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あなたの孤独をほどくまで  作者: らぴな
第1章 忘却の森

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第1話 静寂を破る血痕

 一年中雪に閉ざされる『忘却の森』。


 その名は、一度足を踏み入れれば二度と王都へは戻れない、あるいは、世俗のすべてを忘れた者だけが辿り着ける、という意味が込められているのか。

 真実は定かではないが、ただ一つ確かなことは、この森の奥深くは、人々の記憶からも忘れ去られたかのように静寂に満ちているということだ。


 今日もまた、工房の窓の外は、灰色の空から大粒の雪が音もなく降り続いている。


 工房の中は、唯一、マリアが『生きていてもいい』と思える場所だった。


 パチパチ、と暖炉で乾燥した薪がはぜる音だけが、高い天井に吸い込まれていく。

 壁一面を埋め尽くす棚には、無数の乾燥薬草や、怪しげな色の液体が入った小瓶が整然と並べられ、独特の青臭くも清涼な香りが満ちていた。


 マリアは、硬い樫のテーブルに向かい、一心不乱に乳鉢を動かしていた。

 ゴリ、ゴリ、という硬質な音が、彼女の孤独な時間にリズムを与える。


 作業に没頭する彼女の背中を、艶やかな黒髪が覆っている。

 腰の下まで届くその長い髪は、闇夜のように深く、静かだ。


 ふと顔を上げると、そこには鉄錆のような深い赤色をした瞳があった。

 どこか憂いを帯びたその瞳は、窓の外の雪景色を映し出している。


 森での暮らしが長いためか、その体つきは細く、華奢だ。

 だが、それは病弱さを意味するものではない。厳しい自然の中で生き抜いてきた、しなやかな芯の強さを秘めている。


 彼女の手は、常に薄暗い色の手袋に覆われている。

 それは寒さをしのぐためではない。薬草の棘や毒から手を守るためでもない。


 祖母が亡くなる前に遺してくれた、彼女の『呪い』を封じるための、特殊な薄手の生地で作られた手袋。

 これが、彼女の皮膚そのものだった。彼女の忌まわしい素肌が、世界に触れないようにするための、最後の防壁であり、生涯解けることのない戒め。


「……よし、これで……」


 薄い布越しに、乳鉢の中の薬草が滑らかな粉末になった感触が、ぼんやりと伝わる。

 この手袋を外すことは、決して許されない。この手袋があるから、かろうじて自分は無害でいられる。


 ふと、棚から別の薬草包みを取ろうと、指を伸ばした時だった。

 指先が棚のささくれた木目にわずかに引っかかり、手袋の袖口がするりとめくれ上がる。


 白い手首が、一瞬、工房の冷たい空気に晒された。


「————」


 声は、出なかった。

 マリアは息を止め、機械的な動作で腕を引っこめた。

 心臓がドクンと大きく跳ねるが、思考は急速に冷え切っていく。


(……あ。……出ちゃった)


 恐怖よりも先に、他人事のような、乾いた思考が脳裏をかすめる。


 脳裏に、あの日の光景がぼんやりと、それでいて急速に浮かんでくる。

 温かかった父。優しかった母。それが、私が触れた瞬間に——急速に温度を失い、ただの冷たい物体へと変わっていった、あの物理現象。

 悲しみよりも先に、生体が物質に変わるという冷厳な事実だけが、トラウマとして焼き付いている。


「……隠さなきゃ」


 マリアは、震える指先で、淡々と手袋を深くはめ直す。

 まるで、危険な劇薬の蓋を閉めるように。剥がれかけた人間の皮を修復するように。


「……よし。これで、大丈夫」


 自分に言い聞かせる声には、抑揚がなかった。


「私は、無害。……ちゃんと、隠せている」


 視線を窓辺に向けると、そこには無残に黒ずんで萎びた鉢植えが置かれていた。

 数日前、うっかり素手で触れてしまった観賞花の成れの果てだ。


 生命が、吸い取られたのだ。

 彼女の呪いが、あの可憐だった小さな命を無慈悲に奪った。


「ごめんね……」


 彼女の呪いは、触れたものの命を奪う。


 自分が普通でなかったせいで、両親は死んだ。

 自分の存在そのものが害悪。

 その事実は、雪のように静かに、だが確実に彼女の心を凍らせていた。


 ゴォォ……と、外の風が一際強く唸った。

 工房の古い窓が、悲鳴のようにガタピシと鳴る。


「……ひどく吹雪いてきた」


 マリアは窓ガラスについた霜を指で拭い、外の様子をうかがった。

 視界はほぼ真っ白だ。


 工房の軒下から少し離れた場所に、彼女が丸太と藁で組んだ、小さな動物たちの小屋がある。


 彼女は、どんなに懐かれても、動物たちを工房の中には入れなかった。

 自分が寝ている間に、無意識に手袋を外し、彼らに触れてしまうかもしれない。

 その万が一の事故が、彼女にとっては何よりも恐ろしかった。


 だが、あの小さな小屋では、この吹雪は耐えられないかもしれない。


「……行かないと」


 マリアは重い溜息を吐き、ローブの前をしっかりと合わせると、工房の重い扉に手をかけた。


 ギィ、と凍り付いた蝶番が軋む。

 扉を開けた瞬間、凍てついた刃物のような風雪が顔に叩きつけられ、思わず目を細める。


「うぅ……っ」


 積もった雪に足を取られながら、数歩先の小屋へと急ぐ。

 わずかな距離が、果てしなく遠く感じる。

 吹き付ける雪で、あっという間にローブは白くなっていく。


 小屋の中では、ウサギやリスたちが、寒さに身を寄せ合い、小さく震えていた。


「大丈夫、大丈夫よ。すぐに暖かくするからね」


 マリアは冷え切った手袋越しの手を、震えるウサギの背中にそっと置いた。

 手袋越しならば、大丈夫。呪いは漏れ出さない。

 彼女はそのまま、ゆっくりと柔らかな毛並みを撫でた。


 だが、薄い布一枚を隔てた感触は、どこか遠く、もどかしい。

 自分がどれだけ寒くても構わない。

 けれど、この手袋が隔てるせいで、彼女の肌の温もりは彼らに届かない。


「ごめんね、本当の温もりじゃなくて」


 彼女はそう呟き、今度は手袋をはめた手を動物たちの上にかざす。


陽だまりの風(ウォーム)


 祖母に教わった、数少ない害のない生活魔法。


 彼女から放たれた魔力が、小屋の中の空気をふわりと熱し、凍える動物たちを包み込む。

 動物たちは心地よさそうに身じろぎし、撫でてくれるマリアの手にすり寄ってくる。

 その仕草に、マリアは胸が締め付けられた。


「直接触れたら、どんなに……」


 この薄い布がない、本当の肌で。滑らかな毛並みを、その下の確かな命の温もりを、直接感じたい。

 そんな本能的な渇望を、彼女は再び手袋の奥に押し込めウサギの背中を優しくなでてやる。


 これは償いなのか、自己満足なのか。わからない。

 けれど、こうせずにはいられなかった。


 工房に戻り、ようやく扉を閉めると、荒れ狂う風の音が遠のく。

 冷え切った手足の感覚が戻らず、マリアは暖炉の前にかじりつくようにして手を温め始める。


「はぁ~……寒い……。今年は一段と寒いなあ……」


 暖炉の熱が、凍りついた指先の芯までじりじりと染み込んでいく。

 痺れるような感覚に顔をしかめながら、手袋越しに何度も手を擦り合わせた。

 かじかんだ指がようやく動き始めた、その時だった。


 ――ドンッ!!


 今しがた閉めたばかりの分厚い樫の扉に、何かが強く、重く叩きつけられる鈍い音。

 それは風の音とは明らかに異質だった。


「え……?」


 動物たちの小屋が、吹雪で壊れた?いや、違う。それにしては扉の目の間だ。

 何かが倒れこんだような音に聞こえる。


 マリアは息を殺し、暖炉のそばから動けずにいた。

 風の音に混じり、扉の向こうから、荒い呼吸が聞こえる。


 ガリッ、ガリッ、と何かを引っ掻くような音。

 そして、獣が苦しむような、低く、途切れ途切れの呻き声。


 何より、扉の隙間から、薬草の香りを突き破って流れ込んできた生々しい匂い。

 鉄錆のような、濃密な血の匂いだった。


(だれ……?……なに?)


 マリアは恐怖に震えながらも、壁にかけてあったランタンを手に取り、ゆっくりと扉ににじり寄る。


 ドン!と、再び扉が内側から押されるように揺れる。


 マリアは小さく悲鳴を上げ、後ずさる。

 だが、扉の向こうの『それ』は、もう動く力も残っていないかのように、静かになった。


 彼女は葛藤の末、意を決して扉の重い閂に手をかける。

 ゆっくりと扉を開けると、凍てつく吹雪と雪片が、ランタンの灯りを揺らしながら室内に叩きつけた。


「——あ」


 そこに倒れ込んでいたのは、見たこともないほどに美しい、銀灰色の毛並みを持つ一匹の大きな狼だった。


 その巨体は雪と泥に汚れ、脇腹は何か巨大な刃物で引き裂かれたかのように深く裂けている。

 流れ落ちるおびただしい血が、純白の雪をおぞましいほど鮮やかな赤黒い色に汚していた。


 狼は、最後の力を振り絞るように、わずかに頭をもたげた。

 苦痛に喘ぎ、荒い息を繰り返しながら、その金色の瞳で、まっすぐにマリアを捉えた。


 それは、ただの獣の目ではなかった。

 絶望的な苦痛の中に、なお消えない、強い意志と理性の光が宿っているように見えた。


(助けて……)


 そう言われた気がした。

 マリアは弾かれたように、倒れ伏す狼の元へ駆け寄った。


「待ってて、今……っ!」


 彼女は膝をつくと、焦る手つきで狼の傷口を確認する。


 手袋越しなら、触れても大丈夫。

 祖母の教えを守っている限り、自分は無害な存在でいられる。


 マリアは手袋をはめた両手で、血に濡れた銀灰色の毛並みを必死に押さえた。


「なんてひどい傷……いったい、この子に何が……」


 脇腹の肉が大きく裂け、ドクドクと赤い血が雪を溶かしている。

 ただごとではない。

 早く血を止めなければ、このまま命の灯火が消えてしまう。


「……治癒ヒール……!」


 マリアは狼の傷口に手をかざし、必死に魔力を送った。

 手袋越しでは魔力の伝達効率が落ちてしまうが、今はそんなことを言っている場合ではない。


 淡い緑色の光が傷口を覆う。

 しかし、傷はあまりにも深く、裂けた皮膚は遅々として塞がらない。


 狼は暴れる力すら残っていないのか、マリアの処置にも反応しない。

 ただ浅く、苦しげな呼吸を繰り返すだけだった。


 雪の上に広がる赤黒い染みは、刻一刻と大きくなっていく。


「だめ……傷が深すぎる……」


 マリアは唇を噛んだ。


 このまま手袋越しの弱い魔法をかけ続けても、失血死するか、この猛吹雪で体温を奪われて凍死するのが先だ。


 助けるには、魔法だけでなく、適切な処置が必要だった。

 止血効果のある軟膏と、清潔な包帯。

 それに、傷口を縫い合わせるための糸と針。


 それらはすべて、工房の中にある。


「中へ……運ばないと」


 マリアは、凍える風の中で決断した。

 ここで躊躇していれば、この銀灰色の獣は確実に死ぬ。


 だが、恐怖が足枷となって心臓を締め付けた。


 この巨体を、私一人で運べるだろうか。

 もし、運んでいる最中に体勢が崩れて、この薄い手袋がずれてしまったら?

 袖口から覗いた私の素肌が、うっかり彼に触れてしまったら?


 万が一、万が一にも、私の素肌が触れてしまえば——。


「……っ」


 私はこの子を助けるどころか、この呪われた手で、確実にとどめを刺すことになる。


 それでも、目の前の命は今にも消えかかっている。


 治療という善意が最悪の殺害に変わるリスク。

 その恐怖に震えながらも、マリアは目の前の命を見捨てることだけはできなかった。


「……死なせない」


 マリアは意を決し、手袋の縁をきつく引き上げると、震える手で狼のぐったりとした体を抱え込んだ。

 ずしりとした重みが腕にかかる。

 彼女は雪に足を取られながらも、必死の思いで狼を引きずり、工房の中へと運び込んだ。


 バタンッ!


 背後で風に煽られた扉が閉まり、猛吹雪の轟音が遮断される。

 静寂と、わずかな暖かさが戻った工房の床に、血まみれの銀狼と、肩で息をするマリアだけが残されていた。

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祖母に教わった、数少ない害のない生活魔法。 この一文がなんか、『よかった』です。ウォーム!!
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