第21話 懐かしき豪腕
翌朝、宿場町を包んでいた朝霧が、昇り始めた陽光によってゆっくりと払い清められていく。
木骨造りの家並みは温かい光に照らされ、街道を行き交う行商人の馬車の車輪が石畳の上で乾いた音を立てていた。
道行く人々が店先に並ぶ焼きたてのパンを買い求める香ばしい匂いと、新鮮なミルクの混ざった喧騒。
埃っぽさを鎮めるために撒かれた水が蒸発し、わずかに湿った熱気が立ち上る中、人々のリズミカルな箒の音が響く。
この町には、昨日酒場で感じた温かさそのままに、平和な日常が流れていた。
しかし、その光景を歩くカインの表情だけは硬く、容易に解けることはなかった。
旅の物資を買い足すために市場を歩いている最中も、彼の黄金色の瞳は鋭い警戒心を帯び、微細な動きも見逃すまいと周囲を凝視している。
「カインさん、あの……」
隣を歩くマリアが、心配そうにカインの袖を引いた。
マリアは、初めて見る活気に満ちた人混みに喜びを感じる一方で、誰も傷つけまいと自然と身体を小さく強張らせている。
「あまり顔を強張らせていると、かえって目立ってしまいますよ?」
マリアの指摘に、カインはハッとしたように我に返った。
彼は、安堵させるように口元を緩め、申し訳なさそうに微笑む。
「すまない。……王都からの追っ手が、まさかこんな辺境の宿場町にまで潜んでいるとは思いたくないが、どうしても気が抜けなくてね」
「心配性だなぁ、騎士団長殿は」
後方で赤く艶やかな林檎をかじりながら、ルーカスが呆れたように肩をすくめる。
彼は市場の賑わいを完全に観光気分で楽しんでいるように見える。
しかしその実、すれ違う人々の魔力波長や、隠された視線の動きを、カイン以上に冷徹に観察していた。
その深く静かなエメラルドブルーの瞳には、一切の油断も含まれていない。
「今のところ、怪しげな気配はないよ。宰相閣下も、さすがにここまでは手が回らないくらい忙しいんじゃないかい?」
「だと良いんだが……」
カインが、張り詰めた感情を押し殺すように溜息をついた、その時だった。
眼前の人波の、はるか向こう。
町の通りを塞ぐかのようにゆっくりと歩く、一つの巨大な影がカインの目に飛び込んできた。
「――ッ!?」
カインの足が、強烈な衝撃を受けたかのように石畳に縫い付けられる。
呼吸が止まった。
心臓が早鐘を打ち、全身の血が一気に沸騰したような感覚に襲われる。
見間違えるはずがない。
それは、カインが何年も背中を預けてきた、最も信頼する戦友の姿だった。
岩のようにゴツゴツとした筋肉に覆われた巨大な体躯。
使い込まれて傷だらけになりながらも、見慣れた聖銀騎士団の鎧。
そして、その背中に担がれた、人間ほどの大きさもある巨大な戦斧。
周囲の人々が、その圧倒的な威圧感に怯えて円を描くように道を開けていく。
そんな中、その男はまるで生きた亡霊のように、力なくふらふらと歩いていた。
「おい、カイン。どうし――」
ルーカスの声を遮り、カインは人混みをかき分けて、ただその影を追いかけるように走り出した。
「待ってくれ!そこにいるのは……バルトか!?」
カインの切羽詰まった叫び声に、市場の雑踏が一瞬にして静まり返る。
呼びかけられた巨漢が、ギシリと音を立てるかのようにゆっくりと足を止めた。
その動きは錆びついた歯車のように重々しく、彼が振り返ると同時に、マリアは息を呑んだ。
そこにいたのは、40代半ばほどの男だった。
無精髭に覆われた顔はやつれ、眼窩は深く窪んでいる。
その岩のような巨躯に似合わず、体から生気は失われ、まるで魂を抜かれた抜け殻のようだ。
だが、その瞳がカインを捉えた瞬間、泥のような暗い色の中に、強い光が宿った。
それは、歓喜か、あるいは苦渋か、判別のつかない激しい感情だった。
「……だ、ん、ちょう……?」
しわがれた、カインにとって、聞き覚えのある低い声。
カインは胸が詰まる思いで、かつての部下の元へと歩み寄った。
「やはり、バルトか……!こんなところで何をしている。王都はどうなった?他の団員たちは……」
矢継ぎ早に問いかけるカインに対し、バルトは呆然と立ち尽くしている。
まるで、あり得ないもの、死んだはずの幻影を見ているかのような表情だ。
その視線は、カインの顔から全身へ。
そして背後に追いついてきたマリアとルーカスへと彷徨い、再びカインの顔に戻った。
「貴方は……カイン、団長……なのか?」
「ああ、そうだ。無事でよかった……!」
カインが安堵と共に手を伸ばそうとした瞬間、横から滑り込んできたルーカスが、その腕を掴んで制止した。
「待ちなよ、カイン」
「ルキ、離せ!彼は俺の部下だ!」
「静かにするんだ」
ルーカスは声を潜め、カインの腕を強い力で引き戻した。
「市場のど真ん中で騒ぎを起こすのだけは勘弁だよ、目立ちすぎる。まず、ここを離れるべきだ」
ルーカスの瞳は冷ややかにバルトと周囲の雑踏を見据え、カインの腕を掴む指先には力が篭もる。
「……っ」
カインは、湧き上がる感情を喉奥に押し込む。
己の騎士としての理性に従い、不本意ながらも一歩後ろに下がった。
ルーカスはカインから手を離すと、バルトへ視線を向けた。
その目は、市場の喧騒とは無縁の冷徹さを持っている。
「聖銀騎士団、副団長バルト殿。感動の再会は結構だが、これ以上ここで目立つのは避けたい。我々を捕らえるつもりがないのであれば、場所を移すことに異論はないね?」
バルトは言葉を失ったように、無言でカインとルーカスを見比べる。
その隙に、ルーカスは隣に立つマリアの細い手袋越しの手首を迷いなく掴むと、彼女が驚く間もなく確かな力で自分の横へ引き寄せた。
「マリア。人混みではぐれちゃだめだよ。ほら、行くよ」
ルーカスは警戒を解かないまま、顎で路地裏の静かな方角を指した。
カインは、ルーカスがマリアをリードしたことに一瞬ハッとした。
余裕のなさが、再会の動揺に支配されている自分を突きつけているようで、胸中に黒いモヤが広がった。
「バルト、話したいことが山ほどある。……来てくれるか?」
カインの真っ直ぐな眼差しを受け、バルトは一瞬、何かに耐えるように強く目を閉じた。
その表情に浮かんだ苦渋の色に、カインは気づかない。
やがて、バルトは重々しく頷いた。
「……はい。私も、貴方に……確認しなければならないことがあります」
その声は、再会の喜びにしてはあまりにも重く、深く沈んでいた。
マリアは不安げに、その巨大な背中を見上げる。
その豪壮な体躯が持つべき頼もしさが、今はどうしようもなく悲しい影を帯びているように見えた。




