第27話 歪んだ世界
ドドドドドッ……!
早朝の冷え切った山道に、地鳴りのような蹄の音が響き渡った。
限界まで酷使され、口元から白い泡を吹いて走る二頭の馬。
その背に乗るカインとバルトの表情は、焦燥で張り詰めていた。
流れる景色は飛ぶように後ろへ消えていくが、彼らの体感時間は泥沼のように重く、遅い。
一秒でも早く。一瞬でも早く。
その想いだけが、鞭となって馬を駆り立てていた。
「団長!見えました、あれが鉱山の入り口です!」
バルトが前方を指差して叫ぶ。
木々の切れ間、荒涼とした山肌に、ぽっかりと口を開けた巨大な闇が見えた。
ついに辿り着いた。敵の隠れ家、マリアが囚われている場所へ。
だが、二人が息を呑み、手綱を引いた理由は、その入り口そのものではなかった。
「な、なんだこれは……」
カインが呆然と呟き、馬を止める。
鉱山の入り口から、森の奥へと続く一本の獣道。
そこだけが、まるで異世界から切り取って無理やり貼り付けたかのように、無惨に変貌していたのだ。
枯れ草と土に覆われていたはずの地面は、極彩色の硝子のように透き通り、内側から不気味な光を放っている。
道の両脇に生える木々は、高熱で溶かされた飴細工のように螺旋状にねじれ、その樹皮からは緑色の粘液が滴っていた。
さらに岩肌を見れば、そこには自然界には存在し得ない、無数の目玉のような幾何学模様がびっしりと浮き出ている。
美しいようでいて、生理的な嫌悪感を催す、冒涜的な光景。世界そのものが病に侵され、悲鳴を上げているかのようだった。
「……いったい、ここで何が起きているんだ」
カインは呻くように呟いた。
これは、魔法による破壊の痕跡ではない。
爆発や斬撃で壊れたのならまだ理解できる。
だが、これは違う。もっと根源的な、世界の構成ルールそのものが狂ってしまったかのような違和感。
背筋を冷たいものが這い上がる。
この先に待ち受けているものが、人知を超えた『何か』であることを、本能が激しく警告していた。
「団長、これは……」
「バルト、まずは中だ!まだ中にいるかもしれない!」
カインは戦慄を振り払うように叫んだ。
今は原因を究明している場合ではない。マリアの安否確認が最優先だ。
「は、はいッ!」
二人は馬から飛び降りると、歪んだ地面を避けるようにして、暗い鉱山の中へと駆け込んだ。
* * *
洞窟内部には、湿った空気と共に、独特の静けさが満ちていた。
壁に掛けられた松明の明かりが揺らめき、二人の影を長く伸ばす。
だが、そこには人の気配というものが、まるで感じられなかった。
生活音も、話し声も、気配すらもない。
あるのは、墓場のような静寂だけ。
「マリア! いるなら返事をしてくれ!!」
カインの叫び声が、岩肌に反響して虚しく消えていく。
返事はない。
焦りを募らせながら歩みを進めると、最奥にある鉄格子の前に、数人の人影が見えた。
深紅のローブを着た男や、黒衣の術師たち。
彼らが数名、折り重なるようにして地面に倒れ伏している。
「こいつらは……!」
カインは剣の柄に手をかけつつ、慎重に近づいた。
罠かもしれない。
死んだふりをして待ち構えているのか。
だが、彼らが動く気配はなかった。
カインは倒れている男の一人の体を仰向けにし、確認する。
男は白目を剥き、口から泡を吹いて完全に意識を失っていた。
体は小刻みに痙攣しているが、首筋に触れると脈はある。
他の者たちも同様だ。
みな外傷はない。魔法で攻撃された形跡もない。
だが、その表情は一様に凍りついていた。
何かに心の底から怯えきり、精神の許容量を超えた恐怖によって、強制的に意識を手放したかのような顔だ。
「……気絶しているだけか。一体、何を見ればこれほど怯えるんだ」
カインが眉をひそめた時、奥で別の男を確認していたバルトが、押し殺した声を上げた。
「団長……こちらは、駄目です」
その声の深刻さに、カインは弾かれたように振り返った。
バルトの足元には、一人の男が倒れていた。
他の者たちとは違う。
その顔からは生気が完全に抜け落ち、肌は土気色に変色し、石のように硬直している。
――死んでいる。
それも、苦悶も抵抗もなく、魂ごと瞬時に抜き取られたような、あまりにも静かな死に顔で。
「マリアに……触れたのか」
カインは拳を強く握りしめた。
マリアの持つ停滞の力。触れたものの魔力の流れを止め、生命活動を停止させる力。
ここで惨劇があったことは間違いない。
男たちは何かをしようとし、マリアに触れ、彼女はそれを拒絶したということだ。
だが、肝心のマリアの姿だけがどこにもない。
「団長!奥の牢も確認しましたが、マリア殿の姿はありません!」
周辺を捜索していたバルトが、悲痛な声で報告に戻ってきた。
カインは奥歯を噛み締め、開け放たれた出口を見据えた。
あそこしかない。あの異質に変貌した道の先に。
「……やはり、外か」
二人は急いで坑道を逆走し、外へと飛び出した。
* * *
外の世界には、すでに朝日が昇り始めていた。
山稜から差し込む眩しい陽光が、異質に変貌した森を照らし出し、その歪さを際立たせている。
硝子の地面が光を反射し、ねじれた木々が長い影を落とす光景は、現実感を喪失させるほどに幻想的で、残酷だった。
その時、カインの体がドクンと大きく波打った。
「くっ……時間、か……」
カインはその場に膝をつき、胸元を抑えた。
心臓が早鐘を打ち、血液が沸騰するような熱さが全身を駆け巡る。
朝日と共に、体内の魔力循環が強制的に切り替わろうとしている。
「団長!?どうされました!」
バルトが慌てて駆け寄ろうとする。カインはそれを片手で制し、苦悶の表情で顔を上げた。
「……バルト、どうか俺を信じてほしい」
「え?」
「姿が変わっても、俺には変わりないことを、理性を持たない魔獣ではないことを、どうか信じてくれ……」
言い終わるのと同時だった。
カインの全身から、カッと目も眩むような銀色の光が噴き出した。
人の輪郭が崩れ落ち、四肢が太く長く伸び、銀色の毛並みが光の粒子となって体を覆っていく。
「……っ!?」
バルトは息を呑み、たたらを踏んで後ずさった。
目の前で起きた変貌。それは、昨夜、闇の中で見たあの恐ろしい魔獣の姿そのものだった。
妻と娘を殺した、悪夢の具現化。
トラウマが刺激され、反射的に背中の斧に手が伸びそうになる。
だが。
光が収まった後にそこにいたのは、理性を失い、涎を垂らして人を襲う化け物ではなかった。
「グルル……」
銀色の狼は、静かにバルトを見上げた。
その瞳。
黄金色に輝くその瞳には、カインが人間だった時と変わらぬ、理知と、高潔な意志、そして深い悲しみが宿っていた。
「……やはり、団長、なのですか?」
バルトの問いに、狼は頷く代わりに、ストンと腰を下ろしてお座りをした。
敵意はない。あるのは、仲間に対する信頼だけ。
バルトは斧から手を離し、その場に膝をついた。
昨夜見た時は、恐怖と疑念に心を支配され、ただの怪物にしか見えなかった。
だが、こうして真正面から向き合い、その目を見れば分かる。
この狼は、人を食らう獣ではない。
どんな姿になろうとも、中身は自分の尊敬する、高潔な魂を持った誇り高き騎士のままだ。
「……どうか、非礼をお許しください。私は、貴方のその瞳を信じます」
狼――カインは、許すようにバルトの肩に鼻先を押し付けると、すぐに顔を上げ、森の奥へと視線を向けた。
鼻をひくつかせ、空気中の匂いを探る。
人間の五感では捉えきれない微かな痕跡も、獣の感覚ならば捉えられる。
マリアの匂い。
そして、空間が焦げ付いたような、異質な魔力の残り香。
それらは、あの異様にねじれた道の方角へと続いていた。
「ワォォォォォォォンッ!!」
カインは天を仰ぎ、長く、天を衝くような遠吠えを上げた。
それは威嚇でも、単なる合図でもない。
――聞こえているか、マリア。
――俺はここにいる。必ず、君を見つけ出す。
どうか、この声が彼女に届きますように。
どうか、彼女が無事でありますように。
恐怖と孤独の中で震えているであろう大切な半身へ、自身の存在を告げる、切実な祈りのような叫びだった。
その声は、朝の森にどこまでも響き渡り、歪んだ世界を震わせた。
「この先に、マリア殿が……?」
バルトが立ち上がり、斧を構え直す。
その顔にもう迷いはない。
カインは短く唸ると、弾丸のように地面を蹴った。
歪み、変貌した異界のような森の中へ、銀色の疾風となって飛び込んでいく。
バルトもまた、遅れじとその後を追った。
朝日の中、一人と一匹の影が、マリアを求めて森の奥深くへと消えていった。




