第24話 すれ違う刃
「死んで償え、化け物ォッ!!」
バルトの咆哮が、夜の路地裏を震わせた。
彼が振り上げた巨大な戦斧は、月光を鈍く反射し、カインの首を断ち切らんと迫る。
狼となったカインは、かつての部下に刃を向けられ、悲しげに喉を鳴らして後ずさる。
その動きには、迎撃の意思も、殺意のかけらもない。
ただ、信じる部下を傷つけまいとする迷いだけがあった。
だが、バルトには届かない。
彼の瞳は血走り、焦点が定まっていないかのように揺らいでいる。
「グルッ!」
カインは紙一重で戦斧の一撃をかわした。
石畳が砕け、破片が飛び散る。
追撃。重い斧を羽根のように操るバルトの剛腕が、カインの逃げ場を塞ぐように横薙ぎに振るわれる。
避けきれない――カインが覚悟を決めて身を固くした、その刹那。
「――氷壁!」
鋭い詠唱と共に、カインとバルトの間に分厚い氷の壁が出現した。
ガギィィンッ!
戦斧が氷壁に食い込み、亀裂が走る。
直後、食い込んだ戦斧の先端を蒼い氷が包み込んだ。
それは、腕を伸ばすかのようにバルトの動きを固定していく。
「まったく。見ていられないな……!」
宿の勝手口から飛び出してきたルーカスが、その手を前方にかざしていた。
冷たい魔法の残滓が、あたりの空気を震わせる。
「マリア、離れるなよ!」
「は、はい!」
ルーカスはマリアを背に庇いながら、冷徹な瞳でバルトを睨みつけた。
「副団長殿、少し頭を冷やしたらどうだい?相手が誰だか分かって振るっているのか」
「邪魔をするな、師団長!貴様もその化け物に魂を売ったか!」
バルトは聞く耳を持たない。
その異様な興奮状態に、ルーカスは眉をひそめた。
(……おかしい。実直な彼が、ここまで理性を欠くか?)
氷壁に戦斧を固定され、身動きの取れないバルト見て、マリアが叫んだ。
「カインさん!」
マリアが呼び、その腕から手袋を引き抜く。
カインもその意図を察し、身を低くしてマリアのもとへ駆け出す。
マリアの素手が銀色の狼の額に触れた。
――カッ!
淡い光が溢れ出し、獣の輪郭が溶けていく。
光が収まると、そこには苦悶の表情を浮かべた人間のカインが、片膝をついて荒い息を吐いていた。
「……はぁ、はぁ……っ。すまない、マリア。助かった」
人の姿に戻ったカインを見て、バルトの動きが止まる。
その瞳に、困惑の色が浮かんだ。
「……な、ぜ……。魔獣が、人に……?」
ヴァルロアの言葉では、カインは完全に理性を失った獣のはずだった。
なぜ人の姿を取っていたかはわからない。
獣の姿へ変貌した様子を見て確信したはずの何かは、目の前の、いつもの高潔な騎士団長が少女を気遣う様子に、揺れ動く。
「バルト、目を覚ませ!俺だ、カインだ!」
「だ、団長……?ですが、貴方は……」
バルトが戦斧を氷壁から引き抜こうと抵抗した、その時だった。
彼の胸元、鎧の隙間から、ドス黒い紫色の靄が漏れ出した。
「――ウ、グァァァァッ!!」
バルトが突然、頭を抱えて絶叫した。
彼の瞳から困惑の色が消え去り、再び濁った殺意が塗りつぶしていく。
「騙されん……騙されんぞッ!!それは幻術だ!私の家族を奪った化け物が、人の皮を被って欺こうなどと!!」
「バルト!?」
「死ねぇぇぇッ!!」
バルトの筋肉が異常に膨張し、血管が浮き上がる。
頑丈に固定されたままの戦斧を、まるで水面から引き抜くかの如く、氷壁を粉砕し、力任せに振るった。
繰り出された戦斧の一撃は、先ほどまでの比ではなかった。
カインは咄嗟に剣を抜き、受け止めるが、その重さに膝が折れそうになる。
「ぐっ……!なんて馬鹿力だ……!」
「カイン!」
ルーカスが援護に入り、風の刃を放つが、バルトはそれを身一つで弾き返した。
鎧の上からでも分かるほど、彼の身体能力は常軌を逸している。
「……チッ。やっぱりか」
ルーカスが舌打ちをする。
彼の鋭い観察眼は、バルトの異変の正体を捉えていた。
「カイン、あれを見ろ!彼の胸元だ!」
「胸元……?」
カインが剣を押し返しながら目を凝らす。
マリアも、バルトの鎧の隙間に、不気味に明滅する『何か』を見た。
「……あ、あれは……混沌の魔素……?黒魔術……!?」
マリアが息を呑む。
バルトの首にかかったペンダントのようなものから、どす黒い粘着質の魔力が溢れ出し、彼の心臓へと直接流れ込んでいる。
それは、負の感情を増幅させ、理性を食い破り、対象を狂戦士へと変える呪いの媒体。
「くそっ、ヴァルロアの仕業か!バルトを利用するだけでは飽き足らず、こんなものまで……!」
カインが激昂する。
だが、強化されたバルトの猛攻は止まらない。
カインとルーカスは、マリアを背に庇いながら、防戦一方に追い込まれていく。
「ハハハ……素晴らしい検証結果だ!」
――その時。
頭上から、場違いなほど楽しげな声が降ってきた。
「誰だ!」
カインたちが一斉に見上げる。
宿の屋根の上、月光を背に、一人の男が浮いていた。
深紅のローブを纏い、顔をフードで隠した魔術師。
その手には、バルトの胸にあるものと同じ、禍々しい魔力を帯びた水晶が握られている。
「貴様、黒魔術師だな!……バルトを操っているのか!」
「人聞きが悪いな。私はただ、彼に力を与えただけだよ。混沌の魔素――黒魔術が人体にどのような変異をもたらすか……その実証実験のためにね」
男は水晶を指先で弄びながら、眼下の死闘を見下ろす。
「素晴らしいよ、副団長。憎悪という感情は、これほどまでに黒魔術と相性がいいとはね」
「貴様ッ……!」
カインが怒りに震え、跳躍しようとする。
だが、その隙を突いて、理性を失ったバルトが斧を振り下ろしてきた。
「おのれェェェ!」
「しまっ――」
カインとルーカスは、暴走するバルトの対応に追われ、上空の敵に手が回らない。
二人がバルトを抑え込もうと必死になっている最中、ローブの男の視線が、ふと後方にいるマリアに向けられた。
「……ん? あの娘」
男の目が、フードの奥で怪しく光った。
彼には見えていた。
マリアの身から立ち上る、異質で、それでいて純粋な魔力の輝きが。
「ほう……。これはまた、珍しい素材だ」
男の興味が、バルトの実験から、マリアへと移る。
カインたちはバルトに釘付け、マリアだけはその場に無防備に立っている。
男は音もなく屋根から滑り降りると、風のようにマリアの背後へと回り込んだ。
その、微かな魔力の揺らぎに気づいた者が、一人だけいた。
「――ッ!?」
ルーカスだ。
バルトの猛攻を魔法で防ぎながらも、常に周囲へ張り巡らせていた彼の探知網が、マリアに迫る死角からの殺意を捉えたのだ。
「マリア!後ろだッ!!」
ルーカスが叫ぶ。
同時に、構築していた対バルト用の防御魔法を捨て、マリアの元へと飛び出そうとする。
だが、バルトの振るう戦斧の暴風が、その一歩を阻んだ。
「しまっ……間に合わな――」
ルーカスの警告に、マリアがハッとして振り返る。
だが、その時にはもう、深紅のローブが目の前に迫っていた。
「いらっしゃい、お姫様」
男の手が伸びる。マリアは反射的に、手で顔を庇おうとした。
「やめ――」
叫び声は、男が放った無詠唱の風魔法によって封じられた。
不可視の突風が、マリアの体を打ち据える。
ヒュンッ――。
衝撃で、マリアの左手にはめられていた手袋が、留め具ごと弾け飛んだ。
深い色の手袋が、宙を舞い、泥の上に落ちる。
「……っ、う……」
マリアの意識が、急速に遠のいていく。
男の放った睡眠の魔術だ。
崩れ落ちるマリアの体を、男は重力操作の魔法でふわりと浮かせた。
「マリアッ!!」
ルーカスの叫びで異変に気づいたカインが絶叫する。
だが、バルトの巨体が壁となって立ちはだかる。
「どけぇぇッ!!」
カインが渾身の力でバルトを弾き飛ばすが、時すでに遅かった。
「君たちは用済みだ。必要なものも手に入れたことだし、私はこれで失礼するよ」
男は気絶したマリアごと、嘲笑を残して闇の中へと溶けるように転移した。
「マリアァァッ!!」
カインの悲痛な叫びが、虚しく夜空に響き渡る。
路地裏には、絶望に膝をついたカインと、狂乱から解き放たれ、糸が切れたように崩れ落ちたバルト。
そして、冷たい石畳の上に、主を失った片方の手袋だけがポツリと残されていた。




