を止める。


 鉱山の入り口から、森の奥へと続く一本の獣道。

 そこだけが、まるで異世界から切り取って無理やり貼り付けたかのように、無惨に変貌していたのだ。


 枯れ草と土に覆われていたはずの地面は、極彩色の硝子のように透き通り、内側から不気味な光を放っている。

 道の両脇に生える木々は、高熱で溶かされた飴細工のように螺旋状にねじれ、その樹皮からは緑色の粘液が滴っていた。

 さらに岩肌を見れば、そこには自然界には存在し得ない、無数の目玉のような幾何学模様がびっしりと浮き出ている。


 美しいようでいて、生理的な嫌悪感を催す、冒涜的な光景。世界そのものが病に侵され、悲鳴を上げているかのようだった。


「……いったい、ここで何が起きているんだ」


 カインは呻くように呟いた。


 これは、魔法による破壊の痕跡ではない。

 爆発や斬撃で壊れたのならまだ理解できる。

 だが、これは違う。もっと根源的な、世界の構成ルールそのものが狂ってしまったかのような違和感。


 背筋を冷たいものが這い上がる。

 この先に待ち受けているものが、人知を超えた『何か』であることを、本能が激しく警告していた。


「団長、これは……」


「バルト、まずは中だ!まだ中にいるかもしれない!」


 カインは戦慄を振り払うように叫んだ。

 今は原因を究明している場合ではない。マリアの安否確認が最優先だ。


「は、はいッ!」


 二人は馬から飛び降りると、歪んだ地面を避けるようにして、暗い鉱山の中へと駆け込んだ。



* * *



 洞窟内部には、湿った空気と共に、独特の静けさが満ちていた。

 壁に掛けられた松明の明かりが揺らめき、二人の影を長く伸ばす。


 だが、そこには人の気配というものが、まるで感じられなかった。

 生活音も、話し声も、気配すらもない。


 あるのは、墓場のような静寂だけ。


「マリア! いるなら返事をしてくれ!!」


 カインの叫び声が、岩肌に反響して虚しく消えていく。  


 返事はない。


 焦りを募らせながら歩みを進めると、最奥にある鉄格子の前に、数人の人影が見えた。


 深紅のローブを着た男や、黒衣の術師たち。

 彼らが数名、折り重なるようにして地面に倒れ伏している。


「こいつらは……!」


 カインは剣の柄に手をかけつつ、慎重に近づいた。


 罠かもしれない。

 死んだふりをして待ち構えているのか。


 だが、彼らが動く気配はなかった。


 カインは倒れている男の一人の体を仰向けにし、確認する。


 男は白目を剥き、口から泡を吹いて完全に意識を失っていた。

 体は小刻みに痙攣しているが、首筋に触れると脈はある。

 他の者たちも同様だ。

 みな外傷はない。魔法で攻撃された形跡もない。


 だが、その表情は一様に凍りついていた。

 何かに心の底から怯えきり、精神の許容量を超えた恐怖によって、強制的に意識を手放したかのような顔だ。


「……気絶しているだけか。一体、何を見ればこれほど怯えるんだ」


 カインが眉をひそめた時、奥で別の男を確認していたバルトが、押し殺した声を上げた。


「団長……こちらは、駄目です」


 その声の深刻さに、カインは弾かれたように振り返った。


 バルトの足元には、一人の男が倒れていた。


 他の者たちとは違う。

 その顔からは生気が完全に抜け落ち、肌は土気色に変色し、石のように硬直している。


 ――死んでいる。


 それも、苦悶も抵抗もなく、魂ごと瞬時に抜き取られたような、あまりにも静かな死に顔で。


「マリアに……触れたのか」


 カインは拳を強く握りしめた。


 マリアの持つ停滞の力。触れたものの魔力の流れを止め、生命活動を停止させる力。


 ここで惨劇があったことは間違いない。

 男たちは何かをしようとし、マリアに触れ、彼女はそれを拒絶したということだ。


 だが、肝心のマリアの姿だけがどこにもない。


「団長!奥の牢も確認しましたが、マリア殿の姿はありません!」


 周辺を捜索していたバルトが、悲痛な声で報告に戻ってきた。


 カインは奥歯を噛み締め、開け放たれた出口を見据えた。

 あそこしかない。あの異質に変貌した道の先に。


「……やはり、外か」


 二人は急いで坑道を逆走し、外へと飛び出した。



* * *



 外の世界には、すでに朝日が昇り始めていた。


 山稜から差し込む眩しい陽光が、異質に変貌した森を照らし出し、その歪さを際立たせている。


 硝子の地面が光を反射し、ねじれた木々が長い影を落とす光景は、現実感を喪失させるほどに幻想的で、残酷だった。


 その時、カインの体がドクンと大きく波打った。


「くっ……時間、か……」


 カインはその場に膝をつき、胸元を抑えた。


 心臓が早鐘を打ち、血液が沸騰するような熱さが全身を駆け巡る。

 朝日と共に、体内の魔力循環が強制的に切り替わろうとしている。


「団長!?どうされました!」


 バルトが慌てて駆け寄ろうとする。カインはそれを片手で制し、苦悶の表情で顔を上げた。


「……バルト、どうか俺を信じてほしい」


「え?」


「姿が変わっても、俺には変わりないことを、理性を持たない魔獣ではないことを、どうか信じてくれ……」


 言い終わるのと同時だった。


 カインの全身から、カッと目も眩むような銀色の光が噴き出した。

 人の輪郭が崩れ落ち、四肢が太く長く伸び、銀色の毛並みが光の粒子となって体を覆っていく。


「……っ!?」


 バルトは息を呑み、たたらを踏んで後ずさった。


 目の前で起きた変貌。それは、昨夜、闇の中で見たあの恐ろしい魔獣の姿そのものだった。

 妻と娘を殺した、悪夢の具現化。

 トラウマが刺激され、反射的に背中の斧に手が伸びそうになる。


 だが。


 光が収まった後にそこにいたのは、理性を失い、涎を垂らして人を襲う化け物ではなかった。


「グルル……」


 銀色の狼は、静かにバルトを見上げた。


 その瞳。


 黄金色に輝くその瞳には、カインが人間だった時と変わらぬ、理知と、高潔な意志、そして深い悲しみが宿っていた。


「……やはり、団長、なのですか?」


 バルトの問いに、狼は頷く代わりに、ストンと腰を下ろしてお座りをした。

 敵意はない。あるのは、仲間に対する信頼だけ。


 バルトは斧から手を離し、その場に膝をついた。


 昨夜見た時は、恐怖と疑念に心を支配され、ただの怪物にしか見えなかった。

 だが、こうして真正面から向き合い、その目を見れば分かる。


 この狼は、人を食らう獣ではない。

 どんな姿になろうとも、中身は自分の尊敬する、高潔な魂を持った誇り高き騎士のままだ。


「……どうか、非礼をお許しください。私は、貴方のその瞳を信じます」


 狼――カインは、許すようにバルトの肩に鼻先を押し付けると、すぐに顔を上げ、森の奥へと視線を向けた。


 鼻をひくつかせ、空気中の匂いを探る。

 人間の五感では捉えきれない微かな痕跡も、獣の感覚ならば捉えられる。


 マリアの匂い。


 そして、空間が焦げ付いたような、異質な魔力の残り香。

 それらは、あの異様にねじれた道の方角へと続いていた。


「ワォォォォォォォンッ!!」


 カインは天を仰ぎ、長く、天を衝くような遠吠えを上げた。

 それは威嚇でも、単なる合図でもない。


 ――聞こえているか、マリア。  


 ――俺はここにいる。必ず、君を見つけ出す。


 どうか、この声が彼女に届きますように。

 どうか、彼女が無事でありますように。


 恐怖と孤独の中で震えているであろう大切な半身へ、自身の存在を告げる、切実な祈りのような叫びだった。


 その声は、朝の森にどこまでも響き渡り、歪んだ世界を震わせた。


「この先に、マリア殿が……?」


 バルトが立ち上がり、斧を構え直す。

 その顔にもう迷いはない。


 カインは短く唸ると、弾丸のように地面を蹴った。

 歪み、変貌した異界のような森の中へ、銀色の疾風となって飛び込んでいく。


 バルトもまた、遅れじとその後を追った。

 朝日の中、一人と一匹の影が、マリアを求めて森の奥深くへと消えていった。

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