第19話 旅立ちと、蒼氷の悪魔
錆びついた蝶番が、軋んだ音を立てて悲鳴を上げた。
マリアは、ゆっくりと、重厚な木の扉を閉じ、金具に錠前を通す指先に力を込めた。
錆びた鉄と鉄が噛み合い、鈍く重い音が掌に響く。その無機質な手応えは、慣れ親しんだ日常との決別を告げる、あまりにも静かな音だった。
振り返れば、主を失い静まり返った石造りの工房が、白い雪の中にひっそりと佇んでいる。
煙突から煙はもう上がっていない。
窓の奥には、祖母マルダスと共に薬草を煎じた大鍋も、無造作に積まれた古びた魔導書も、そのままの形で眠っているはずだ。
マリアは胸元で、きゅっと両手を握りしめた。
祖母が最期に残してくれた、自分の力を隠してくれる、特殊な繊維で編まれた手袋。その温もりだけが、今の彼女を支えるよすがだった。
「……行ってきます、おばあちゃん」
白く濁る呼気と共に紡いだ言葉は、風にさらわれて瞬く間に消えた。
マリアは一度だけ深く頭を下げると、もう振り返らないと決めたように前を向く。
そこには、二人の男性が待っていた。
一人は銀灰色の髪を風になびかせ、穏やかな瞳でこちらを見守る騎士、カイン。
もう一人は、深い紺色の髪に知的な瞳を湛え、どこか退屈そうに雪景色を眺める宮廷魔法師、ルーカス。
「準備はいいかい、マリア」
カインの低く優しい声が、凍てついた空気を溶かすように響く。
マリアは小さく頷き、雪を踏みしめて彼らの元へと駆け寄った。
「はい、カインさん。お待たせしました」
「いや、謝ることはない。大切な場所なんだ、別れを惜しむのは当然だよ」
カインはマリアの背負っていた荷物を自然な動作で受け取ると、自身の肩にかける。
その紳士的な振る舞いは、彼が王都の騎士であることを思い出させた。
「さて、感傷に浸るのもそこまでだ。日が暮れる前に、この森の、あちら側まで抜けないとね」
ルーカスが左耳につけた大きなピアスを指先で弾く。
青い魔石が埋め込まれたそれは、微かな魔力の残滓を煌めかせた。
三人は歩き出した。
目指すは南。
一年中雪に閉ざされたこの忘却の森を抜け、温暖な気候が広がる南方の地へ。
そこに眠るとされる『始原の聖域』こそが、カインの呪いを解く鍵となる場所だ。
* * *
旅路は過酷だったが、景色は徐々に変化を見せ始めていた。
数時間歩き続けるうちに、視界を埋め尽くしていた純白の世界は、斑模様へと姿を変えていく。
木々の枝からは絶えず雫が滴り落ち、足元の雪は水分を含んで重く、泥混じりのぬかるみへと変わっていた。
「……少し、暖かくなってきましたね」
マリアが額に滲んだ汗を拭いながら呟く。
足を取られそうになりながらも懸命に歩く彼女を、カインが気遣わしげに見つめた。
「ああ。だが、雪解けの進むこの一帯こそが、一番厄介なんだ。足場も悪いし、急激な気候の変化で気が立っている獣も多い」
「獣……ですか」
「心配しなくていい。君のことは、俺が必ず守る」
カインが腰に帯びた剣の柄に手を添える。
その力強い言葉にマリアが安堵の息を漏らした、その時だった。
ズズンッ、と地鳴りのような振動が足元に伝わった。
鳥たちが一斉に飛び立ち、森の静寂が破られる。
前方の茂みが激しく揺れ、腐葉土と泥を撒き散らしながら、巨大な影が飛び出してきた。
「グルルルゥゥッ!!」
現れたのは、全身が泥と氷柱に覆われた、牛の二倍ほどもある巨大な猪だった。
だが、ただの獣ではない。
その瞳は血走って赤黒く濁り、吐き出す息には不快な紫色の靄が混じっていた。
「魔獣か……!マリア、俺の後ろへ!」
カインが瞬時に抜刀し、マリアの前に立ちはだかる。
白銀の刃が鈍い冬の陽光を反射して輝く。
魔獣は蹄でぬかるんだ地面を削り、低い唸り声をあげて突進の構えを見せる。
その巨体が放つ威圧感に、マリアは息を呑んだ。
「カインさん、気をつけて……!」
「ああ。……来るぞ!」
魔獣が弾丸のように飛び出した。
カインが迎撃の態勢に入り、重心を落とす。
だが、それよりも早く、横合いから冷ややかな声が響いた。
「――やれやれ。泥跳ねで服が汚れるのは御免だよ」
ヒュオッ、と風が鳴いた。
――次の瞬間、世界の色が変わった。
突進していた魔獣の足元から、突如として巨大な氷の柱が突き上がったのだ。
通常の氷ではない。
それは深く、濃く、底知れぬ海の色を湛えた『蒼い氷』だった。
「ギィッ!?」
魔獣が悲鳴を上げる間もなかった。
蒼い氷は生き物のように魔獣の四肢に絡みつくと、瞬く間にその巨体を覆い尽くす。
パキパキという硬質な音と共に、泥にまみれた毛皮も、凶悪な牙も、濁った瞳も、すべてが美しい蒼玉の中に閉じ込められていく。
――ほんの数秒の出来事だった。
そこにはもう、暴れ狂う魔獣はいない。
あるのは、躍動感あふれる姿勢のまま静止した、美しい氷の彫像だけ。
「……え?」
マリアは目を丸くして、その光景を見つめた。
――魔法。それは、大気中の魔素を術式によって変換する技術。
けれど、これほどの規模と速度、そして何よりこの異様なまでの蒼さを持つ氷魔法など、マリアは見たこともなかった。
「……相変わらず、デタラメな威力だな、ルキ」
カインが呆れたように剣を収める。
視線の先には、右手を軽く前に突き出したままのルーカスが立っていた。
彼は手のひらに残る冷気を払うように指を振ると、興味なさそうに氷像を一瞥した。
「デタラメとは失敬な。完璧な術式構築と計算による芸術、と言ってほしいね」
「……その芸術とやら、鑑賞するには命がいくつあっても足りそうにないな」
「美しさと危険は隣り合わせだろう?それに、この程度の魔獣に君の手を煩わせる必要もない」
ルーカスはそう言って肩をすくめると、マリアの方へ視線を向けた。
深いエメラルドブルーの瞳が、値踏みするように細められる。
「どうだい、マリア。これが、君の『改変』とはまた違う、理に則った力の行使だよ」
「すごいです……。これが、ルーカス様の魔法……」
マリアは素直な感嘆の声を漏らした。
恐怖を感じさせるはずの魔獣が、今は陽の光を受けて宝石のように輝いている。
その残酷なまでの美しさに、マリアは畏怖と共に惹きつけられていた。
「まったく……。『蒼氷の悪魔』と呼ばれるだけはある。敵に回したら、これほど恐ろしい相手はいない」
カインが苦笑しながら補足する。
ルーカスはふん、と鼻を鳴らし、先を促すように顎をしゃくった。
「悪名高い二つ名は結構。さあ、行くぞ。氷が溶けて泥水になる前に、乾いた道まで抜けたい」
背を向けて歩き出すルーカスの背中を、マリアは見つめた。
底知れない実力と、何を考えているのか読めない冷徹な横顔。
この旅は、決して平坦なものではない。
溶けかけた雪の冷たさと、蒼い氷の鋭さを肌で感じながら、マリアは手袋をはめた手を再び強く握りしめ、二人の背中を追った。




