第13話 温かい粥と、冷たい罪悪感
あの赤き月の夜から、数日が過ぎた。
吹き飛んだ工房の扉は、カインが森の木々で組み上げた、いびつだが頑丈なものに仮修復されている。
崩れた壁も、カインが一人で資材を運び、冷たい風が入らないように塞いでくれていた。
マリアはベッドから動けなかったため、その修復作業をただ見守ることしかできない。
しかし、カインは重傷の体をおして、休むことなく動き続けていた。
奇妙な変化があった。
あの日、マリアがカインの暴走を鎮めて以来、カインが人間の姿でいられる時間が延びたのだ。
以前は数時間が限界だったのが、今では一度触れれば半日ほどは人間の姿を保っていられる。
丸一日とまではいかないが、それでも、マリアの看病をするには十分な時間だった。
「……マリア。食事だ」
カインが、湯気を立てる木のお椀を盆に乗せて、寝室に入ってきた。
マリアは、ベッドの上で上半身を起こそうとするが、左肩の包帯が引きつり、小さく顔をしかめる。
「あ、ありがとうございます、カインさん。……あの、自分で持てますから」
マリアは、右手でお椀を受け取ろうと手を差し出す。
左腕はまだ三角巾で吊られているが、右手は動く。
食事くらい、自分でできる。
何より、目の前のカインの姿が痛々しかった。
背中の広範囲に及ぶ火傷、全身の打撲。
そして何より、あの時マリアを庇うために受けた、肩への氷の魔法による貫通傷。
普通なら寝たきりでもおかしくない重傷だ。
彼が立っていられるのは、騎士としての尋常ではない体力と、それ以上に——自分が招いた事態だという、強烈な自責の念が彼を突き動かしているからに他ならなかった。
「カインさんこそ、休んでください。そんな体で……」
だが、カインは首を横に振った。
「いや、じっとしていてくれ。……これくらいは、させてほしい」
その声は、いつもの穏やかなバリトンだが、拒絶を許さない痛切な響きを含んでいた。
カインはベッドの脇の椅子に座ると、お椀の中からスプーンで麦のミルク粥をすくい上げた。
彼はスプーンを自分の口元に寄せ、ふー、ふー、と真剣な顔で息を吹きかけ、冷ます。
そして、それをマリアの口元へと差し出した。
「……えっ?」
「さあ、口を開けて」
「い、いえ!待ってくださいカインさん!私、右手は動きますし……!」
「ダメだ。万が一こぼして、火傷でもしたらどうする」
カインは大真面目だった。
まるで雛鳥に餌を与えるような扱いに、マリアの顔が一気に熱くなる。
「そ、そんな子供扱い……!恥ずかしいです……!」
「恥ずかしがることなどない。……怪我をさせたのは、俺なのだから」
カインの表情が、ふっと曇る。
スプーンを持つ手が、わずかに震えた。
「……カインさん」
マリアは、彼が未だに深い罪悪感の中にいることを悟った。
だから、少しでも彼の心を軽くしたくて、精一杯明るい声を出した。
「そんな顔、しないでください。……本当なら、カインさんの方がずっと重傷なんですから」
「……」
「それに、私のこの怪我なんて、魔力さえ回復すればすぐに治せます。傷跡だって残りません。だから……そんなに自分を責めないでください」
マリアは、カインを励ますつもりだった。
しかし、その言葉は、かえって鋭い刃となってカインの胸を抉った。
「……っ」
カインが、痛みに打たれたように顔を歪める。
(彼女は……俺に殺されかけたというのに、自分の傷より俺の体を気遣い、あまつさえ、俺を慰めようとしている)
彼女のその健気さが、優しさが。
今のカインには、許し難い自分の罪を照らし出す光のように思えて、直視できない。
彼は、マリアの言葉を遮るように、真剣な眼差しで彼女を見据えた。
「ダメだ。魔力の回復を待たずに無理をすれば、命に関わる。……マリア。君の顔色は、まだ雪のように白い」
「……」
マリアは、瞬きをした。
(そういえば……)
敬称が、ない。
マリアの脳裏に、あの悪夢のような夜の記憶が蘇る。
私が意識を手放した瞬間、夜の森に響いた、悲痛な叫び声。
そして、深い眠りの中で、ずっとそばにいてくれた誰かが、祈るように繰り返していた声。
『戻ってきてくれ……。頼む、マリア……』
あれは、夢じゃなかったんだ。
彼は、あの日からずっと、私の名前を呼び続けてくれていた。
カイン本人は、自分が呼び方を変えていることに全く気づいていない様子で、ただ痛ましげに眉を寄せて、スプーンを握りしめている。
その無自覚な距離の近さが、マリアの胸の奥を、くすぐったくさせた。
それは、人間の姿の彼が保っていた騎士としての遠慮が、あの夜を境に溶けてしまった証のようで。
マリアは、頬をほんのり桜色に染めながら、大人しく頷いた。
彼がこんなに心配してくれているのだから、強がるのはやめよう。
「カインさんの言う通りにします。……だから、そんなに辛そうな顔をしないでください」
「……すまない」
カインは、スプーンを下ろし、絞り出すように言った。
「俺が……君を守るべきだったのに……こんな……」
その悲痛な声に、マリアは胸が締め付けられた。
彼に謝らせたいわけじゃない。
私が元気にならないと、彼はずっと自分を許せないままだ。
マリアは、迷いを振り切り、カインが膝の上に下ろしかけていたスプーンを持った手首を、そっと自分の右手で掴んで引き寄せた。
虚を突かれたカインの手が、マリアの口元へと戻ってくる。
マリアはそのまま顔を近づけ、パクッ、と一口で粥を口に含んだ。
「……ん」
「マ、マリア?」
マリアは、口いっぱいに広がる麦の甘みと、ミルクの優しさを噛み締め、飲み込んだ。
「……おいしいです」
マリアは、にっこりと微笑んだ。
「とっても、温かいです。……ありがとうございます、カインさん」
「……そうか」
カインは、呆気にとられた後、力が抜けたように息を吐き、わずかに口元を緩めた。
「……なら、よかった」
彼は再びスプーンを動かし、マリアに粥を運び始めた。
マリアも、もう拒むことはしなかった。
カインは、マリアが粥を一口食べるたびに、その姿をじっと見つめていた。
咀嚼する頬の動き。喉を通る音。
そして、時折浮かべる『おいしい』という笑顔。
(生きている。彼女が、ここにいる)
その事実を、噛み締めるように。
だが、マリアの笑顔を見れば見るほど、カインの胸の奥に、どす黒い苦悩が渦を巻いていく。
(……どうすればいい)
カインは、スプーンを動かしながら、出口のない問いを繰り返していた。
――一つ目。この場所に留まり続けることの危険性。
敵は、この工房の場所を特定した。
一度退けたとはいえ、次はもっと大掛かりな戦力で来るかもしれない。
ここに留まることは、死を待つことと同義だ。
だが、今のマリアは重傷だ。こんな状態で、過酷な雪山を越えて移動することなど、できるはずがない。
――二つ目。自分自身の「獣」への恐怖。
あの巨大な黒狼。あれは、赤き月がトリガーだった。
だが、本当にそれだけか?
もし、他のきっかけ——例えば、極度の興奮や怒り、あるいは魔力の波長などで、再びあの姿になってしまったら?
次があれば、俺は今度こそ、マリアを殺してしまうかもしれない。俺自身が、彼女にとって最大の地雷原なのだ。
――そして、三つ目。隠し続けてきた真実。
俺は、追手のことや、王都の政争のことを彼女に話さず、結果として彼女を無防備なまま巻き込んでしまった。
今からでも、全てを話すべきなのか?王都の現状を。俺が背負っている汚名を。
……だが、それを話してどうなる?重傷の彼女に、さらに重い絶望を背負わせ、恐怖させるだけではないのか?
(動けない。……何も、選べない)
語るべき言葉も見つからず、取るべき行動も見えない。
完璧な詰みの盤面が、カインの思考を押し潰していく。
「……カインさん?」
マリアが、ふと動きを止めたカインを不思議そうに見上げる。
「……いや、なんでもない」
カインは、表情を取り繕い、再び粥をすくった。
だが、その金色の瞳からは、光が失われつつあった。
粥の湯気の向こうで、カインは一人、深すぎる苦悩の闇へと沈んでいく。
その沈黙が、やがて二人の間に見えない壁を作ることになるとは、この時のマリアはまだ知る由もなかった。




