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あなたの孤独をほどくまで  作者: らぴな
第1章 忘却の森

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第14話 優しき鳥籠を拒んで

 工房に、表面上の平穏が戻ってから、数日が経った。

 だが、その空気は以前のような温かいものではなく、どこか張り詰めた、重苦しい静寂に包まれていた。


 原因は、カインだった。

 彼は、マリアの看病や工房の修繕を献身的にこなしてはいたが、その口数は日に日に減っていた。

 ふとした瞬間に見せる表情は、深淵を覗き込むように暗く、沈んでいる。


(……カインさん)


 その日の夜、ベッドの上で、マリアは読みかけの本を置き、暖炉の前で椅子に座り込んでいるカインの背中を見つめた。


 彼は、何もしていない。

 ただ、炎を見つめながら、深い思考の迷路に迷い込んでいるようだった。


 カインは、出口のない問いに苛まれていた。


 自分の牙でマリアを傷つけた罪悪感。

 そして、自分が反逆者として追われている事実を隠していたせいで、彼女を無防備なまま襲撃に巻き込んでしまったという悔恨。


(ここに留まれば、また追手が来る。ここはもう、安全ではない)


 カインは、組んだ両手を、指の関節が白くなるほどぎゅっと握りしめた。

 祈るように、あるいは何かを耐えるように。


(だが、重傷のマリアを連れて動くこともできない)


 彼は目を強くつむり、思考を巡らせる。


 王都へ向かうルート、隠れ家、逃亡の手段……。

 騎士団長としての知識を総動員し、あらゆる可能性を探る。


 だが、どの道をたどっても、必ずマリアの危険か自分の獣化という壁に突き当たり、答えが見つからない。


(俺が出ていけば?……いや、今の俺はマリアがいなければ獣に戻る。それに、一人残された彼女が狙われたら?)


 動けない。

 自分がここにきたこと自体が、彼女にとって最大の害悪なのではないか。

 そんな思考が、彼から言葉を奪っていた。


 マリアは、その沈黙に耐えられなくなっていた。

 彼の苦悩の理由が、自分への罪悪感だけではないことを、なんとなく察していたからだ。


(……あの夜)


 マリアの脳裏に、襲撃者の言葉が蘇る。


『ようやく見つけた、反逆者め』


『騎士団長も落ちぶれたものだ』


 ――反逆者。


 その言葉が、棘のように胸に刺さって抜けない。

 彼は、ただ森に迷い込んだだけではなかった。誰かに、明確な悪意を持って追われていたのだ。

 それを、彼は一度も言わなかった。


 マリアは、暖炉の火に照らされたカインの横顔を見つめる。

 苦悩に満ちたその姿。

 私を守ろうとしてくれた手。不器用な優しさ。


 どう見ても、彼が国を裏切るような罪人や悪人には見えなかった。


(……聞かなくちゃ)


 彼が何を背負っているのか。なぜ、あんな風に呼ばれたのか。

 それを知らなければ、私たちはこれ以上、進めない気がした。


「……カインさん」


 マリアは、意を決して声をかけた。

 カインの肩が、ビクリと震える。


「……なんだ、マリア。水か?それとも傷が痛むのか?」


 彼はすぐに立ち上がり、甲斐甲斐しく世話を焼こうとする。

 その優しさが、今は苦しかった。


「違います。……お話が、したいんです」


「話?」


「はい。……あの夜、襲ってきた人たちのことです」


 カインの動きが止まる。

 彼は、マリアから視線を逸らし、再び暖炉の前の椅子に座り込んだ。


「……今は、傷を治すことだけを考えてくれ。余計な心配はしなくていい」


「余計じゃありません!」


 マリアは、ベッドの上で身を乗り出した。


「あんなに怖い思いをして……カインさんだって、大けがして……!それなのに、何も知らないままなんて、嫌です」


「……」


「あの人たちは、カインさんのことを反逆者と呼びました。……カインさんは、王都で何があったんですか?どうして、追われているんですか?」


 マリアの問いかけに、カインは苦渋の表情で押し黙った。


 話せば、彼女を、自分を陥れた巨大な悪意の標的にしてしまう。

 無実の罪とはいえ、反逆者に関わったと知られれば、彼女もまた粛清の対象になりかねない。これ以上、彼女をこちらの泥沼に引きずり込みたくない。


 その一心だった。


「……知らない方がいい。君には関係のない、汚い話だ」


 カインは、自分に言い聞かせるように、早口で続けた。


「君は、不運な事故に巻き込まれただけだ。俺さえここを去れば、奴らの標的は俺に移る。……きっともうここは危険だから、いられないが、どこか別の……安全な場所で。俺のことなど忘れて、また元の静かな暮らしを……」


 言葉にした瞬間、カインの喉が引きつった。

 自らの口から出たその提案が、あまりにも空虚で、残酷な矛盾を孕んでいることに気づいてしまったからだ。


 ――元の暮らしとは、何だ?


 彼女は、自分の触れるもの全てを奪う力を恐れ、たった一人、この森の奥深くに隠れ住んでいたのだ。


 もし彼女が人里へ降りたとして、そこで待っているのは平穏などではない。

 手袋一枚で世界と隔絶し、誰にも触れず、誰とも関わらず、怯えながら生きる——あの、凍てつくような孤独への逆戻りだ。


 自分は今、彼女を守るふりをして、彼女を再びあの孤独な牢獄へ突き返そうとしているのではないか。安全な場所など、彼女にはどこにもないことを知っていながら。


 己の欺瞞に、カインは言葉を詰まらせ、顔を歪めた。


「……無理です」


 マリアの静かな、けれど震える声が、カインの言葉を遮った。

 マリアは、膝の上でシーツを強く握りしめ、俯いていた。


「元通りになんて……もう、戻れません」


 震える声で、マリアは言った。

 その小さな拳が、小刻みに震えている。


「マリア……」


 カインは、息を呑んだ。

 ベッドの上に座るマリアの姿が、彼の目には、ひどく小さく映った。


 大きな包帯に巻かれた、華奢な肩。俯いて、震えを必死に堪えている背中。

 それは、広い世界の中でたった一人、冷たい風に耐えている野花のように儚げで——守ってやらなければ、今にも折れてしまいそうだった。


 ――こんなに小さく、傷ついた少女に、俺は「一人に戻れ」と言い放ったのか。


「戻りたく、ありません」


 マリアは顔を上げた。

 その瞳に涙が溜まっているが、そこには強い意志が宿っていた。


「カインさんが来るまで……私は、この森でずっと一人でした。誰にも触れられず、唯一の祖母も他界した後は、誰とも関わらず……ただ、息をしているだけでした」


「……」


「でも、カインさんが来てくれて……毎日が、変わったんです。一緒にご飯を食べて、お話をして……怖かった私の手が、あなたの役に立てて」


 マリアは、自身の胸に手を当てた。

 そこには、かつての氷のような孤独ではなく、カインがくれた温かい記憶が満ちている。


「怪我なんかより……カインさんがいなくなって、またあの一人ぼっちに戻る方が、ずっと怖いです」


「……ッ」


 カインは、打たれたように息を呑んだ。

 マリアの言葉が、鋭利な刃となって、彼の矛盾した論理を突き刺したのだ。


「カインさんがいなくなれば、全部なかったことにして、元通りになれるなんて……そんなの、ただの寂しい嘘です」


 マリアの声が、懇願するように震える。


「いつか王都へ連れて行ってくれるって、言いましたよね。……私、待ってます。でも、その前に……私を、仲間はずれにしないでください」


「マリア……」


「守られるだけじゃ、嫌なんです。……私にも、背負わせてください」


 その言葉が、カインの頑なな心を揺さぶった。


 目の前の少女は、こんなにも小さい。

 けれど、その心は、どんな騎士よりも強く、気高かった。


 カインは、深いため息をつくと、観念したように肩の力を抜いた。


「……ああ。そうだな。君の言う通りだ」


 彼はベッドの横の椅子に腰かけると、マリアをまっすぐに見つめた。


「すまない。君をこれ以上、俺のせいで傷つけたくなくて、逃げていた」


「……話そう。俺がなぜ追われているのか。王都で何が起きているのか。……全てを」


 カインが、重い口を開こうとした、その時だった。


 コン、コン。


 工房に、場違いなほど、静かなノックの音が響いた。

 あの、カインが組み上げた、頑丈な扉から。


「……え?」


 マリアの言葉が止まる。

 カインの表情が一変した。


「ッ……!」


 鋭い眼光で扉を睨みつけると同時に、彼は反射的に床を蹴り、マリアの前に立ちはだかった。


 壁に立てかけてあった錆びついた剣を掴み、音もなく構える。

 全身から、ピリピリとした殺気が放たれる。


(追手か?……いや、追手なら、あの夜のように問答無用で踏み込んでくるはずだ。こんな、礼儀正しいノックなど……)


 前回の襲撃は、予兆なく壁が破られた。

 今回は違うとはいえ、それも油断させる罠かもしれない。


「……」


 二人が息を殺し、張り詰めた沈黙が工房を支配した、その瞬間。


 扉の向こうから、凍てつく夜気を切り裂くような、どこか飄々とした、涼やかな青年の声が聞こえた。


「——やあ。カイン、いるんだろう?随分と、探したよ」

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