第22話 騎士の忠義
市場の喧騒を後にした四人は、人目を避けるように路地裏の狭い道を選んで歩いた。
ルーカスがマリアの細い手首を掴み、迷いのない足取りで先導する。
マリアの肌には、彼の手袋越しの冷たい指先の感触と、有無を言わせぬ力が伝わってきていた。
それは、人混みで逸れないための配慮であると同時に、今の状況がどれほど緊迫しているかを肌に突きつける鋭い現実でもあった。
一行の間には、深い沈黙が横たわっている。
カインはただ前を見つめ、バルトはその巨大な体躯をさらに丸め込むように俯き、黙々と後を付いてくる。
彼らが醸し出す空気は重く、鉛のように地面に張り付いて、マリアの呼吸までをも圧迫した。
マリアはその重圧に耐えきれず、ルーカスに引かれた手首の奥で、自身のもう一方の手を胸元で強く握りしめた。
普段のルーカスであれば、この重苦しい沈黙を嫌い、何か皮肉めいた言葉で場を和ませるか、あるいはわざと騒ぎ立ててカインを困らせただろう。
しかし今は違う。
彼の瞳は終始、背後にいるバルトの動向を警戒し、口元は固く引き結ばれていた。
* * *
わずかな時間で、彼らは宿の一室へと辿り着いた。
ギィ、と音を立てて扉が開く。
簡素な木造の部屋は、暖炉の火の気もなく、どこか冷たい。
窓から差し込む夕暮れの光は斜めに伸び、床の埃や、部屋の隅にできた影をくっきりと浮き上がらせている。
ルーカスは部屋の中を一瞥した後、音を立てずに扉を閉め、固く施錠した。
カインは部屋に一つしかない簡素な椅子をバルトに勧めると、自身は向かいにある寝台の端に腰掛けた。
ルーカスはマリアを促し、もう一つの寝台の固い板の上に並んで座る。
大人四人の存在だけで、部屋は息苦しいほど狭く感じた。
沈黙は、市場での騒音よりも遥かに重く、彼らの胸の内を圧し潰しにかかる。
最初に口を開いたのは、カインだった。
その声は、騎士団長としての毅然とした響きを保ちつつも、親しい友人を案じる痛みが滲んでいる。
「バルト。一体、王都で何があった。君の様子は尋常じゃない。……ヴァルロア宰相は、本当に陛下を呪ったのが俺だと、騎士団に命じたのか?」
カインの問いに、バルトは膝の上で、分厚い革手袋が軋むほど強く拳を握りしめた。
「……はい、団長。騎士団は貴方を、混沌の力に魅入られた魔獣として、陛下を呪った反逆者と見なしています。私は、貴方を討つべく編成された追撃隊から、単身で逃れてきました」
「そうか……」
カインは苦痛に顔を歪ませた。
信頼する仲間に裏切り者と見なされた事実が、彼の胸を抉る。
だが、その痛みを凌駕するほどの、深い悲しみがバルトの背中から滲み出ているのを感じていた。
「君は、なぜ単身で……。他の仲間たちはどうした」
バルトは、その問いには答えず、絞り出すような声で、自身の胸に抱く深い影を語り始めた。
「……少し前、魔獣の群れが、王都近郊の村を襲いました」
「魔獣?王都近郊に?」
異常事態だと、カインとルーカスが同時に顔を見合わせる。
本来、王都周辺は結界と騎士団の巡回により、魔獣の侵入はあり得ない。
だが、例の獣化事件の対応に追われ、外周への警戒にまで手が回らなくなっているのだろうか。
「ええ。その群れの中に、恐ろしく巨大な、狼の魔獣がいたのです」
バルトの声は喉の奥で詰まり、荒い息を吐いた。
「私はその時、任務で町を空けておりました。妻は……その魔獣によって、娘と共に……殺されました」
バルトはそれ以上言葉を続けることができず、その岩のような巨躯を震わせ、静かに目元を覆った。
大粒の涙が、ごわごわとした無精髭に吸い込まれていく。
その悲嘆の深さは、部屋の重苦しい空気をさらに凝固させた。
マリアは、その壮絶な告白に、思わず息を飲んだ。
バルトの流す涙は、彼女が祖母を失った時に流した涙と同じ、いやそれ以上の、悲痛で純粋な悲しみの色をしていた。
マリアの心は、この巨漢への深い同情に満たされた。
「……そんな……」
マリアがそっと立ち上がりかけた瞬間、ルーカスがその手を引いた。
ルーカスは一切の表情を動かさず、ただ静かにマリアを座らせたまま、バルトを観察している。
バルトは涙を拭い、ふと顔を上げると、その視線をマリアに向けた。
彼の顔に、悲しみとは異なる、慈愛に満ちた、柔らかな光が一瞬宿った。
「お嬢さん……。貴方は、心優しい方だ」
彼はそう言ったものの、すぐにバツが悪そうに視線を逸らした。
マリアの純粋な瞳や、カインの全幅の信頼を寄せる眼差しを直視することに耐えられないかのように、居心地が悪そうに視線を床へと落とす。
「……団長」
バルトが、意を決したように顔を上げた。
その瞳には、悲しみと共に、拭いきれない不安の色が宿っている。
「王都では、貴方が獣の王となり、毒気を撒き散らしているなどというふざけた噂が流れています。……もちろん、信じてなどおりません。目の前の貴方は、私の知る高潔な団長のままですから」
「ああ、知っている。ヴァルロアの捏造だ。俺が民を傷つけ、あまつさえ呪いを伝染させるなど……断じてあり得ない!」
カインは即座に、力強く否定した。
その声には、一点の曇りもない正義の怒りが満ちている。
だが、バルトはさらに身を乗り出し、すがるような眼差しでカインを見つめた。
「ですが……相手はあのヴァルロアです。ただ貴方を追放するだけで済ませるとは思えません」
バルトの声が、震えた。
「追われた際、貴方のお体に何か……毒や呪いの類を仕込んだりはされていないですか?お体は、本当に……無事なのですか?」
それは、敬愛する上司の身を案じる、忠臣としての心からの叫びのようだった。
呪いという言葉に、カインの心臓が、ドクリと跳ねた。
実際に、カインの首筋には獣化の呪印が刻まれている。
マリアが触れなければ、狼へと変貌してしまう呪いが。
何もされていないと言えば、嘘になる。
だが、ここで真実を話せば、バルトをさらに絶望させ、共犯者にしてしまうことになる。
(……言えない。彼にこれ以上の重荷を背負わせるわけにはいかない)
カインは、膝の上で拳を強く握りしめた。爪が掌に食い込む。
そして、顔を上げた。
その表情は、バルトがよく知る、頼れる騎士団長の完璧な微笑みだった。
「心配には及ばない、バルト」
カインは、あえて明るく、力強く告げた。
「見ての通りだ。……良き友人に恵まれたおかげで、こうして五体満足でここにいる」
彼はチラリとルーカスとマリアに視線を向け、感謝を滲ませた瞳でバルトを見据えた。
完璧な回答。理想的な上司の振る舞い。
バルトは、ほう、と安堵の息を吐いた。
――だが。
「……そうですか。それならば、安心いたしました」
バルトはそう答えながらも、視線をカインの握りしめられた拳へと落とした。
白く変色するほど強く握られた拳。
そして、笑っているはずなのに、微かに引きつった目元。
「はいはい、そこまで」
不意に、パンと乾いた音が響いた。
ルーカスが手を叩き、二人の間に割って入る。
彼はカインの拳を一瞥し、呆れたように肩をすくめてバルトを見た。
「心配性だね、副団長殿。体の検査は僕が済ませたよ。今の彼に、進行性の毒などはない。……ま、精神的な疲労までは保証できないけどね」
ルーカスは、流れるように言葉を紡ぐ。
それは、カインも無自覚の、完璧な助け舟だった。
無意識に漏れ出ていたカインの動揺を、もっともらしい診断で補強し、バルトの追及を強制的に終わらせる。
幼馴染ならではの、阿吽の呼吸。
「君がしつこく聞くから、カインが気を張って休まらないじゃないか。さあ、もうその辺にしてやってくれ」
「……師団長殿がそう仰るなら。……失礼いたしました、団長」
バルトはうやうやしく頭を下げ、素直に引き下がる。
しかし、その太い腕は行き場を失ったかのように、自らの手首を固く握り締めていた。
言葉上の納得とは裏腹に、その全身からは隠しきれない拒絶の色が滲み出ている。
その張り詰めた空気に耐えかねるように、バルトは何かを振り切る動作で立ち上がった。
「団長。私は、貴方に会えてよかった。……しかし、長居はできません」
バルトは、何かを振り切るように立ち上がった。
その巨体が動くと、狭い部屋の空気が一気に押し出されるように揺れる。
「どこへ行くつもりだ、バルト」
「一度外へ出て、追撃隊の気配がないか探ってまいります。もし近くに潜んでいるようなら、すぐに知らせに戻ります」
それは、カインたちを守るための言葉のようだった。
「すまない、バルト。君自身も辛いだろうに、俺たちのことまで……」
「いいえ。……それが、私の務めですから」
バルトが戦斧を背負い直し、出口へと向かおうとした、その時だった。
「おっと、待ちなよ副団長殿」
ルーカスが、軽やかな声と共に寝台から立ち上がった。
彼はいつもの飄々とした笑みを浮かべ、バルトの前に立ちはだかる。
「……感心だね。その忠義心には、僕も頭が下がるよ」
ルーカスは大げさに肩をすくめ、称賛するように目を細めてみせる。
先ほどの会話の流れを汲んだ、友好的な態度。
だが、バルトはその言葉の真意を測りかねたのか、わずかに眉をひそめた。
「……師団長殿?」
「君がいてくれて助かったと言っているんだよ。……ま、気をつけて行ってきてくれ」
ルーカスは人懐っこい笑顔で扉を開ける。
すると、去りゆくバルトの背中へ、激励するようにポン、と手を置いた。
「頼んだよ」
その、何気ない接触。
だが、その瞬間。
「ッ……?」
マリアの背筋に、ゾクリとした悪寒が走った。
ルーカスの掌がバルトの鎧に触れた刹那。
そこから目には見えない極小の魔力が、シミのように背中へと張り付いたのを肌で感じたのだ。
それは攻撃魔法のような殺意を持ったものではない。
けれど、蜘蛛が獲物に糸をつけるような、粘着質で不気味な気配。
マリアは思わず息を呑み、ルーカスを見た。
しかし、ルーカスは何事もなかったかのように、爽やかに手を離した。
「……かたじけない」
バルトは魔力の干渉には気づいていない様子で、振り向きざまに深く一礼すると、重々しい足取りで部屋を出て行った。
扉が閉まり、鍵がかけられる音が響く。
部屋を圧迫していた巨躯が去り、再び静寂が戻る。
カインは、心底安心したように大きく息を吐き、寝台に体重を預けた。
「よかった……。ルキ、お前もバルトのことを認めてくれたんだな」
「認める?」
ルーカスは扉を見つめたまま、冷ややかに鼻を鳴らした。
振り返った彼の表情には、先ほどの親愛の情など欠片も残っていない。
あるのは、氷のように冷徹な観察者の目だけだった。
「まさか。僕はただ、逃げられても困るから首輪をつけさせてもらっただけだよ」
「首輪……?どういうことだ」
「発信魔法さ。あの男がどこへ行こうと、僕には手に取るようにわかる」
ルーカスは自らの指先を弄びながら、カインを射抜くように見据えた。
「カイン、君は警戒しなさすぎだ。あの男は、明らかに何かを隠している」
「なぜそんなに警戒する必要がある!彼は妻子を亡くした悲しみを抱えているのにも関わらず、俺たちの身を案じてくれたんだぞ」
「あのなあ……。君自身は気づかなかったかもしれないが」
呆れるように頭を振ると、ルーカスはカインをじろりと一瞥する。
「呪いについて聞かれて、『大丈夫だ』と嘘をついた時。カイン、君は膝の上で拳を握り込んでいた。無自覚な癖だろうが……バルトはそれをじっと見ていたんだ」
「なっ……」
カインが息を呑む。
自分の無意識の行動を指摘され、心臓がドクリと嫌な音を立てる。
「彼は君の嘘に気づいた。その上で、何も追求せずに納得したふりをして出て行ったんだ」
ルーカスは冷ややかな瞳で、閉ざされた扉を見据え、畳み掛ける。
「本当に君の身を案じているなら、嘘をついていると分かった時点でもっと食い下がるはずだ。……だが、彼はそうしなかった。君が隠し事をしているという事実を確認できただけで、十分だったからさ」
ルーカスの言葉は鋭利な刃物のように、状況の違和感を切り裂いていく。
「あまりにも挙動が不審すぎるんだよ」
カインは言葉に詰まった。
確かに、ルーカスの言う通り、思い返してみれば、話している最中も常に視線は探るようだった。
だが、妻子の死まで利用するほどの悪人ではないはずだ。
裏切りの兆候だと認めるには、カインの騎士としての信条が、同僚として、戦友としての彼を信じる気持ちが、許さなかった。
「……彼は、根っからの騎士なんだ。自身の悲しみや個人的な復讐心よりも、俺への忠義を優先して動いてくれているだけだ」
カインは立ち上がり、強い口調で断言した。
その黄金色の瞳は、揺るぎない信念に燃えている。
ルーカスは、そんな幼馴染をしばらく見つめた後、深く溜息をついた。
「……そうか。君の信じる騎士道とやらが、正解だといいんだけどね」
ルーカスはそれ以上何も言わなかった。
彼は窓辺に立ち、夕暮れに染まる宿場町の屋根を、冷たい視線で見下ろしていた。
マリアは、二人の間に漂う決定的な亀裂に胸を痛めながら、自分の手を見つめた。
先ほど感じた、ルーカスの不気味な魔力の残滓。
そして、バルトの悲痛な表情と、不自然な視線の動き。
何かが、音を立てて狂い始めている予感が、マリアの胸をざわつかせていた。




