第25話 消える光と、蒼氷の道標
路地裏に、重苦しい沈黙が落ちていた。
深紅のローブの男が消え去った後、そこには絶望に打ちひしがれた三人の男と、冷たい石畳だけが残されていた。
「……あ、ああ……」
バルトの手から、巨大な戦斧が滑り落ち、ガシャン、と乾いた音を立てた。
彼はその場に膝をつき、震える手で顔を覆う。
「私は、なんと愚かな……。ヴァルロアの甘言を信じ、あまつさえマリア殿を危険に晒し、団長に刃を……」
悔恨の涙が、再び彼の頬を伝う。
深紅のローブの男が去ったことで、胸にあった混沌の媒体は砕け散り、狂気は去った。
だが、正気に戻ったからこそ、自分の犯した罪の重さがのしかかる。
そして、彼の中には未だ消えない棘があった。
(……だが、あの銀色の獣は)
バルトは、膝をつくカインを見つめた。
今は人の姿をしている。
だが、先ほど目の前で変じた姿は、紛れもなく魔獣だった。
なぜまた人の姿を保っている?あの獣は?
本当に違うのか?団長は、本当に潔白なのか?
疑念と忠誠、そして罪悪感が綯い交ぜになり、バルトの心を掻き乱す。
ガシッ――。
「バルト、しっかりするんだ!」
カインがバルトの肩を強く掴み、無理やり立たせた。
その瞳に怒りはなく、あるのは焦燥と、マリアを救い出そうとする強い意志だけだった。
「だん、ちょう……」
「お前の疑念もわかる。だが説明は後だ。マリアが連れ去られんだ。……お前の力も貸してくれ」
「し、しかし……。敵は転移魔法を使いました。今から闇雲に探しても……」
バルトが悲痛な声を上げる。
その時、ルーカスが石畳の上にかがみ込んだ。
「……」
彼が拾い上げたのは、ぽつんと取り残された、片方だけの薄暗い色の手袋だった。
マリアが常に身につけていた、祖母の形見。
連れ去られる際に弾き飛ばされたものだ。
「ルーカス殿!何か、何か手立てはないのか!私の命などどうなっても構わん、彼女を見つける方法は……!」
バルトが必死の形相で詰め寄る。
ルーカスは手袋を握りしめ、短く息を吐いた。
「……ないわけじゃない」
「あるのか!?」
「だが、リスクがある。……ここでは目立ちすぎる。宿に戻るよ」
ルーカスは厳しい表情で促し、三人は転がるようにして宿の部屋へと戻った。
* * *
宿の一室。
部屋の中は、息をするのも憚かられるような、重く冷たい沈黙に支配されていた。
「敵は転移魔法で逃げた。足跡も匂いも残っていない。通常なら追跡は不可能だ。……だが、これがある」
彼は手袋を掲げて見せる。
「これに残ったマリアの微量な魔力を道標にして、彼女の現在位置を特定する。……だが、方角も距離も分からない中、全方位に向けて無作為に探知の網を広げるには、桁外れの魔力が必要になる」
「つまり、どういうことだ」
「僕の魔力が空っぽになるってことさ。術を使えば、僕はしばらくここから動けなくなる。……カイン、バルト副団長。君たちだけで追うことになるが、やれるか?」
「愚問だ」
カインが即答し、バルトも力強く頷く。
「私の命に代えても、必ず!」
「……よし。なら、始めよう」
ルーカスはその場に膝をつき、手袋を床に置いた。
彼は深く息を吸い込み、両手を床にかざす。
「――展開」
静かな詠唱と共に、部屋の空気が一変した。
キィィィン、という耳鳴りのような音が響く。
ルーカスの体を中心にして、床板の上に青白い光の線が走り始めた。
それはまるで、見えない筆で描かれる複雑怪奇な幾何学模様だった。
光の線は幾重にも重なり、回転し、部屋全体を覆う巨大な魔法陣へと組み上がっていく。
(な、なんだこれは……)
魔法に疎いバルトでも、肌にピリピリと突き刺さるような圧を感じて後ずさる。
ルーカスの全身から、膨大な魔力が湯気のように立ち上っている。
部屋の温度が急激に下がり、吐く息が白くなった。
窓ガラスには霜が張り付き、ピキピキと音を立てる。
「……理論は分かるが……」
カインは、そのあまりの光景に言葉を失った。
騎士団長として、ある程度の魔法の知識があるからこそ、理解できてしまう。
今、目の前で行われていることが、どれほど常軌を逸したデタラメであるかが。
彼は、極限の集中状態にある友を邪魔せぬよう、喉奥で小さく呻くように呟いた。
「……人間技じゃないな」
並の魔術師であれば、数秒で廃人になるほどの魔力消費。
それを、ルーカスは顔色一つ変えずに――いや、命を削るような形相で、しかし完璧に制御し続けている。
その光景は、美しいと同時に、底知れない深淵を覗き込むような恐ろしさがあった。
床に描かれた魔法陣は脈動し、その中心でルーカスは苦悶の表情を浮かべている。
額から玉のような汗が流れ落ちるが、頬に伝う前に凍りついていく。
「探せ……探せ……ッ!」
ルーカスが歯を食いしばる。
彼のエメラルドブルーの瞳が、人間離れした蒼光を放つ。
自身の内にある膨大な魔力を、惜しげもなく汲み上げ、それを極細の糸のように繊細に制御して世界へ走らせる。
圧倒的な魔力総量と、それを御する神業のような演算能力があって初めて成立する、ルーカスにしか行えない大規模探知術式。
バルトとカインは、息をするのも忘れてその光景を見守った。
数秒が、数時間にも感じられる緊張の時間。
――やがて。
床に置かれた手袋が、ふわりと宙に浮いた。
それはまるで、持ち主の魂を呼ぶように微かに震え――手袋を中心として、目には見えない魔力の波紋が爆発的に広がった。
カインたちには風圧しか感じられない。
だが、ルーカスの瞳には映っていた。
世界中に拡散した魔力の糸が、たった一つの「答え」に向かって収束していく光景が。
「……そこかッ!」
ルーカスが叫ぶと同時に、魔法陣の光が弾け飛び、支えを失った手袋がパサリと床に落ちる。
ガクン、とルーカスの体が崩れ落ちた。
「ルキ!」
カインが慌てて駆け寄り、友の身体を支える。
ルーカスの顔色は紙のように白く、荒い呼吸を繰り返しているが、その瞳には確かな光があった。
彼は震える指で、窓の外、北西の夜空を指差した。
「……北西、だ。距離は……ここから馬で半日……古き捨てられた鉱山に、反応が、ある……」
「北西の鉱山だな。分かった!」
「……行ってくれ。……マリアを、頼むよ」
ルーカスはカインの胸を押し、力なく笑った。
カインは強く頷き、バルトへと向き直る。
「行くぞ、バルト!マリアを取り戻す!」
「はいッ!!」
二人の騎士は風のように部屋を飛び出した。
ドタドタという足音が遠ざかり、宿の外へと消えていく。
残された冷え切った部屋で、ルーカスは床に大の字に寝転がった。
魔力欠乏による強烈な倦怠感が、鉛のように身体を縛り付けている。
指一本動かすのも億劫なはずだった。
だが、彼は震える手を伸ばし、床に落ちた薄暗い色の手袋を拾い上げる。
それは、彼女が大切にしていた祖母の形見。
壊れ物を扱うように優しく握りしめ、胸元へと引き寄せた。
かつて触れた彼女の無垢な温もりが、指先の記憶として鮮やかに蘇ってくる。
その幻のような熱が、凍てついた彼の心臓を、トクリと揺らした。
「……無事でいてくれよ、マリア」
天井を見上げたまま漏らしたその声は、言葉とは裏腹に、いつもの皮肉めいた響きなど微塵もない、切実な祈りに満ちていた。
ルーカスは、疼く胸の痛みに蓋をするように、片腕で自らの視界を覆った。
腕で作った暗闇の中で、ふっ、と自嘲気味な笑いが漏れる。
「……君がいなくなると、カインの奴がうるさいんだ」
それは、誰に対する言い訳だったのか。
誰もいなくなった凍てつく部屋の中で、ルーカスは手袋を握る手に、さらに強く力を込めた。
ただひたすらに、彼女の無事を願って。




