第20話 二人の想い
忘却の森を抜け、南へと続く街道を進むこと二日。
肌を刺すような寒気は鳴りを潜め、道端には雪割草が顔を出し始めていた。
三人が街道沿いにある宿場町に辿り着いた頃には、あたりはすっかり茜色に染まっていた。
久しぶりに見る人々の営み、煙突から上がる食事の匂い、そして何より、凍える心配のない暖かな空気。
張り詰めていた緊張の糸が、ふっと緩むのをマリアは感じていた。
けれど、賑わう通りを行き交う人々を見た瞬間、その心臓がドクリと嫌な音を立てる。
無防備に歩く村人たち。走り回る子供。もし、すれ違いざまに触れてしまったら。
マリアは反射的に自身の両手を胸元で強く握りしめ、人波から身を守るように小さく背を丸めた。
新鮮な景色への感動よりも、自身がこの平和な世界にとって異物であるという恐怖が勝り、足がすくむ。
――その時だった。
強張るマリアの肩を、大きな手が優しく、けれど力強く抱き寄せた。
「……っ」
驚いて見上げると、隣に立つカインは何も言わず、ただ静かに一つ頷いてみせた。
――大丈夫だ。俺がついている。
声に出さずとも伝わるその絶対的な安心感に、マリアの肩からふっと力が抜けていく。
カインに守られているその温かみだけが、恐怖を溶かしてくれた。
「まずは腹ごしらえと行こうか。固いパンと干し肉の味には、僕もそろそろ飽き飽きしていたところだ」
二人の空気になど気づかないように、ルーカスが先導する。
* * *
彼に導かれて入ったのは、木造の温かみのある酒場兼食堂だった。
飴色に輝く柱、賑やかな話し声、そして鼻腔をくすぐるシチューの香り。
マリアが目を輝かせて席に着くと、ルーカスは給仕を呼び止め、慣れた様子で注文を済ませる。
「エールを二つ。それと、彼女には果実水を。食事は……そうだな、温かい煮込み料理とパンを三人前頼むよ」
「おい、ルキ。俺は飲まないぞ」
当然のように酒を頼んだルーカスに、向かいの席のカインが眉をひそめる。
安息の場である酒場においても、彼が纏う空気は鋭い。
過酷な旅路において、マリアを守る盾である自分が気を緩めるわけにはいかないと、その背筋はピンと伸びたままだ。
「まだ旅の途中だ。酒を飲むわけにはいかない」
「固いことを言うなよ、騎士団長殿。ここには町を守る結界石もある、魔獣も出ない。それに、たまには気を緩めないと。いつかその張り詰めた糸が、プツリと切れてしまうよ?」
「しかし……」
「はーい、観念して」
ルーカスは、運ばれてきた木製のジョッキをカインの目の前にドンと置いた。
なみなみと注がれた琥珀色の液体が、白い泡を揺らす。
「君がピリピリしてると、マリアまで休まらないだろ?ほら、これはリラックスという名の任務だと思ってさ」
「……はぁ。お前には敵わないな」
マリアに気を使わせていると言われては、カインも断れない。
彼は観念したように息を吐くと、ジョッキを手に取った。
コツン、と三人の木のジョッキが軽く触れ合う。
「ん……っ! 美味しい!」
最初に声を上げたのはマリアだった。
透き通ったルビー色の果実水を一口含んだ瞬間、甘酸っぱい香りと、天然の湧き水のような心地よい冷たさが、乾いた喉を一気に潤していく。
そのあまりの美味しさに、マリアは目を丸くしてジョッキを見つめた。
その様子を横目に、カインもまた、観念してエールを煽る。
冷たい苦味が喉を駆け抜け、胃の腑へと落ちる。
その刺激は、予想以上に心地よかった。
ほう、と小さく息を吐く。
無意識のうちに入っていた肩の力が、アルコールと共に少しだけ抜けていくのが分かった。
「……悪くない」
「だろ?君は根が真面目すぎるんだよ。たまには毒も抜かないとね」
ニヤリと笑うルーカスの手元を見れば、彼のジョッキはもう空になっていた。
「お姉さん、こっちエール追加で。あと、料理もそろそろ頼むよ」
カインが半分も飲まないうちに、ルーカスは早々に二杯目を注文している。
水のように酒を流し込むペースの速さに、カインは呆れを通り越して苦笑するしかなかった。
* * *
そうして一息ついた頃、湯気を立てた木皿が運ばれてきた。
とろとろになるまで煮込まれた肉と野菜のシチュー。
湯気と共に立ち上る濃厚な香りが、空腹の胃袋を強烈に刺激する。
マリアは、スプーンですくった熱々のスープを、ふうふうと冷ましてから口へと運んだ。
「……はふ。……んぅ、おいしい……!」
野菜の甘みと肉の旨味が、じわじわと身体の芯まで染み渡る。
マリアは頬を緩ませ、幸せそうに吐息を漏らした。
「みんなでとる、温かい食事って……すごく幸せです」
「ふふ、それはよかった」
ルーカスが頬杖をつきながら、マリアを見て微笑む。
料理が来るまでの間に二杯のジョッキを空けた彼は、いつもの冷徹な仮面が少しだけ剥がれ落ちていた。
白い頬や耳がほんのりと朱に染まり、切れ長の瞳がとろんと潤んで、どこか艶っぽい雰囲気を醸し出している。
機嫌よさそうにジョッキを揺らすルーカスに、マリアは改めて頭を下げた。
「あの……先ほどは本当にありがとうございました、ルーカス様。私、足手まといにならないように、これから頑張りますから」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間、ルーカスのジョッキを揺らす手がピタリと止まった。
彼は不満げに唇を尖らせると、恨めしそうな視線をマリアに向ける。
「……その『様』っての、やめないかい?マリア」
「え?」
「カインのことは『カインさん』と呼ぶのに、どうして僕だけ『ルーカス様』なんだい?なんだか壁を感じて寂しいなぁ」
ルーカスが大げさに肩をすくめてみせると、横で静かに飲んでいたカインが口を挟んだ。
「マリアは礼儀正しい女性だ。お前が宮廷魔法師団の団長という立場だからこそ、敬意を払ってくれているんだよ。からかうな」
「ハッ、敬意ねぇ」
ルーカスは面白くなさそうに鼻を鳴らし、持っているスプーンでカインを指しながら、ジロリと睨んだ。
「立場って言うなら、王都の聖銀騎士団長である君だって同じくらい偉いはずだろう?なのに……カイン、君だけずるいよ」
「ずるいって……子供かお前は」
「うるさいな。僕はね、マリアともっと仲良くなりたいんだよ」
酔いのせいか、普段より素直で子供っぽいルーカスの物言いに、カインは呆れつつも少しだけ動揺して視線を逸らした。
ルーカスはマリアに向き直ると、甘えるような声音で提案する。
「ね、マリア。僕のことも『ルキ』って呼んでよ。カインもそう呼ぶだろ?僕の愛称なんだ」
「ええっ!?そ、そんな……呼び捨てなんてできません!恐れ多いです!」
「別に減るもんじゃないだろ?ほら、ル・キ」
「む、無理です無理です!」
「ルーキー」
「言えません!」
食い下がるルーカスと、必死に首を横に振るマリア。
酔っ払い特有のしつこさを見せるルーカスに、マリアは助けを求めるようにカインを見るが、カインもどうしたものかと困惑している。
逃げ場を失ったマリアは、ううっと唸り、決死の覚悟で口を開いた。
「じ、じゃあ……間をとって、ルキ様……」
「ん?」
「呼び捨ては無理ですけど、ルキ、様…………で、どうでしょう、か……?」
消え入りそうな声でそう提案し、マリアは上目遣いでルーカスの反応を伺う。
ルーカスはきょとんと目を瞬かせた後、ふっと口元を緩ませた。
「……ふっ。まぁいいか。君らしくて可愛い妥協点だ」
ルーカスは満足げに目を細め、マリアの頭を撫でるような視線を送る。
マリアはほっと胸をなでおろし、照れくさそうに笑う。
その和やかな光景を横目に、カインだけが複雑そうにジョッキの中身を煽った。
心地よいはずの酒が、なぜか少しだけ苦く感じる。
* * *
「……あ、ちょっと失礼しますね」
食後の果実水を飲み干したマリアが、席を立った。
手洗い場へと向かうようだ。マリアの姿が奥の扉へ消え、その背中が見えなくなる。
刹那、ルーカスの瞳から酔いの色がすうっと引いていく。
緩んでいた口角は本来の冷ややかな弧を描き、彼は手元のジョッキに残ったエールを、ゆらりと揺らした。
残ったのは、すべてを見透かす観察者の目。
彼はけだるげに頬杖をついたまま、視線だけを滑らせてカインを射抜く。
「――で?君はどう思ってるんだい、カイン」
唐突な問いかけ。
だが、カインにはその主語が誰を指しているのか、痛いほどよく分かった。
カインは眉間をわずかに寄せ、ジョッキの木の感触を確かめるように親指で側面をなぞる。
「……何の話だ」
「とぼけるなよ。マリアのことさ」
ルーカスはジョッキの中の琥珀色の液体を揺らしながら、わざとらしいほど楽しげに言葉を紡ぐ。
「彼女、可愛いじゃないか。素直で、優しくて、何より君のその呪いを解こうと必死だ。……健気なものだねぇ」
試すような視線が、カインの表情の変化を逃すまいと這い回る。
カインは短く息を吐き、視線をテーブルの一点に固定したまま、低い声で応じた。
「……彼女は恩人だ。俺のせいで平穏な暮らしを捨てさせ、こんな過酷な旅に巻き込んでしまった」
それは、誰に言い聞かせる言葉だったのか。
カインは握りしめた拳を膝の上に置き、自身に戒めるように言葉を重ねる。
「君の言う通り、俺は呪いを解く鍵として彼女を必要としている。だがそれ以上に、責任を持って守り抜くのは騎士として当然の務めだろう」
「責任、ねぇ」
カインの頑なな、あまりにも模範的な返答に、ルーカスはククッと喉を鳴らして笑った。
その笑みに温かさはなく、あるのは解剖実験を楽しむような冷たい探求心のみ。
「君の呪いを解く唯一の鍵だから守る。……本当に、それだけの理由かい?ただの恩人として接するには、少々過保護が過ぎるように見えるけどね」
「ルーカス」
「相変わらずの鋼の自制心だこと。でも気をつけなよ、カイン。あまり自分を律しすぎると、本当に大切なものを見失うかもしれない」
ルーカスは頬杖を外し、テーブル越しに身を乗り出す。
先ほどまでの悪友の顔はそこになかった。
獲物を狙う獣のような、あるいは未知の魔法に触れた時のような、鋭利な光がその瞳に宿っている。
「ルキ、お前……」
「僕は研究者だからね。欲しいと思ったものは、手段を選ばず手に入れたくなる性分なんだ」
ルーカスは声を潜め、カインの耳に毒を注ぎ込むように囁いた。
「……君がもたもたしているうちに、僕が貰っちゃっても文句は言えないよ?」
明らかな挑発。
カインの纏う空気が一瞬にして張り詰める。
穏やかな瞳に剣呑な光が走り、反射的に何かを言い返そうと唇を開いた――その時だった。
パタパタと、軽い足音が近づいてくる。
「お帰り、マリア」
振り返ったルーカスの顔には、先ほどまでの陽気な酔っ払いの仮面が完璧に貼り付けられていた。
彼はひらひらと手を振り、何事もなかったかのように微笑んでみせる。
「さ、食事も済んだことだし、宿に行こうか。長旅で疲れているだろう、今日はゆっくり休むといい」
あまりに鮮やかな切り替え。
マリアはその裏で行われていた攻防になど気づくはずもなく、「はい」と素直に頷いている。
ルーカスは懐から銀貨を数枚取り出すと、無造作にテーブルへと放った。
チャリ、と硬貨が重なる音が、会話の終わりを告げる。
「釣りはいらないよ」
遠くの店員へ片手を上げて支払いを済ませると、彼はひらりと踵を返した。
カインだけが、行き場のない感情を喉元で押し留め、無言で立ち上がるしかなかった。
先を行くルーカスの背中を睨みつけ、強く拳を握りしめる。
爪が掌に食い込む痛みだけが、現実だった。
胸の奥で渦巻く、黒いモヤのような焦燥と不快感。
それが嫉妬であると認めるには、彼はあまりにも騎士でありすぎた。




