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あなたの孤独をほどくまで  作者: らぴな
第2章 雪解けの旅路

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第26話 拒絶の果て、空虚な器

 闇夜を切り裂くように、二頭の早馬が街道を駆けていく。

 カインは手綱を握る手に血が滲むほど力を込め、前傾姿勢で馬の腹を蹴った。


「くそっ、もっと速く……!」


 焦燥感が、胸の中で灼熱の鉛となって暴れ回る。


 冷たい夜風が頬を叩くが、カインの背中は脂汗で濡れていた。

 脳裏に焼き付いているのは、自分の不注意で引き起こしてしまったバルトとのすれ違い。

 そしてその隙を突かれて連れ去られた、マリアだ。


(俺が、もっと冷静であれば。あの時、マリアから離れなければ……!)


 後悔は波のように押し寄せるが、今はそれを噛み締めている時間すらない。


 並走するバルトもまた、無言で前を見据えていた。

 その横顔には、自身の過ちを雪がんとする鬼気迫る決意が張り付いている。


「団長。馬を潰す気で走らせれば、夜明け前には鉱山へ着きます」


「ああ。 頼む、間に合ってくれ……!」


 カインは祈るように夜空を見上げた。

 北西の方角、分厚い雲の向こうに、不吉な闇が広がっているように見えた。



* * *



 カインたちが馬を走らせている頃。


 北西の山岳地帯、廃鉱山を利用した隠れ家の奥深く。

 湿った岩肌が剥き出しの地下空洞に、松明の明かりが揺らめいていた。


 その最奥、鉄格子で仕切られた牢の中。

 冷たい石床の感触に、マリアはようやく意識を取り戻した。


「……う、ぅ……」


 マリアは身を起こし、ズキズキと痛む頭を振った。

 薄暗い視界。鉄格子の冷たい輝き。

 状況を把握しようと、無意識に自身の体を抱きしめた、その時だった。


「――ッ!?」


 マリアの顔から、一瞬にして血の気が引いた。


 左手。

 常に身につけていたはずの、祖母の形見の手袋がない。

 素肌が、剥き出しになっている。


(嘘、どうして……!?あの時、外れてしまったの……?)


 恐怖で指先が震える。


 マリアにとって、その手袋はただの衣類ではない。


 自身の呪われた力――触れたものの魔力を停滞させ、命を奪ってしまう力。

 それを隠すための、身を守る、唯一の安全装置なのだ。


 記憶はないが、運ばれている間は誰にも触れずに済んだのだろう。


 だが、今は違う。

 もし、この手で誰かに触れてしまったら。


「目が覚めたか、お姫様」


 鉄格子の向こうから、粘着質な声が掛かった。


 深紅のローブの男――宿場町で出会った、リーダー格の男と、その部下たちが立っている。

 彼らの纏う空気は、澱んだ沼のように不快だった。


 マリアは反射的に素手の左手を袖で覆うと、身を縮こまらせた。


「あなたたちは……だれなんですか。どうして、カインさんじゃなくて私を……」


 マリアが精一杯の声を絞り出すと、男は可笑しそうに肩を震わせた。


「カイン? ああ、あの獣に堕ちた元騎士団長のことか」


 男は興味なさそうに手を振った。


「あんなものは、ただの餌だよ。我々に資金と場所を提供する、あの愚かな貴族達にとっては目の敵らしいが……我々にとってはどうでもいい存在だ」


 男の言葉に、周囲の部下たちも下卑た笑いを漏らす。


 彼らの会話から、マリアは言い知れぬ違和感を覚えた。


 彼らが追撃隊なのであれば、カインを執拗に追っていたはずだ。

 なのに、この男からはカインに対する殺意や敵意を感じない。


 あるのは、もっと別の、底知れない欲望。


「当初の予定では、副団長を黒魔法に染め……精神干渉の度合いを観測する目的だったが……まさか、こんな辺境で『至宝』を見つけるとは」


 男は恍惚とした表情で、マリアを値踏みするように見つめた。


 その視線は、人間を見る目ではない。

 珍しい鉱石や、解剖前の実験動物を見る目だ。


「その身に宿した、異質な魔力……いや、魔力と呼ぶにはまぶしいその力。素晴らしい。つまらぬ者どもにはもう用はない。お前こそが、我らが『主』へ捧げる最高の供物となるだろう」


「供物……?何を、言っているのですか……?」


 男の瞳に宿る狂気に、マリアの背筋が凍りついた。


 彼らは、カインたちには目もくれていない。

 自分という存在を、モノとして解剖し、使い潰そうとしているようにさえ感じる。


「さあ、まずはその力の源泉を調べさせてもらおうか。……おい、連れてこい」


 男が顎でしゃくると、鉄格子の鍵が開けられ、二人の部下がにじり寄ってきた。

 一人は薄汚れた笑顔を浮かべ、もう一人は手枷を持っている。


「こ、来ないで!」


 マリアは後ずさるが、背中はすぐに冷たい岩肌にぶつかった。

 逃げ場はない。袖の中に隠した左手を、必死に庇う。


「暴れるなよ、嬢ちゃん。痛い目には遭わせたくないんだ」


 部下の一人が、無造作に手を伸ばしてきた。

 狙われたのは、マリアが隠そうとしていた左腕だった。


「だめッ!触らないで!」


 マリアは叫んだ。


 自分の身を守るためではない。

 相手を殺さないために。


 だが、部下はその警告を「ただの抵抗」と受け取った。


「往生際が悪いぞッ!」


 男が粗暴な手つきで、マリアの袖の中から左腕を無理やり引きずり出す。

 抵抗する間もなく、剥き出しになった白く華奢な手首に、武骨な掌が直接食い込んだ。


 ――刹那。


「あ――」


 男の喉から、間の抜けた呼気が漏れる。


 次の動作に移るはずだった肉体は、まるで電源を落とされた機械のように唐突に制御を失い、その場に崩れ落ちた。


 男は床に倒れ伏し、ピクリとも動かない。


 マリアの肌に触れた箇所から、体内を巡る魔力の循環が強制的に停滞し、生命活動そのものが凍りついたのだ。

 心臓は止まり、肺は空気を取り込むことを忘れた。

 その顔からは急速に生気が失われ、土気色に変色していく。


 ――即死だった。


「……え?」


 もう一人の部下が、足元に転がった仲間を見下ろし、凍りついた。


 何が起きたのか理解できない。外傷はない。

 魔法が発動した気配すらなかった。


 ただ触れただけで、倒れた。


「な、なんだ……何をした!?」


 部下が恐怖に顔を歪め、腰の短剣を抜いてマリアに向けた。


 マリア自身も、自分の震える左手を見つめ、絶望に打ちひしがれていた。


 やってしまった。

 私の力は、触れたものの時間を止め、命の灯火を奪いかねない呪われた力なのに。


 祖母にきつく言われていた『素手で触れてはいけない』と。


「ち、違う……私は……」


「化け物めッ!」


 恐怖に駆られた部下が、短剣を振り上げる。


 その殺気に、マリアの思考が白く染まった。


 怖い。カインさんに会いたい。もう嫌だ。

 私のせいで誰かが傷つくのも、私が傷つけられるのも。

 誰も、動かないで。何も、来ないで。全部、全部。


 もう―――。


「――やめてッ!!」


 マリアは頭を抱え、喉が裂けんばかりに絶叫した。


 その瞬間、彼女の中にあるもう一つの力――『改変』の力が、拒絶の感情に反応する。


 キィィン……。


 爆音ではない。


 針のように細く、それでいて脳髄の奥底を直接掻き回すような、静かで不快な耳鳴りが全員の鼓膜を震わせた。


 世界が、瞬いた。


 マリアを中心として、空間そのものが歪に脈打ち始める。


 湿った岩肌が、あり得ない角度にねじ曲がったかと思えば、次の瞬間には何事もなかったかのように元に戻る。

 土気色だった地面が、突如として油膜のような極彩色に濡れそぼり、瞬きする間にまた乾いた土へと戻る。


 まるで、この世界を描いている絵の具が溶け出し、現実という織物の継ぎ目が綻びてしまったかのような、冒涜的な光景。


「ぐ、ぅ……?」


 短剣を振り下ろそうとしていた部下が、リーダー格の男が、そして周囲にいた魔術師たちが、一斉に硬直した。


 石化ではない。金縛りとも違う。  


 彼らの肉体を取り巻く空間の法則ルールだけが、デタラメに書き換えられていた。


「な、なんだこの、吐き気がする、力は……」


 リーダー格の男が、脂汗を流しながら呻く。


 呼吸はできる。喉も震える。意識も鮮明だ。

 だが、指先一つ、ピクリとも動かせない。


 まるで、自分という存在が、透明な樹脂の中に封じ込められた昆虫になったかのような、あるいは世界そのものから、動くことを拒絶されたかのような、絶対的な拘束感。


 視界の端で、空間が荒い砂を撒いたようにざらつき、明滅を繰り返している。

 平衡感覚が狂い、天地が逆転したような錯覚と、強烈な嘔吐感が男たちを襲う。

 それは、人が触れてはならない深淵の扉が開いた気配だった。


「……な、ぜ……体、が……言うことを……」


 リーダー格の男は、眼球だけを動かしてマリアを見た。


 恐怖。ただの魔術師ではない。

 これは、もっと根源的で、おぞましい『何か』だ。


 明滅する視界の中で、男たちは縫い付けられたように立ち尽くすしかない。

 不気味に歪み続ける空間の中で、荒い息を吐いていたはずのマリアの呼吸が、不意に止まった。


「――――」


 嗚咽も、絶叫も、唐突に途切れた。


 マリアは、震える足でゆっくりと立ち上がった。

 その動きは、人間というよりは、精巧に作られた自動人形がゼンマイを巻かれたかのような、酷く無機質なものだった。


 ゆらりと、マリアが顔を上げ、男と視線が交錯する。


「ひっ……」


 男の喉から、悲鳴にもならない空気が漏れた。


 少女の顔からは、先ほどまでの怯えも、悲しみも、何一つ残っていなかった。

 表情筋が死滅したかのように、能面のような『無』だけが張り付いている。


 そして、その瞳。


 かつて鉄錆色を宿していたはずの虹彩は、光を一切反射しない漆黒へと変貌していた。


 どこを見ているのか、焦点すら定まっていない。

 ただ虚空を映すだけのその瞳は、覗き込めば二度と帰ってこられない深淵のような、底知れぬ暗黒を湛えていた。


 恐怖と拒絶の果てに、彼女の人格こころは、どこか手の届かない場所へと乖離してしまったかのようだった。


 だというのに、体は動いている。


 そこに意思があるのかすら定かではない。

 ただ、空っぽになったはずの肉体が、何かに突き動かされるように機能しているという事実だけが、異様な存在感を放っていた。


 ただ一つ確かなことは、そこに立っている少女が、周囲の空間をきしませるほどに異質な存在へと変貌してしまったという事実だけ。


 マリアは、目の前で固まっている男になど興味を示さず、虚ろな瞳で虚空を見つめた。


 カツ、カツ。


 硬質な足音が、静寂に響く。


 少女は冷たい石床を踏みしめて歩き出した。

 彼女の白い肌だけが、衣服と深い色のローブや手袋の対比で酷く浮いて見えた。


 開いたままの鉄格子をすり抜け、出口へと向かう。

 その足取りは、とぼとぼと頼りなく、それでいて迷いがない。


 彼女が通り過ぎるたび、空間の歪みが波紋のように広がり、男たちの意識を削り取っていく。


 誰も、彼女を止められない。

 声をかけることすら許されない。


 やがて少女の姿は、坑道の入り口へと吸い込まれるように消えていった。

 その体を動かしているのは何者なのか。

 残された魔術師たちにも、そして本人にすら、理解することはできなかった。

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