第23話 重なる悪夢
宿の廊下。
バルトは、背後で閉ざされた扉のノブから手を離すと、その場に立ち尽くしたまま、深いため息をついた。
「……団長」
太い眉が苦渋に歪み、膝の横で拳が強く握りしめられる。
脳裏に焼き付いているのは、先ほどのカインの笑顔だ。
『心配には及ばない』
そう言ったカインの表情は、バルトがよく知る、頼れる騎士団長そのものだった。
だが、その膝の上で、拳は白く変色するほど握りしめられていた。
(なぜ、嘘をつくのですか……)
バルトの胸中を、黒い疑念が侵食していく。
団長は嘘をつくとき、決まって気丈に笑い、拳を固く握りしめる――。
体に何の異変もないのなら、そんなことはしなかったはずだ。
本当に潔白ならば、長年連れ添った自分に、真実を話してくれるはずではないのか。
それとも、話せない事情があるのではないか。
自分はそんなにも信用に置けない存在なのか。
(やはり、ヴァルロアの言葉は真実だったのか?貴方は、本当に……いや……)
そこまで考え、バルトはかぶりを振った。
信じたくない。
だが、騎士として、そして家族を奪われた父として、真実から目を背けたまま従うわけにはいかない。
「……確かめなければ」
バルトは顔を上げた。
その瞳からは、温かい忠義の色が消え、冷徹な捜索者の光が宿っていた。
彼は足音を殺し、宿の出口へと向かった。
敬愛する戦友が隠そうとする秘密を、白日の下に晒すために。
* * *
宿の窓から見える月は、雲に隠れたり現れたりを繰り返していた。
マリアに割り当てられたのは、屋根裏に近い狭い一室だった。
カインとルーカスとは別の部屋――男女で部屋を分けるのは当然の配慮だが、今のマリアにとって、この一人の時間はあまりにも思考を巡らせるのに十分すぎた。
マリアは寝台に腰掛けたまま、膝の上で両手を握りしめている。
脳裏に浮かぶのは、先ほどのバルトの姿だ。
涙を流して家族の死を語った、あの巨漢の震える背中。
そして、ルーカスが指摘した、不自然な挙動。
(バルトさんは、本当に悪い人なのでしょうか……)
ルーカス様は疑っていた。
けれど、マリアにはどうしても、あの涙が演技だとは思えなかった。
カインが信じているように、ただ不器用なだけなのではないか。
考えれば考えるほど、答えは出ない。
ふと、マリアは窓の外の暗さを見て、ハッと息を呑んだ。
「……いけない、時間!」
心臓が早鐘を打つ。
カインの呪いには、時間制限がある。
マリアが触れて呪いの魔力を停滞させなければ、半日で強制的に狼の姿に戻ってしまうのだ。
宿に着いてから、まだ一度も触れていない。
マリアは慌てて部屋を飛び出し、階下にある二人の部屋へと走った。
***
一方、カインとルーカスが宿泊する一室。
バルトが去った後の静寂は、未だに重くのしかかっていた。
その澱んだ空気を切り裂くように、ルーカスが低い声を漏らした。
「……妙だね」
彼はテーブルに広げた水晶板に視線を落としたまま、エメラルドブルーの瞳を鋭く細める。
板の表面には、地図を模した光の線が浮かび上がり、その一点に赤い光点――バルトにつけた発信魔法の反応が明滅していた。
「どうした、ルキ」
「副団長殿の動きがおかしい。外へ追撃隊の気配を探りに行くと言っていたが……」
ルーカスは、指先で光点の軌跡をなぞる。
「彼は宿を出た直後、裏手の、人気のない路地裏に入り、そこでピタリと足を止めた。……そして今、再び宿の中へと戻ってきている」
光点は、裏口から侵入し、ゆっくりと、しかし迷いのない動きで階段を上ってくる。
まるで、狙いを定めた獲物を追い詰める捕食者のように。
「……来たようだ」
ルーカスの言葉に、室内の空気が凍りつく。
カインが何かを言いかけようとした、その瞬間だった。
――コン、コン。
静寂を切り裂く、二回のノック音。
それは、あまりにも礼儀正しく、それゆえに背筋が凍るような不気味な響きを持っていた。
「団長。バルトです。……少し、よろしいでしょうか」
扉越しに聞こえた声は、いつも通りの実直で、落ち着いたものだった。
カインが反射的に腰を浮かす。
だが、それよりも早くルーカスが動いた。
すぐさまカインの前に立ちふさがり、背中で扉を隠すようにして制止する。
「待て、カイン。開けるな。あの男は見回りなんかしていない。裏で何かを準備して、戻ってきたんだ」
ルーカスの瞳には、明確な警戒色が宿っていた。
声を潜めつつも、その口調は鋭い。
彼はカインの胸板に手を当て、物理的に押し留めようとする。
だが、カインは眉をひそめ、友の手を退けようと手首を掴んだ。
「考えすぎだ。何か事情があるのかもしれないだろう」
「その甘さが命取りになると言っているんだ」
二人が至近距離で睨み合い、押し問答をしている間に、再びノックが響く。
今度は、少しだけ強く。
「団長?……折り入って、お話ししたいことがあるのですが」
「話だと」
「……できれば、団長と二人きりで。確認したいことがあります」
「……」
二人の間に、重い沈黙が落ちる。
ルーカスの目は『行くな』と告げている。
その瞳の奥にあるのは、危険な状況下にあえて出る必要はないという、冷静な状況判断だった。
カインもそれを痛いほど理解していた。
だが、同時に、扉の向こうにいる部下を信じたいという想いも捨てきれない。
「……カイン、これは罠だ。君一人で行くには危険すぎる」
「……俺が一人で出た後、後からついてきてくれ」
カインは、胸に当てられたルーカスの手を、静かに、しかし拒絶の意志を込めて外した。
「俺はバルトを疑いたくない。……だが、ルキ。お前が言う心配もわかる」
「……っ。仕方ないな。騒ぎは起こさないでくれよ」
ルーカスは舌打ちを堪えるように顔を歪め、道を開けた。
カインは一つ頷くと、覚悟を決めた表情で扉の鍵を開け、廊下へと出ていく。
バルトと共に足音が遠ざかっていくのを、ルーカスは扉の隙間から険しい表情で見送った。
二人が出て行って数秒後。
入れ違いになるように、廊下の反対側から慌ただしい足音が近づき、勢いよく扉が開かれた。
「ル、ルキ様……!あ、あれ……カインさんは!?」
飛び込んできたのはマリアだった。
肩で息をし、顔色は蒼白だ。その必死な形相に、ルーカスは眉をひそめる。
「カインは副団長殿に呼ばれて外へ出て行ったよ。……これから僕もあとを追うところだ」
「そ、そんな……。じ、時間が!呪いが、狼の姿になってしまいます……!」
悲鳴のようなマリアの言葉に、ルーカスは弾かれたように顔を上げた。
「なんだって?……くそ、タイミングが悪すぎるな」
ルーカスの脳裏で、最悪のパズルが組み上がる。
疑念を抱き、カインを人気の無い場所へ誘導しているバルト。
そして、変身の刻限を迎えるカイン。
ルーカスは指先で、素早く空中に複雑な軌跡を描いた。
その軌跡から、銀色の粉のような魔力が降り注ぎ、二人を包み込む。
「(マリア、君もついてきてくれ)」
マリアの頭に直接、ルーカスの声が響く。
しかし、ルーカスのその唇は動いていない。
「こ、これは……?」
「(しっ、声を出さなければ、居場所は感知されない。姿を隠す、秘匿魔法だ。カインが狼になる前に、合流するよ)」
マリアははっとして口元を手で覆い、コクコクと頷いた。
二人の姿が空気の中に溶け、気配が消える。
カインが狼の姿になる刻限は、もう目の前に迫っていた。
***
宿の裏手。
冷たい夜風が吹き抜ける路地裏に、カインとバルトは立っていた。
「話というのはなんだ、バルト」
カインが周囲を見回しながら尋ねる。
不自然な場所だ。人目はなく、逃げ場もない。
「……団長」
バルトは、カインの背中に向かって、静かに問いかけた。
その手は、背中の戦斧の柄にかかっている。
「貴方は、本当に……何も隠していないのですか?」
「……何のことだ」
「私の家族を殺した魔獣。……その正体について、団長は何も関係がないのですか?」
カインの眉が、ピクリと動く。
何かが食い違っているような、バルトの疑念。そして、悲壮なまでの追求。
「バルト、今は……」
カインが振り返ろうとした、その時。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
痛みはない。ただ、体の中にある見えない錠が強制的に外されるような、抗えない感覚が全身を駆け巡る。
指先の感覚が遠のき、視界の高さが変わろうとする予兆。
「カインさんッ!」
「カイン!」
宿の勝手口から、マリアとルーカスが飛び出してきた。
――だが、遅かった。
「しまっ……」
カインが声を上げる間もなく、彼の全身からカッと銀色の光が噴き出した。
人の輪郭が光の中に溶け、四肢がしなやかに伸び、美しい銀灰色の毛並みが覆っていく。
それは一瞬の出来事だった。
光が収まった時。
そこには、通常の狼よりも一際大きな体躯を持つ、銀灰色の狼が佇んでいた。
「グルルゥ……ッ」
低い獣の唸り声。
狼となったカインは、自分が何をしてしまったのかを悟り、バツが悪そうに耳を伏せた。
そして、目が合った。
すぐ目の前で、腰を抜かさんばかりに目を見開いている、バルトと。
「……ああ」
バルトの口から、絶望の吐息が漏れた。
目の前にいるのは、まぎれもなく魔獣だった。
妻と娘の遺体に残されていた傷跡。破壊された家の惨状。
そのすべてを引き起こしたであろう、銀灰色の獣。
「嘘では……なかったのか……」
バルトの目から、涙が溢れ出した。
信じたかった。団長の言葉を、その高潔さを。
だが、現実はあまりにも残酷な答えを突きつけている。
カインこそが、魔獣だった。
自分が敬愛し、命を懸けて支えてきた男こそが、私の全てを奪った諸悪の根源だったのだ。
「……許さない」
バルトの中で、何かが音を立てて砕け散った。
代わりに燃え上がったのは、どす黒い復讐の炎。
彼は、震える手で戦斧を抜き放った。
その瞳には、もはやカインを戦友と見る色はなかった。
あるのは、討ち果たすべき仇敵を見る、昏い殺意だけだった。




